第6話 痛み

 十一月も終わりに近づき、そろそろ校納金の集金日が迫ってきたらしい。

 休み時間に倉田の席へ行くと、彼女は千円札と五百円玉を数枚ずつ机の上に広げて、なにやらその数を数えているところだった。

「なんかそれ、結構目立ってるよ」

 声を掛ければ、「へ?」と素っ頓狂な声を立てて倉田が顔を上げた。

「そのお金」と、おれは苦笑しながら机の上に並ぶ千円札と五百円玉を指さす。

「教室でそんなふうにいっぱいお金広げてると」

 言うと、倉田も机の上に視線を戻し、それから我に返ったように顔を赤らめた。

「あ、そ、そうだね」呟いて、あわてて広げていたお金をまとめ始める。その間に、おれは空いていた彼女の前の席に座った。

「それ、校納金?」

「あ、うん。さっき、もう何人か持ってきてくれたんだ」

「でも集金日って明日からだよね」

「うん。だけど忘れるといけないから、早めに持ってきたんだって」

 ふうん、とおれは相槌を打ってから

「集金日くらい守ってくれればいいのにね」

 ついそんなことを呟いてしまうと、倉田はちょっと困ったように笑った。

「ううん、でも」とすぐに首を振り

「早めに持ってきてもらうのは、ありがたいから」

「まあ、たしかに遅れるよりはいいか」

 うん、と倉田は明るい声で頷いて、まとめたお金をそれぞれの集金袋に戻した。それから今度は集金表を取り出し、さっき校納金を持ってきたらしいクラスメイトの名前にチェックを入れていく。

 集金係としての初仕事だからか、やたらはりきった様子でその作業をしていた倉田は、途中でふと手を止め

「あ、でも集金袋もらってこないと」

 と思い出したように呟いた。

「集金袋? これじゃなくて?」

「うん、個人用のじゃなくて、クラス用の大きいやつ。今日の放課後もらいに行こうと思ってたんだけど、もうお金持ってきてくれた人もいるし、やっぱり今からもらいに行ってくるね」

 倉田はそう言うと、作業の途中だった集金表も置いて立ち上がろうとしたので

「いいよ、おれがもらってくる。職員室だよね」

 彼女を押し止め、代わりに立ち上がった。だけど倉田のほうも、「え、いいよ」と間髪入れず首を振って一緒に立ち上がり

「私が行くよ」

「いや、おれ、どうせ職員室に行く用事あったから」

「用事?」

「うん、数学の宿題出し忘れてたから、持って行かないと」

 そう言うと倉田は笑顔になって、「あ、それなら」と言った。

「私が一緒にその宿題も持って行くよ。榎本先生に出せばいいんだよね?」

「いいよ、おれが行ってくるって」

 変に意地になって返しながら、ふと、前にも倉田とこんなやり取りをしたことを思い出した。

「ううん、本当にいいよ」と倉田のほうもまた同じ言葉を返す。なんだかこの調子だと、あのときのようにまた埒があかなくなりそうだった。おれは苦笑すると、「それなら」と早々に折れて提案する。

