第5話 執着
教室に戻ると、倉田が一人、何をするでもなく自分の席に座っていた。
他のクラスメイトは、すでに全員下校したか部活へ出たあとらしい。机には残されているのは、おれの鞄と倉田の鞄の二つだけになっていた。
待ちくたびれていたのか、倉田はおれが教室に入るなりぱっと顔を上げると
「遅かったね」
どこかほっとしたように笑って、そう呟いた。
おれが「ごめんね」と返せば、彼女はすぐに首を横に振る。それから机の上に置いていた携帯電話を鞄に入れると、椅子から立ち上がった。もう帰り支度は済ませていたらしく、そのまま鞄を肩に掛ける。
「掃除、長引いたんだね」
朗らかに向けられた言葉に適当に相槌を打ちながら、おれは倉田のもとへ歩いていく。そして彼女の目の前に立つなり、「ねえ倉田」と脈絡もなく切り出した。
「昨日の放課後さ、倉田、なんの用事があるって言ってたっけ」
唐突に尋ねると、彼女は「え?」ときょとんとした表情でこちらを見た。
それから不思議そうに首を傾げ
「あ、えっと、ちょっと買い物に行きたかったんだけど……」
「買い物って何の?」
彼女の言葉が終わらないうちに重ねて尋ねる。そこで少しおれの様子がおかしいことに気づいたのか、倉田の表情がなんとなく不安そうなものに変わった。
だけどとくにやましいことはなかったらしい。
「うちで飼ってる、犬の餌」答えは、はっきりとした口調で間を置くことなく返された。
「昨日の朝なくなっちゃったから、買ってきておくように、お母さんに頼まれてたの」
「一人で行ったの?」
さらに重ねて尋ねてみれば、倉田は困惑した目でおれを見た。うん、と不思議そうな調子で短く頷く。
「一人で行ったよ」
「ずっと?」
「うん」
ふうん、とおれは静かに相槌を打った。倉田はますます困惑した様子でおれの顔を見つめる。それから、あの、とどこか不安げに口を開くと
「それが、どうかしたの?」
彼女の質問には答えなかった。「じゃあさ」とおれは静かな口調を崩さないまま言葉を継ぎ
「家に帰るまでも、一人だった?」
訊くと、途端に倉田の顔がわかりやすく強張った。
目を見開き、窺うようにおれの顔を見る。それから表情と同じくらい強張った声で、え、と聞き返した。
なんともあからさまな反応に、本当にこの子は嘘がつけないんだなと思わず感心してしまいながら
「昨日、おれと別れたあと、一人で家まで帰った?」
少し補足を加えて、同じ質問を繰り返した。
倉田はしばし言葉を失ったように黙っていたけれど、やがて視線をおれの顔から逃がすと
「あ……えっと、途中で」
意味もなく足下を睨みながら、もごもごと答えた。
「友達に会ったから、途中からは、その人と一緒に」
「友達って誰に?」
短く聞き返せば、倉田はふたたび視線を上げておれの顔を見た。よりいっそう表情を強張らせ、迷うように口ごもる。
だけどその答えをおれがすでに知っていることは、彼女もすぐに察したようだった。数秒の後、観念したように、えっと、と口を開いた彼女は
「浩太くん、に」
窓の外から聞こえる運動部のかけ声にもかき消されてしまいそうなほどの声で、その名前を口にした。それからおれがなにか言うより先に、「あの、でも」といそいで言葉をつなぐ。
「本当に、たまたま途中で会っただけで、あ、買い物も、嘘じゃないよ。本当に一人で行ったの。浩太くんとは、途中から一緒に帰っただけで」
前の質問から、急におれの抱いている疑念を読み取ったらしく、引きつった声で捲し立てた。
おれは目を細めてそんな彼女の顔を見つめ返すと
「別にわざわざ一緒に帰らなくてもよかったじゃん。途中で会ったからって」
「だけど、家が同じ方向だから」
倉田は困ったように眉を寄せ、ぼそぼそと続ける。
「せっかく会ったのに、また別れるのも変だし……」
「でも倉田、言ったじゃん。羽村とはもう関わらないって。なのに、なんでまだ付き合ってるの。あいつと」
静かに尋ねると、倉田はよりいっそう眉を寄せ視線を落とした。
迷うような間のあとで、だけど、とさっきよりいくぶん大きな声で繰り返し
「浩太くん、言ってくれたから」
「なにを」
「あの、私のこと、許すって」
「許す?」
