第8話 彼女

 最初から、倉田の答えなんて聞く気はなかった。

 伸ばした手でそのまま携帯電話を掴み、彼女の手からもぎ取る。倉田が驚いたように肩をびくつかせたのがわかったけれど、かまわず携帯を操作し、今し方届いたメールを開いてみた。

 来ていたのは、羽村から今どこにいるのかと尋ねる短いメールだった。

 おれはしばしその文面を眺めたあとで、続いて過去の受信履歴を開く。まだアドレスを交換してからそう日にちが経っていないらしい。羽村からのメールは少なかった。一番古いメールは三日前の日付で、県大会の日程と場所を知らせるものだった。


「ねえ倉田」

 画面に目を落としたまま、口を開く。

 受信履歴を一通り見終わったあとは、続けて送信履歴を開いてみた。最初はちょっと手間取っていたこの携帯の操作も、いつの間にかすっかり慣れてしまった。

「県大会、応援に行くの?」

 尋ねながら、答えは彼女から聞くより先に見つかった。

 その日なら大丈夫そうだから行きたい、と明るく返すメール。日付は三日前になっている。

 顔を上げると、窺うようにじっとこちらを見ていた倉田が、かすかに表情を引きつらせてうつむいた。しばらくして、うん、と小さな声が返ってくる。

「行きたいなって、思ってるよ」

「おれに黙って行く気だったの?」

 続けて尋ねると、倉田は弾かれたように顔を上げた。ぶんぶんと首を横に振る。

「違うよ、言おうと思ってたんだけど、今日まで、ちょっと忘れてて」

「忘れてた?」

 思わずあきれた調子で彼女の言葉を繰り返してしまうと、倉田はよりいっそう表情を引きつらせ、「ごめんなさい」とあわてたように謝った。

 それからなんとか空気を変えようとしたのか、無理に明るく努めたような声で

「あの、よかったら、永原くんも一緒に行かない、かな」

 出し抜けにそんなことを言ってきた。

 ぽかんとして彼女の顔を見れば、倉田は取り繕うような笑みを浮かべ

「県大会、冬休みに入ってからなんだけど、もしその日なにも予定がなかったら」

「おれが羽村の応援に?」

 聞き返したおれの声は、自分でもちょっと驚くほど冷たかった。

 倉田も驚いたように一瞬顔を引きつらせ、言いかけた言葉を切る。「あ、えっと」だけどなんとか笑みは残したまま、あわてたように言葉をつなぐと

「別に浩太くんの応援ってわけじゃなくてもいいから、せっかく県大会に進んだんだし、東中の応援に」

「行かないよ」

 素っ気なく言い切れば、倉田は今度こそ押し黙った。

「倉田も」おれは彼女の顔を見て、にこりと笑いかける。

「行かないよね? 応援なんて」

 え、と倉田は困惑したような声を漏らして、おれの顔を見た。

 おれもまっすぐにその目を見つめ返し、同じトーンで繰り返す。今度は質問ではなかった。

「行かないよね」

 彼女はじっと黙り込んだまま、おれの顔を見つめていた。

 やがて足下へ視線を落とし、軽く唇を噛む。見慣れたその仕草を眺めてから、おれは携帯に視線を戻した。開いていた送信履歴の画面を閉じる。

 そうして倉田に携帯を返そうとしたところで


「いや、だ」

 押し出すような声がして、おれは顔を上げた。

「応援、行きたいよ」

 足下を睨んだまま、だけど思いのほかはっきりとした口調で、彼女は言った。

「だって」必死に言葉をたぐるようにして、続ける。

「友達なんだよ。友達がせっかくそんな大きな大会に進んだんだもん。応援したいよ。県大会ってすごいことだし、それに私、浩太くんが一年生の頃から県大会目指して頑張ってたの、知ってるから」

「違うよ」

 静かに彼女の言葉を遮ると、倉田はなにを言われたのかわからなかったらしく、「え?」と聞き返しながら顔を上げた。

 おれは彼女の目をまっすぐに見据えた。優しく笑みを向ける。

「友達“だった”んだよ」

 その言葉に、倉田はまるで叩かれたかのように顔を歪めた。大きく首を横に振る。

「そんな、簡単に」泣き出しそうな、けれど彼女にしてはずいぶん強い調子の声で、言い返す。

「簡単に、捨てられないよ。ずっと昔から一緒にいたんだもん。幼稚園の頃から、十年以上も、家族みたいにして、ずっと」

「だから?」

 冷たく突っ返すと、倉田は驚いたように口を噤んだ。おれは今度こそ浮かべていた笑みを消し去り、無表情に彼女の顔を見つめる。

「十年一緒にいたから何なの。この数ヶ月、あいつが倉田になにをしてくれたの。ねえ倉田、羽村はさ、倉田のことなんてちっとも大事に思ってないんだよ。今になって倉田を許すなんて言い出したのも、ただ八尋が」

