第10話 軋み
制服に着替えてからふたたび家を出たときには、白っぽい空に朝日が昇っていた。
腕時計に目をやると、七時半を少し過ぎたところだった。
もちろん倉田より先に登校してしまったら意味がないけれど、もし他のクラスメイトが、おれより先に落ち込む彼女を見つけて慰めでもしていたらそれはそれで気に食わないので、ちょっと急ぎ足になる。
校門のところには、まだ風紀委員は一人も並んでいなかった。駐輪場も閑散としており、人影は見あたらない。
教室に向かう前に彼女の下駄箱を覗いてみた。そこにまだ靴がなかったらどこかで適当に時間をつぶさなければと思っていたけれど、見慣れたスニーカーはしっかりとそこに並んでいた。
おれはスリッパに履き替えてから教室へ向かった。
教室にいた倉田は、泣きも倒れもしていなかった。ただ、戸口の側で凍ったように立ちつくしていた。
肩からずり落ちたのか、鞄が彼女の足下に無造作に転がっている。けれど彼女にそれを拾う気はないようだった。ただ食い入るように自分の席をじっと眺めている視線は、縫いつけられたかのように、そこからみじんも動かない。自分の目にしているものが、まだよく理解できていないようにも見えた。
「……倉田?」
おれは教室に入って彼女の隣に立った。
名前を呼べば、そこでようやく我に返ったように、倉田がこちらを振り向く。
「な、がはら、くん」
か細い声が、戦慄く唇から漏れる。その顔は今にも倒れてしまいそうなほど青ざめていて、かわいそうに、とおれはまた他人事みたいに思った。
「あ、あの、あれ」
白い手が震えながら上がって、廊下際の席を指さす。おれは促されるままそちらへ目をやった。そこにはもちろん、一時間前と変わらず、赤く汚れた彼女の机があった。
朝日に照らされたその色は、暗い中で見るよりいっそう目についた。
乱暴なほど目に焼きつくその強さに、なんだか自然と眉をひそめてしまう。
塗料はこの一時間ですっかり固まったらしい。まるで、もともと赤く塗られて作られたかのようにも見えるその机をしばし眺めてから、おれは彼女のほうへ視線を戻した。眉間に軽くしわを寄せる。
「……朝来たら、ああなってたの?」
白々しく尋ねてみれば、倉田はこくりと無言で頷いた。それから机を指さしていた手で、今度は自分の口元を覆った。
「どう、しよう」
震える声で呟く。時間が経つにつれ状況が呑み込めてきたのか、彼女の顔からますます血の気が引いていくのがわかった。混乱した様子で繰り返す。
「どうしよう、永原くん」
おれは彼女の目を見つめ返した。縋るようにじっとおれを見つめるその視線になんとなく満足しながら、「大丈夫だよ」とあの日と同じように口を開こうとしたときだった。
「えっ、なにこれ!」
遮るように、甲高い声が響いた。
倉田がびくっと肩を弾ませ、声のしたほうへ視線を飛ばす。
おれもちょっと驚いて振り返ると、教室の戸口のところに一人の女子生徒が立っていた。このクラスの学級委員でもある高橋だった。
彼女の顔を見て、おれは少しがっかりする。どうせなら佐々木あたりのうるさい女子が来てくれればよかった。そうしたらきっと一気に騒ぎを大きくしてくれただろうに。
「なに、あれ。イタズラ?」
高橋は大きく見開いた目で倉田の机を凝視しながら、ぎょっとしたように声を上げる。
「うん、多分」とおれは曖昧に相槌を打った。
彼女はしばし呆然とした表情で塗料で汚れたその机を眺めていたけれど、やがてけわしい様子でぎゅっと目を細めると、こちらへ視線を戻した。
「……ねえ、あれって」慎重な声で問いかける。
「倉田さんの席、だよね?」
倉田はまた無言でこくりと頷いた。相変わらず手のひらで口元を覆ったまま、足下に視線を落としている。
高橋は眉を寄せてそんな彼女の姿を見つめてから、今度はおれのほうへ視線を移した。
「朝来たときには、もうあんなふうになってたの?」
さっきのおれと同じことを訊いてくる彼女に、うん、と短く頷く。
「おれより倉田のほうが早く来てたんだけど、そのときにはもうああなってたって」
「そっか……」
高橋はけわしい表情で相槌を打って、ふたたび倉田の机に目をやった。
