第9話 赤
『今日はごめんね』
その日の夜にかかってきた電話で、開口一番、倉田はそう言った。電話越しでも緊張が伝わってくる声だった。
なにを謝られたのかよくわからず、「なにが?」と聞き返せば
『あの、今日の放課後』
彼女はたどたどしい口調で答えた。
『永原くんに、嫌な思いさせたんじゃないかと思って』
そこでようやく思い当たって、ああ、と小さく呟く。それからできるだけ優しい口調になるよう努めて、「いいよ」と返した。
「気にしてないから」
言うと、電話の向こうで、倉田がほっとしたように息を吐いたのがわかった。
彼女の用件はそれだけだったようで、言葉が途切れると彼女はしばし次の話題を探すように黙っていた。
それからふと思い出したように
『あ、いきなりこんな時間にごめんね』
と今度は別のことを謝った。おれはもう一度「いいよ」と優しく返す。
そこでまた言葉が途切れた。本当に他の用事はなにもなかったらしい。やがて、倉田は困ったように『えっと』と呟くと
『あの、それだけ、謝らないとって思っただけから』
「うん」
『じゃあ、急に電話してごめんね。また明日』
そう言って電話が切れそうになったので、遮って「ねえ倉田」と声を投げた。
「明日さ、何時くらいに学校来る?」
唐突に尋ねると、倉田はきょとんとした様子で
『え? 多分いつもどおり、八時くらいには着くと思うよ。どうして?』
「いや、明日から校納金の集金日だから。ちょっと早めに来といたほうがいいんじゃないかと思って」
言うと、倉田ははっとしたように『あ、そうだよね』と呟いた。それから
『じゃあ、えっと、七時半くらいに着くように行こうかな』
と答えを変えた。七時半、とおれは口の中で彼女の言葉を繰り返す。それから「わかった」と頷いて
「おれも多分それくらいの時間には行くと思うから」
『うん、ありがとう』
「じゃあまた明日ね」
『あ、永原くん』
電話を切ろうとしたら、今度は倉田がおれの言葉を遮って声を上げた。
なに、と聞き返せば、彼女は少し口ごもったあとで
『今日は、本当にごめんね』
と再度謝ってきた。
おれは少しの間黙って窓の外を見つめた。それから電話の向こうにいる彼女へ向けるつもりで、穏やかな笑みを浮かべてみる。
「……いいよ」
喉を通った声は、笑ってしまいそうなほど優しかった。
「気にしてないよ、全然」
言うと、倉田は今度こそ安心したように相槌を打った。短い挨拶を交わしてから電話を切る。
声が途切れると、おれは携帯電話を無造作にベッドへ放った。そしてそこに広げた、ずいぶん久しぶりにクローゼットから引っ張り出した黒いジャージを、しばらくじっと眺めていた。
日が昇る前の暗い校舎に足を踏み入れるのは、初めてのことだった。
校内には当然人の姿など一つもなく、どこもしんと静まりかえっている。歩いていると、自分の足音がいやに大きく反響した。
日の差し込まない廊下は、数メートル先もおぼろげなほど暗い。電気を点けたくなったけれど、もしそれが誰かの目に留まったりしたら面倒なのでやはりやめておいた。
脱いだ靴を右手にぶら下げたまま、外から漏れる外灯の光だけを頼りに廊下を進む。階段を上るときはさすがに慎重になった。うっかり足を踏み外したりしないよう時間をかけて階段を上っていると、左手に提げたビニール袋の中で、塗料の缶がかたんと音を立てた。
二年一組の教室は廊下のいちばん手前側にあり、階段を上りきったあとはすぐに辿り着く。
戸を開けて中に入ると、軽く教室を見渡した。毎日過ごしているはずのこの場所も、窓の外に暗い空が広がっているというだけで、どこか見知らぬ場所のようだった。
廊下側の、前から四列目。彼女の席の場所は覚えていた。暗くても間違えることはない。
迷うことなくその席のほうへ歩いていくと、机の横に立つ。右手に持っていた靴を床に置いた。ビニール袋から塗料の缶を取り出す。
昨日の放課後に美術室から持ち出しておいたそれは、手のひらに載るくらいの大きさしかなかったけれど、蓋を開けてみると中には思いのほか大量の塗料が詰まっているのが見えた。
おれは缶を持ち上げた。机の上にかざす。
ゆっくりと手を傾ければ、そこに満たされていた液体も、動きに合わせてゆっくりと斜めに傾ぐ。やがて縁まで迫ったそれは、一筋、缶の端を伝い、机の上へ落ちた。ぱたっと軽い音がして、小さな水たまりができる。直後、しがみつく力を失った塗料が一気に缶からあふれ出した。
小さな水たまりはあっという間に新たな塗料に塗り重ねられ、消える。代わりにそこには、赤色で埋め尽くされた海ができた。
飛沫が飛んで椅子と床まで汚れたけれど、かまわなかった。その小さな缶が空っぽになるまでじっとそうしていたら、いつの間にかおれの服にもずいぶんと塗料が飛んでいた。
軽くなった缶をビニール袋に放り込んでから、自分の身体を見下ろしてみる。腹にも腕にも飛沫は思いのほか派手に散っていて、やっぱり制服を着てこなくてよかったとぼんやり思った。
ジャージに付いた塗料を指先で拭ってから、ふっと窓のほうへ目をやる。見ると、空がうっすら白み始めていた。
おれは床に置いていた靴を拾った。それから教室を出ようとして、ふと彼女の机のほうを振り返る。これを目にした瞬間の彼女の表情を想像した。
美術室にはさまざまな色の塗料があったのだけれど、その中から赤色を選んだことにとくに意味はなかった。
ただ少しだけ、他の色より目に焼きつくのではないかと思っただけ。
だけど実際目にしてみると、それは少しどころではなかった。机の縁からしたたり落ち床にまで広がったその赤は、一見すると血のようにも見えて、自分でやったくせに思わず眉をひそめてしまいたくなった。
彼女ならどうするのだろう、と意識のどこか遠いところで考える。泣くだろうか。もしかしたら倒れてしまうかもしれない。あきれるほど繊細で幼い、彼女なら。
ああ、かわいそうだな。
おれは心から他人事みたいに、そんなことを思っていた。
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