第7話 雑音

 その日の放課後は、専門委員会のため音楽室ではなく会議室に向かった。

 クラス順に並べられた席に着こうとしたところで、ふと後ろの席に座っている人物に目を留め、「あれ」と声を上げる。

 彼女のほうもすぐに気づいて顔を上げると、「あれっ」と同じように声を上げた。

「永原くん、環境委員だったんだ?」

 そう尋ねる八尋の目は、まっすぐにおれを見ている。目が合っても、気まずそうに逸らされることはない。その彼女の反応に、やはりあのとき八尋が避けたのは、おれではなく倉田だったらしいことを改めて確認しながら

「うん。八尋も?」

「ううん、わたしはクラスの子の代理。今日、環境委員の子がお休みだったから」

 そっか、と相槌を打っておれは席に座った。

 教室には数人の生徒しか集まっておらず、まだ当分委員会が始まりそうな気配はなかったので、八尋と会話を続けることにして後ろを向くと

「じゃあ八尋は何委員なの?」

「わたしはね、風紀委員。あいさつ運動とかやってるんだよ」

「あいさつ運動?」

 風紀委員の仕事としてはあまりイメージにない単語が出てきて、きょとんとする。八尋は話したくてたまらないといった様子で強く相槌を打つと

「ほら、今、あいさつ週間っていうことになってるでしょ。あれのために、風紀委員は毎朝校門のところに立ってなきゃいけないんだよ。結構大変なんだから」

「ああ、あの校門に並んでる人たちって、風紀委員だったんだ」

「そうだよー。毎日、七時半から八時まで並んでいないといけないの。おかげで最近はずっと六時に起きてるんだよ」

 顔をしかめながらも軽い口調で愚痴をこぼす八尋に、「大変だね」と合わせるように苦笑して相槌を打つ。

 それからふと視線を落としたとき、彼女の足下に鞄が置かれているのを見つけた。委員会が終わったらそのまま下校するつもりらしい。


「……八尋は」

「ん?」

「今日、羽村と一緒に帰るの?」

 唐突な質問に八尋は少しきょとんとして、ううん、と首を横に振った。

「別々に帰るよ。こうちゃんは部活だし」

「でも今って、テスト前の部活動停止期間じゃないっけ」

「えっ、そうだっけ」

 おれの言葉に八尋は驚いたように声を上げ、手帳を取り出した。ぱらぱらと捲り、十一月と十二月のページを確認する。それから、「あ、本当だ」と呟いた。

「もうテスト一週間前なのか。すっかり忘れてた」

「せっかく部活ないんだし、一緒に帰ればいいのに」

 何気ない調子で言ってみると、八尋は、んー、とちょっと考えてから

「いや、でも今日はいいや。ちょっと寄りたいところあるし。こうちゃん付き合わせるのは悪いから」

 あっさりとした調子でそう返した。そっか、と相槌を打ってまた視線を落とすと、相変わらずその白い犬は奇妙な存在感をもって視界をちらついていた。


「今日、倉田が」

「え?」

 唐突に話題を変えると、八尋がちょっと驚いたように顔を上げた。

「羽村の家で晩ご飯食べるんだって。知ってた? 八尋」

 八尋はしばし不意打ちを食らったような顔をしていたけれど、やがて「あ、そうなんだ」と軽い調子で相槌を打ち

「じゃあおばさん、今日も夜勤なんだ。大変だな」

 独り言のような口調でそう呟いた。反応はそれだけだった。おれは彼女の顔を見つめ返し、軽く首を傾げる。

「八尋って、そういうの気にならないの?」

 尋ねれば、八尋は心底きょとんとした顔でおれを見た。

「え、そういうのって?」

「倉田が羽村の家に行って、晩ご飯食べるとか」

 言うと、八尋はようやくおれの訊きたがっていることを理解したように、ああ、と頷いてから笑った。それから迷う間もなく、「気にならないよ」と答えを返す。

「昔からずっとそうやって過ごしてきたもん。わたしの家も両親が共働きだから、二人とも帰りが遅くなる日はね、よく、こうちゃんの家か歩美ちゃんの家で晩ご飯ごちそうになるんだ」