 そこでふと言葉を切ると、倉田はかすかに青ざめた顔をして、じっとおれを見ていた。

 やがて途方に暮れたように足下へ視線を落とし、「どうして」と小さな声で呟く。それから訴えかけるような口調で、口を開いた。

「私、今は、永原くんのことが、いちばん好きだよ」

 おれは一瞬あっけにとられて彼女の顔を見た。倉田は縋るように視線を上げ、じっとおれの目を見つめると

「浩太くんへの気持ちは、永原くんのこと好きな気持ちとは、もう、全然違うんだよ。ただ浩太くんは友達だから、頑張ってるなら応援したいって思うだけで」

 ひどく真剣な口調で、そんなことを言った。

 そこでようやく彼女の訴えたいことを理解したおれは、思わず顔を伏せて苦笑してしまった。そんなことは知っている、と心の中で呟く。

 いちばんなのは当たり前だ。彼女にはおれしかいないのだから。最初から選びようがないのだ、倉田には。


 おれはふたたび携帯の画面に目を落とした。

「ねえ倉田」

 アドレス帳を開き、そこに並ぶ名前を眺めながら、静かに口を開く。

「その、十年って、そんなに大事なものなの」

 尋ねると、え、と倉田が小さく声をこぼした。

 おれは彼女の顔を見て、軽く首を傾げる。

「たしかにその十年間は、倉田は羽村にいろいろ世話になってきたのかもしれないけど。でも羽村は倉田を見捨てて、この数ヶ月間、倉田になにもしてくれなかった。その間、倉田と一緒にいたのはおれでしょ。その数ヶ月のことは、倉田にとって、どうでもいいことなの。なにも関係ないの」

 倉田は戸惑うように眉を寄せ、視線を落とした。

 ――昔から、ずっと。先ほど聞いた八尋の言葉が、倉田の声と合わせて頭の中に響く。

 胃の底に冷たく重たいなにかが流れ込んでくるような、嫌な感覚がした。奥歯を噛みしめる。

 いちばんになりたいわけではないのだ、最初から。

 おれはずっと、彼女の唯一になりたかった。一人ではなにもできない、だけど他に頼るものなんてなにもない、だから必死におれだけに追いすがってくれるような、おれがいなければ息すらできなくなってしまうような、おれが欲しいのは、そういう彼女だった。

 だから邪魔なのだ。いつだって、あの二人は。


「どうでもよくなんか、ないよ。ただ」

 ゆるゆると首を横に振りながら、倉田がまだなにか言い募ろうとする。

 だけどおれは聞かなかった。手元の携帯電話へ視線を戻す。それから、「ねえ倉田」と彼女の言葉を遮って口を開くと

「おれのことがいちばんだって言うなら」

 これ以上なく優しい声で、言葉を継いだ。

「言うこと、聞いてよ」

 倉田はうつむいて足下を見つめたまま、じっと黙り込んだ。

 彼女がそれ以上反論しないことはわかっていた。おれはアドレス帳の中から羽村の名前を見つけると、カーソルを合わせる。そうして削除の文字を探していたところで、その前にメールも着信も拒否設定にしてしまおうかとふと思い立ち、いったん前の画面に戻った。

 今度は設定の画面を開く。さすがに慣れない操作でちょっと手間取った。

 倉田はおれがなにをしようとしているのかだいたい察しているみたいだったけれど、なにも言わずにうつむいたままだった。

 しばし苦戦したあとでようやく拒否設定の画面を開くことができたおれは、それから改めて羽村の名前を探そうとしたけれど


「――なにやってんだよ」

 ふいに響いた声に、手を止めた。

 振り返ると、教室の戸口のところに羽村が立っていた。

 肩に鞄を提げ帰り支度を済ませた格好の彼は、あからさまに怪訝な表情でこちらを覗き込んでいる。そしておれの手元に目を留めた途端、露骨に眉をひそめ、「それ」と声を投げてきた。