「もう二人で行こっか」

 倉田はちょっと恥ずかしそうに笑って、「そうだね」と頷いた。それからもう一度席に座り、机の上に広げたままだった集金表を片付け始めた。


 おれは彼女の作業が終わるのを待ちながら、ふっと視線を廊下のほうへ飛ばす。

 そのとき、ちょうど羽村が後方の戸から教室に入ってきた。

 一度だけ、心臓が硬い音を立てる。思わず倉田のほうへ目をやったけれど、手元に視線を落としている彼女はまったく気づいていないようだった。

 羽村は入り口のところでいったん足を止め、教室を軽く見渡した。それから倉田の姿を認めると、すぐにこちらへ歩いてきた。

「歩美」

 ふいに掛かった声に、倉田は、へ、と驚いたように後ろを振り返る。

 そして羽村の顔を確認すると、途端に表情を強張ばらせ、戸惑ったように一瞬おれの顔を見た。

「な、なに?」と思い切り緊張した声で聞き返す倉田に、羽村のほうはあくまで軽い調子で

「なあ、日本史の教科書貸してほしいんだけど、もってる?」

 そのあっさりとした用件に倉田はほっとした様子で「あ、うん、もってるよ」と早口に頷く。それからすぐに引き出しを探り、言われたとおり日本史の教科書を引っ張り出した。

「はい」

 差し出された教科書を、羽村は「ありがと」と礼を言って受け取る。それからふと倉田の顔を見て

「いつまでに返せばいい?」

「あ、今日はもう日本史の授業ないから、いつでもいいよ。明日までに返してくれれば」

「そっか、わかった」

 じゃあありがと、と羽村はもう一度繰り返してから踵を返す。

 けれどその途中で、ふと思い出したように足を止めた。「あ、そうだった」呟いて、ふたたび倉田のほうを向き直る。

「今日さ、おばさん、夜勤なんだろ」

 唐突な言葉に、倉田がきょとんとしながら頷くと

「なら、今日は晩ご飯うちに食べに来いってさ。母さんが」

 羽村はあっさりとした調子でそんな言葉を続けた。

 え、と倉田は驚いたように目を見開き

「そ、そんな、悪いよっ」

「なに今更」

 あわてたように両手を顔の前で振る倉田に、羽村はあっけらかんと笑って

「昔から夜勤の日はよく食べに来てたじゃん。今日はおじさんも飲み会で遅くなるんだろ。つーかおばさんのほうから、今日は歩美のことよろしくって頼まれてるらしいし」

「だ、だけど」

 倉田があからさまにおろおろしておれの顔を見るものだから、羽村もこちらへ視線を向けた。それから、ああ、となにか思い当たったように呟き

「永原となんか約束でもあんの?」

 こういうときさらっと嘘がつければいいのに、倉田は「あ、そういうわけじゃないけど……」などと困ったように口ごもっていたので

「いいよ、倉田」

 おれは仕方なく口を開いた。

「行ってきなよ」

 短く告げると、倉田は心底驚いたような顔をして、こちらを見た。まじまじとおれの顔を見つめながら、あっけにとられたように訊いてくる。

「え……いいの?」

 おれは彼女の目を見つめ返し、いいよ、と笑顔で頷いてみせた。

 少し間があってから、彼女は嬉しそうな、けれどどこか戸惑いの色が混じる笑顔を浮かべる。それから、ありがとう、と言って羽村のほうへ向き直った。

「じゃあ、お邪魔するね。浩太くん」

 だけど、うん、と頷いた羽村の目は、なぜか倉田ではなくおれを見ていた。

 軽く眉を寄せ、考え込むような表情になる。それから少し沈黙が流れた。なにか言いかけたようだったけれど、結局思い直したらしい。

 やがて倉田のほうへ視線を戻した彼は、なにごともなかったように「じゃあまたあとでな」とだけ明るい声で告げると、教室を出て行った。



 羽村の背中を見送ったあとで、おれたちもようやく教室を出た。

 並んで廊下を歩いている途中、ふいに倉田が窺うようにこちらを見上げて

「あの、ごめんね」

 小さな声でそんなことを言ってきた。

「なにが?」と聞き返せば、「いや、その」と倉田は困ったように口ごもる。それからまた前方へ視線を戻し

「永原くんは、嫌だったかもしれないから」

 しかしそこまで言ったところで、彼女は急に言葉を切った。

 代わりに、あ、と小さく呟いて、歩く速度をゆるめる。怪訝に思って彼女のほうを見ると、強張った表情で前方を見つめる横顔があった。


 彼女の視線の先を辿れば、すぐに見つけた。

 廊下の向こうにいる、三人の女子生徒。移動教室の途中らしく、それぞれ腕に教科書とノートを抱えこちらへ歩いてくる。

 見ると、そのうちの一人が八尋だった。友人の話に明るく笑う聞き慣れた声が、すぐにおれの耳にも届いた。

 少しして、八尋もこちらに気づいたようだった。途端、楽しそうに笑っていた彼女の顔がふっと強張るのが、遠目からでも見えた。

 目が合うなり彼女は気まずそうにぱっと視線を逸らし、すぐにまた隣の友人のほうを向き直る。そしてそれきり、こちらを見ることはなかった。

 ためらうように、倉田の足取りがますます遅くなる。八尋のほうは、どうやら友人との会話に夢中でおれたちにはまったく気づいていないという態度を決め込んでいるらしい。不自然なほどに横ばかり向いて廊下を進んできた彼女は、目の前まで来てもこちらへ視線をよこすことはなく、そのままおれたちの横を通り過ぎた。