「今でも?」

「うん、今でもたまに」

 答えかけて、八尋は口を噤んだ。ふいに表情が少し強張る。先ほど、廊下で倉田とすれ違ったときと同じ強ばり方だった。

 しばらく間があってから、「まあ」と八尋はいくぶんぎこちない調子でようやく言葉をつなぎ

「歩美ちゃんの家には、最近行ってないけど」

 呟いて、寂しげな笑みを浮かべた。

 おれが黙って彼女の顔を見ていると、八尋はふと思い出したように

「ねえ永原くん、歩美ちゃん、わたしのことなにか言ってないかな」

「なにかって?」

「いや、なんでもいいんだけど、なにかわたしの話、してないかなって……」

 難しい表情で顔をうつむかせながら、もごもごと呟く。なんだかすでに訊いたことを後悔している様子だった。おれは少し考えてから

「してないよ、なにも」

 短く答えを返せば、八尋はうつむいたまま、「そっか」と複雑そうな声で呟いた。

「まあ、そりゃそうだよね」独り言みたいな調子でさらに続ける。その間に、彼女の視線が一瞬だけ鞄にぶら下がる白い犬のほうへ動いた。

「なんで?」

「あ、ううん、なんでも。気にしないで」

 聞き返すと、八尋はあわてたように顔の前で手を振りながら笑う。けれど寂しさは隠しきれない様子で、すぐに顔を伏せてため息をつく彼女に

「でも、前はよく八尋の話してたよ、倉田」

「え」

「だからおれも気になってたんだよね。なんで倉田、最近は八尋の話全然しなくなったのかなって。それにほら、さっきも」

 八尋が困ったような顔をするのもかまわず、おれはしらっとした口調でさらに続ける。

「廊下ですれ違ったとき、二人ともなんか様子おかしかったし。八尋、倉田となにかあったの?」

 尋ねると、八尋は、ううん、と呻くような声を漏らして頬を掻いた。困ったように笑いながら、視線を宙に向ける。

 またしばらく間ができた。やがて慎重に言葉を選ぶようにして口を開いた彼女は

「ちょっと、永原くんにだけは絶対言えないなあ。それは」

 きっぱりとした口調で、それだけ返した。

 そこまで言えばもう全部言ってしまったようなものだろうに、と思いながらも、おれはなにも気づかなかった振りをして「そっか」と相槌を打っておく。そうしてふと窓の外へ視線を飛ばしたとき

「あ、でもね、今度の県大会に」

 思い出したように八尋が口を開いた。彼女のほうへ視線を戻すと、八尋は少し明るい表情になって

「歩美ちゃんもこうちゃんの応援に来てくれるらしいから、せっかくなら一緒に行こうって誘おうと思ってるんだ」

 おれは黙って彼女の顔を見た。

 八尋は机の上に重ねた自分の手を見つめながら、「本当はね」と独り言に近い口調で言葉を継ぐ。

「仲直りしたいんだ、早く。いや、本当はもっと前に仲直りできてたはずなんだけど、わたしが上手いことできなくて、なんかずるずる先延ばしになっちゃって。ずっと何かチャンスないかなって思ってたんだけど、多分これが良い機会だから」

 話していくうちに強張っていた表情がほぐれ、代わりに八尋の顔には穏やかな笑みが浮かぶ。おれは黙ったまま、そんな彼女の顔を見つめていた。

 しばらくして、ふうん、と小さく呟く。視線を落とした。

「応援、行く気なんだ、倉田」

 うん、と八尋は明るい声で頷いた。足下に置かれた鞄へ目をやると、探すまでもなく、そこに下げられた白い犬も一緒に目に飛び込んでくる。

 次はちゃんと言うって、言ってたのに。

 口の中で低く呟いた言葉は、八尋の耳には届かなかったらしい。きょとんとして「え?」と聞き返してきた彼女に、「いや、なんでも」とおれは笑顔で首を振ってから、八尋のほうを向いていた身体を前へ向けた。



 委員会が終わったあとに教室へ戻ると、まだクラスメイトたちがほうきで床を掃いているところだった。

 おれは委員会で配られたプリントを後ろの掲示コーナーに貼り付けてから、またすぐに教室を出る。それから理科室に行ってみると、こちらでは倉田が一人で棚を拭いていた。見渡してみても他にクラスメイトの姿は見あたらない。

「他のみんなは?」

 中に入るなり彼女に尋ねると、倉田が驚いたようにこちらを振り向いた。「あ、永原くん」と目を丸くして呟く彼女に

「なんで倉田一人で掃除してるの?」

 言葉を換えて同じ質問を繰り返せば、倉田はあっけらかんとした調子で

「なんか、他のみんなは、今日どうしても外せない用事があるって。今は机を簡単に拭くだけでいいから、私一人でも大丈夫そうだったし」

「まさかずっと倉田一人でやってたの? 掃除」

 眉を寄せて尋ねると、倉田はあわてたように首を横に振った。

「違うよ、今日だけ。今日はたまたまみんな用事があるって」

 おれがまったく信じていない顔をしていたのか、倉田は困ったように笑って「本当だよ」と重ねる。それから、「えっと、斉藤さんは歯医者さんで……」と用事の内容を説明し始めようとしていたけれど、途中で唐突に言葉を切った。低いバイブ音が、おれの耳にもかすかに届いた。

「あ、ごめんね」

 早口に謝ってから、倉田はあわててスカートのポケットに手を入れる。そしてそこから携帯電話を取り出し画面を見た。メールの受信を示すオレンジ色のライトが点滅しているのが、ちらっと見えた。


 おれは倉田のもとへ歩いていくと、彼女の前に立った。

 届いたメールの確認をしようとしていた倉田が、気づいて顔を上げる。それからきょとんとした表情でおれを見た。

 おれは彼女の目を見つめ返し、にこりと笑う。

「ね、倉田」

 手を差し出しながら、告げる。

「それ、貸して?」

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