思わず、唇の端から心底あきれた調子の笑いが漏れた。倉田がちょっと驚いたように口を噤む。
「許すって」おれは冷たい口調で彼女の言葉を繰り返してから
「なんであっちが上から目線なんだろ」
「だって、私が悪いから」
間を置かず、倉田ははっきりとした口調で言い切った。
「私が浩太くんにひどいこと言って、浩太くんのこと傷つけたから。だから」
「倉田が悪いんじゃないよ」
穏やかに彼女の言葉を遮り、優しい笑みを向ける。
「傷つけたのは羽村も一緒じゃん。結局さ、羽村は倉田を切り捨てて八尋を選んだだけなんだよ。倉田だって泣いてたじゃん、あのとき。羽村のせいで」
倉田はくしゃりと顔を歪め、首を横に振った。それからまた「違う」と口を開きかけたのを遮り
「だいたいさ、なんで黙ってたの?」
ふと思い出して尋ねてみると、倉田は、え、と不安げな表情でおれを見た。
「昨日のこと」とおれは続けた。
「そういうことがあったって、なんでおれに言ってくれなかったの」
倉田はおどおどとおれの顔を見つめながら、だって、と呟いた。
「たいしたことじゃないし、わざわざ言うほどのことじゃ、ないと思ったから」
だけど反論の言葉は尻すぼみになり、すぐにかき消える。代わりに、「ごめんなさい」と倉田は顔をうつむかせながら早口に継いだ。
「あの、次からは、ちゃんと言うようにするね」
「次?」
おれは軽く首を傾げながら、じっと倉田の顔を見つめる。それから、また不安げな目をして顔を上げた彼女に
「次なんて、ないでしょ」
にっこり笑って、言葉をつないだ。
「もう倉田は、羽村と話す必要なんてないんだから」
倉田はじっと黙り込んだままおれを見ていた。なにか言い返そうとしているようだったけれど、うまく言葉がまとまらないみたいだった。
沈黙の中に、時折、グラウンドから響く明るい喧噪が割り込んでくる。ランニングをしているらしい陸上部の規則正しいかけ声も聞こえた。
やがて途方に暮れたように顔を伏せた彼女は、一度だけ軽く唇を噛み
「……永原くんは」
どこか悲しそうな声で、ぽつんと言った。
「浩太くんのことが、嫌いなの?」
おれは一瞬きょとんとして、彼女のほうを見た。
倉田はなんだか泣きそうな顔をして、じっと床を睨んでいる。ふっと視線を落とすと、彼女の右手がスカートの裾を強く握りしめているのが見えた。あの日もこうしておれの前に立っていた彼女の姿を、ぼんやり思い出しながら
「うん、嫌い」
短く返すと、彼女はよりいっそうスカートを握る手に力を込めた。ぐっと唇を噛みしめる。それから相変わらず床を睨んだまま、「どうして」と消え入りそうな声で呟いた。
「だってあいつ、倉田のこと傷つけるから」
倉田は顔を上げておれを見た。
「そんなこと、ないよ」言いながら、小さく首を横に振る。
「浩太くんは、いつも、私に」
彼女は強張った声でなにか言葉を続けようとしていたけれど、おれは打ち切るように踵を返した。これ以上、彼女の口からその名前を聞きたくなかった。そのまま無言で自分の席へ向かえば、倉田も戸惑ったように話すのをやめた。
どうすればいいのだろう。
引き出しから鞄に教科書を移しながら、おれは再度思う。
まぶたの裏に貼り付いた、小さなキーホルダーの姿が消えない。昨日まではまったく気にも留めなかった、それ。眺めているうちに何度か剥ぎ取って焼却炉にでも投げ捨ててしまいたくなったけれど、それでは何の意味もないことくらい、今はもうよくわかっていた。
だから頭の隅で繰り返し思う。どうすればいいのだろう。なにが足りないのだろう。倉田の鞄からも、八尋の鞄からも、あのキーホルダーをもぎ取ってしまうには。
帰り支度を済ませて倉田のもとへ戻ると、彼女は相変わらずその場に突っ立ったまま、じっとおれを見ていた。
その唇はまだなにか言いたげに薄く開いている。だけどおれがいつものように「帰ろう」と笑顔で促せば、彼女はもうなにも言わなかった。
強張った表情を隠すようにうつむいて、うん、と頷く。それから、もうすっかり見慣れてしまった、押し出すような笑みを見せた。
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