 倉田もうつむいたままだった。頑なにお互いの顔を見ようとしない二人に、八尋と一緒にいる女子生徒がちょっと戸惑った様子で、すれ違い際、八尋と倉田の顔を見比べていった。


 階段を下り、三人の明るい笑い声が完全に聞こえなくなっても、倉田はまだうつむいて唇を結んでいた。先ほど言いかけていたことも、すっかり頭からは抜け落ちてしまったらしい。自分の足下をじっと睨んだまま、暗い表情で黙り込んでいる彼女に

「――倉田のお母さんって」

 出し抜けに切り出すと、一瞬だけ間があってから、へっ、と倉田は我に返ったようにこちらを向いた。

 おれは彼女のほうを見てちょっと首を傾げると

「看護師さんか何か?」

 続いた質問に、倉田はおれの顔を見つめながら何度かまばたきをした。

 数秒の後、ようやく質問の意味を理解したように、「ああ、うん」と早口に頷き

「そうだよ、看護師さん。え、どうしてわかったの?」

「さっき羽村が、夜勤がどうのって言ってたから」

「あ、そうか。言ってたね」

 倉田は納得したように相槌を打ってから、少し穏やかさを取り戻した様子で

「永原くんのお母さんは、保育士さんなんだよね」

 柔らかな声でそんなことを言った。おれはきょとんとして彼女の顔を見た。

「なんで知ってるの?」

 聞き返すと、倉田もきょとんとした様子で

「前に永原くんから聞いたんだよ。お母さんが保育士さんで、免許をとるときピアノに苦労したんだって。それで永原くんには、自分と同じ苦労をしないように、小さい頃からピアノを習わせてたんだって」

「おれ、そんな話したんだ」

 自分でも忘れていたことをすらすらと話す倉田に、「よく覚えてたね」とちょっと感心して呟くと

「永原くんって、あんまり自分の話しないから」

 倉田はなんだか照れたように笑って返した。

「そういう話してくれたの、なんか嬉しくて」

 何気ない調子で続いた言葉に、おれは彼女のほうを見た。

「そうだっけ」と曖昧に相槌を打てば、倉田はずっと言いたかったことを急に思い出したみたいに、「うん」と大きく頷いてみせ

「家の話とか昔の話とか、ほとんど聞いたことないよ。だから私、よく考えたら、永原くんのことあんまり知らないような気がして、ちょっと寂しい」

 意気込んだ調子で喋っていた倉田は、そこで唐突に言葉を切った。変なことを言ってしまったという顔つきで口を噤み、視線を彷徨わせる。

 なんだか彼女が後悔しているようだったので、職員室に着くと、おれはなにも気にしない振りをして

「じゃあ、宿題出してくる」

 にこりと笑って告げれば、倉田もほっとしたように笑い、うん、と頷いた。


 数学の先生は不在だったため、机の上に積まれていたノートの山に持ってきたノートを重ねておいた。

 倉田のほうを見るとなにやら担任と話し込んでいるようだったので、おれは先に職員室を出る。そうして廊下で彼女を待つ間、職員室前に設けられた部活動掲示板へぼんやり目をやった。

 職員室に入る前、倉田がこれをちらりと確認していたのは気づいていた。

 おれの手前、さすがに立ち止まってまじまじと眺めるのは遠慮したようだったけれど、さっきの様子を見る限り彼女はこれが気になって仕方がないみたいだったし、どうせあとで改めて見に来るつもりなのだろう。八尋みたいに、写真を撮ったりもするのだろうか。頭の隅でそんなどうでもいいことを考えながら、そこに貼られた男子陸上部県大会進出の報告をじっと眺める。

 また、唇の端が鈍く痛んだ。

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