「歩美の携帯だろ」

 言いながら、羽村は刺々しさを隠しもしない目でおれの顔を見る。

「なんで永原が持ってんの」

 咎めるような口調で訊いてくる彼に、横から「あ、あの」と倉田が間髪入れずに口を挟んだ。同時に手を伸ばし、あわてたようにおれの手から携帯を奪う。それからいそいでぎこちない笑みを浮かべ

「わからない操作があったから、永原くんに教えてもらってたの。私、まだ携帯使い始めたばっかりで、慣れてなくて」

 咄嗟に彼女がそんな嘘をついたことに、おれはちょっと面食らってしまった。声は強張っていたし、おまけに変に早口で、上手い嘘とは言えなかったけれど、それでも彼女が迷う間もなく嘘をつけたということが驚きだった。


 だけど、羽村に倉田の言葉を信じた様子はなかった。

 ふうん、と寒々しい調子で相槌を打って、けわしい表情でおれを見つめる。言いたくてたまらないことがあるようだったけれど、結局思い直したらしい。

 しばしの沈黙のあとで、気を取り直したように倉田のほうへ視線を移した彼は

「なあ歩美、今日一緒に帰らねえ?」

 出し抜けにそんなことを言った。

「へ?」と倉田が驚いたように聞き返す。羽村はにこりと笑って身体ごと彼女のほうへ向き直ると

「そういや今日から部活動停止期間だったんだよ。どうせ今日は歩美の家誰もいないんだし、もう晩飯まで俺の家にいればいいじゃん。母さんもさ、なんか久しぶりに歩美とゆっくり話したいとか言ってたし」

 倉田は戸惑ったように「でも」と呟き、ちらとおれの表情を窺った。

 羽村はその些細な仕草に気づいたようで、またかすかに眉を寄せ、おれのほうに視線を戻す。だけど口調は軽い調子で、「なあ永原」と口を開くと

「いいよな? 別に、そうしても」

 おれは黙って彼の目を見つめ返した。羽村はみじんも視線を揺らすことなく、じっとこちらを見据えている。奇妙に静まりかえったその目には、どこか試すような色があった。


 しばらく間を置いてから、おれはにこりと笑みを向ける。そうして「いいよ」と短く答えた。

 それに羽村も小さく笑みを返してから、倉田のほうを向き直る。

「じゃあ歩美、鞄とってこいよ」

 一刻も早く彼女をこの場から立ち去らせたいかのような調子で告げる彼に、「あ、でも」と倉田は困ったように棚に置いた雑巾に目をやる。

「まだ掃除……」

「もういいだろ、とっくに掃除時間終わってんだし。だいたい他のやつらはみんないなくなってんじゃん」

「あ、それは」と倉田は口を開きかけたけれど、途中で思い直したように言葉を切った。

 代わりに小さく頷いて、おれのほうに顔を向ける。それから強張った笑みを浮かべ

「じゃあ、あの、ごめんね。永原くん」

 おれは「いいよ」と笑顔で首を振った。ぎこちない笑顔になったのは、自分でもわかった。

 倉田も気づいたのか、一瞬だけふっと彼女の顔が引きつる。だけど羽村の目を気にするように彼女はすぐに視線を逸らすと、棚に置いていた雑巾を手に取った。

「ねえ、それ」おれはふと思い立ち、彼女の掴む雑巾を指さす。

「おれが代わりに片付けとこっか」

 言うと、え、と倉田が驚いたように声を上げた。おれは笑って彼女の手から雑巾を取ると

「もういいから、早く鞄とってきなよ。羽村待たせてるんだし」

 軽い調子で言えば、倉田はしばし困惑した表情でおれを見つめてから、遠慮がちに頷いた。

「ありがとう」と相変わらず強張った笑みのまま告げて、踵を返す。それから教室の入り口のところで待つ羽村のもとへ歩いていった。

 倉田と一緒に教室を出ていく際、一瞬だけ羽村がこちらを振り返った。無表情におれを見つめた彼の目は、その一瞬でも充分わかるくらいに冷たかった。


 二人が出て行ったあと、倉田が残していった雑巾を手におれも理科室を出た。

 外の水道へ向かおうとして、途中、美術室の前でふと足を止める。

 戸を開けてみると、すでに掃除は終わったらしく、中には誰もいなかった。

 しばしその殺風景な教室内を見渡したあとで、背面に並ぶ棚のほうへ目をやる。そこに置かれているパレットやら絵の具は、美術の時間、生徒たちが自由に使っていいことになっているものだ。

 おれは乱雑に積み上げられたそれらの画材を少しの間眺めてから、また、戸を閉めた。

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