「ひどいね」と顔をしかめて呟く。心の底から痛ましげな声だった。
やがておもむろに机のほうへ歩いていった彼女は、突然、塗料にまみれたその机をためらいなく持ち上げた。そこで椅子も汚れていることに気づくと、いったん机を下ろし、机の上に椅子を重ねる。いきなりなにをしだしたのかと、おれが困惑して彼女の行動を眺めていると
「とりあえずさ、あたし今から特別教室行って、他の机と代えてくるね」
高橋はきびきびとした調子で告げて、ふたたび机を持ち上げた。そうして塗料が制服に付かないよう気を遣いながら
「この机じゃ授業受けられないし。それにこのままにしておいたら、みんなが登校してきて大騒ぎになっちゃうかもしれないから」
そこでようやく彼女の意図を理解したおれは、さすがよく気の利く子だな、と舌打ちしたい気分になりながら相槌を打った。
こんな嫌がらせを受けたことをクラスメイトたちに知られるのは、倉田が嫌がるだろうということも察したらしい。おれとしてはできるだけ多くの人間に見ておいてほしかったけれど、ここで彼女の申し出を断るのもおかしいので
「じゃあおれが持っていくよ。重いでしょ、机」
「ううん、いいよ。あたしが持っていく。それより永原くんは」
高橋はきっぱりとした調子で首を横に振ってから、ふっと倉田のほうを見た。
「倉田さんが顔色悪いみたいだから、保健室に連れて行ってあげたほうがいいかも」
そう言われ、おれもちらっと倉田の横顔を窺った。それから納得して頷いた。
先ほどから口元を押さえてうつむいている彼女は、これ以上この教室にいれば、いよいよ本当に倒れてしまいそうに見えた。
「わかった、じゃあそうする。机、一人で運べる?」
「大丈夫大丈夫。それにほら、今はあたしより、永原くんが傍にいてあげたほうがいいと思うし」
そう言って大人びた笑みを浮かべる彼女に、おれは曖昧に笑って頷いてから
「ありがとう、高橋」
「いいよ。永原くんは倉田さんのことよろしくね」
感じの良い笑顔で首を振ってから、高橋は机を抱えて教室を出て行った。
言われたとおり倉田を連れて保健室へ行くと、ドアには「外出中」の札が掛かっており、鍵も閉められていた。仕方なくおれは倉田にちょっと待っているよう言い置いてから、職員室へ向かった。
ちょうど副担任の先生がいたので、事情を話して鍵を借りることができた。お礼を言って職員室から出たとき、ふと廊下の向こうから歩いてくる人物が目に留まった。足を止める。
「おはよう、八尋」
声を掛けると、彼女は顔を上げてこちらを見た。
「あれ、永原くん」とちょっと驚いたように呟く。
「おはよう。早かったんだね」
「うん、ちょっと用事があったから。八尋は今からあいさつ運動?」
「そうだよー。今から三十分間、頑張ってみんなにあいさつしてこないと」
八尋はそう言って笑うと、「じゃあね」と軽く手を振っておれの横を通り過ぎようとした。
「ねえ、八尋」
おれはもう一度彼女を呼び止めた。
八尋は足を止めると、「ん?」と聞き返しながらこちらを振り向く。おれは軽く首を傾げ、彼女の肩あたりを指さすと
「なんかゴミがついてるよ、肩のとこ」
「えっ、どこどこ?」
言われたあたりを自分で払おうとする彼女に、おれはにこりと笑って手を伸ばした。右手は下ろし、代わりに、先ほどからずっと拳を握ったままだった左手を開く。そしてその手で、彼女の制服に触れた。
親指の腹を押しつける。そのまま少し力を込めて横にすべらせれば、指の通った跡に、鮮やかな赤い線ができた。
「……はい、とれた」
言うと、八尋は「ありがとう」と明るく笑って礼を言った。おれも笑顔で首を振る。そうして早足に廊下を歩いていく彼女の背中を見送ってから、八尋とは反対方向に廊下を進んだ。
保健室へ戻る前に、水道で手を洗う。
左手の、親指の腹。教室を出る前に赤く汚しておいたそこを、蛇口からあふれ出る水流の下にさらす。そうして固まりかけていた鮮やかな色の塗料を、時間をかけて削ぎ落とした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます