第26話 幸せ
たとえば、あと十年早く出会えていればよかっただとか。
そうしたらおれはあいつよりずっと彼女に優しくしてあげられたし、今だって彼女はおれのほうを見ていたはずだとか。
そんなくだらないことを考えるのは、もうやめた。
幸せなんて、自分の手でつかみとればいい。どうしたって諦められないのなら、どんな手をつかってでも。
十冊近い教科書とノートを、無造作に焼却炉に放る。ついでに、倉田が両手で抱きしめるように握っていた未完成のテディベアも一緒に放り込んで、火を点けた。
教科書もノートもテディベアも、あっという間に炎に包まれ、全部が同じ灰になっていく。あっけない。彼らの関係も、十年という歳月も、結局同じくらいあっけなかった。そんなことを考えながら、不思議なほど眩しい橙色の光を見つめる。
今でも鮮明に思い出せる。あの日倉田が向けてくれたのは、なんの混じりけもない、目眩がするほど真っ白な優しさだった。
一瞬だった。どうしようもなく惹かれた。彼女が傍にいてくれるなら、それだけで世界がきれいに見えそうな気がした。
欲しいと思った。ただ単純に。あんなにも強く、なにかを欲しいと思ったのは初めてだった。彼女の視線の先に気づいたのはそれからすぐのことだったけれど、だからといって諦めるなんて考えられないほどに。
クラスの違う彼女と初めて接点をもつ機会が訪れたのが、三学期に入り、担当の掃除場所が音楽室になったとき。
同じ音楽室担当の生徒の中に八尋がいた。彼女が倉田と仲が良いということはとっくに知っていた。何度か話しかけているうちに、明るく人懐っこい性格の八尋とはすぐに親しくなれた。
最初は、こうして話しているうちに倉田の話が聞ければいいだとか、八尋の口から倉田におれのことが伝わればいいだとか、そんなことしか考えていなかった。けれど事態は、予想外に都合の良い方向へ進んでくれた。
倉田にちょっとでも悪い印象が伝わるのは避けたかったので、八尋には特別優しく接するようにしていたら、そのうち彼女はおれに好意を抱くようになった。そのときにはすでに、彼女が羽村の想い相手だということも知っていた。諦めたと思いこみながら、今でも倉田が目で追っている、彼の。
おれはますます八尋に優しくした。彼女の趣味がピアノだということもちょうどよかった。おれが話しかけるたび彼女はいっそう嬉しそうに笑うようになって、目が合う頻度もさらに増えた。彼女がおれを心から信用していることはよくわかっていた。おれの言葉なら、何でも信じるぐらいに。
やがて二年生になり、倉田は八尋たちと違うクラスになった。そしておれと同じクラスになった。そのときにはもう、すべてがうまくいくという確信があった。
炎の中で、書き殴られた「消えろ」の文字が歪む。それが羽村へ向けて書いたものなのか、八尋へ向けて書いたものなのかは、もう思い出せなかった。どうせどちらにも、一度は向けた言葉なのだろう。
本当は最初からこうするつもりだったのだけれど、脳天気な彼らは、単に持ち物が消えただけでは悪意を向けられているということにすら気づかない可能性があった。これまでに目に見える形での嫌がらせを受けたことなど一度もないだろうし、自分たちがそんな対象になるとは露程も思っていなかったはすだから。
だけどおれは知っていた。人間とは何をされれば、どんな言葉を向けられれば、一番堪えるものなのか。嫌になるほど、よく知っていた。
教科書やノートにいちいち暴言を書き込んでいくのは面倒な作業だったけれど、苦労に見合うだけの成果は充分にあった。
何だって免疫のないものに抵抗する力は弱いものだ。羽村も八尋も、むしろ倉田より脆かった。あっけなく追い詰められ、余裕をなくしていった。
そうして倉田を思いやることなんてみじんもできなくなったところで少し叩けば、なんとも簡単なそれがすべての決定打になった。一気に揺らいだ彼らの関係は、あっという間に取り返しがつかないところまで崩れた。
もともと倉田の交友関係は狭かった。その代わり、羽村と八尋に対しては絶対的な信頼を置いて頼りきっているようだったけれど、そんな彼女から二人を取り上げてしまえばどうなるのかなんて、簡単に想像がついた。
途端に安定を失った彼女の心は、必死に縋るものを探す。きっと縋る対象は何でもよかったのだ。彼女が、決してひとりでは生きていけないような子だということはわかっていた。
弱くて幼い、愚かな彼女の手は、目の前に差し出されたおれの手を掴まずにはいられない。迷子になった小さな子どもが、途方に暮れて縋りついてくるみたいに。そして、そこへ他に縋ることのできる手が現れない限り、彼女はこの手を離すことができないということも。
小学校の頃に苦い経験をしたという倉田の猜疑心の強さには気づいていた。彼女のスニーカーを焼却炉に捨てるときはさすがに少し心苦しかったけれど、それは思いのほか彼女に大きな影響を与えてくれた。
あれ以来、倉田は一組のクラスメイト全員に疑いをもつようになった。なんの関係もない彼らに怯え、うまく付き合えなくなった。
もともとクラスにはうまく馴染めていなかった彼女だけれど、そのせいでよけいに孤立し始めた。彼女の頼りは、幼なじみであるあの二人と、ちょうどつらいときに助けてくれたおれ以外にいなくなった。
そしてそんなときに、おれは倉田からあの二人を奪った。
倉田と付き合うことになったのだと告げたとき、八尋は一瞬だけひどく悲痛な表情でおれの顔を見つめ、それからぎこちない笑みを浮かべた。
かすかに震える声で「そっか」と相槌を打ってから
「永原くん、歩美ちゃんのこと、好きだったの?」
なんだか自分を追い込むような口調で、そう尋ねてきた。
おれは少し考えたあとで
「今まではあんまり考えたことなかったけど、多分、ずっと好きだったんだと思う。倉田が好きだって言ってくれたとき、すごく嬉しかったから」
そう答えを返した途端、八尋の顔が一瞬にして強張った。え、と掠れた声が漏れる。
「歩美ちゃんのほうから、言われたの?」
尋ねる声もひどく強張っていたけれど、おれはなにも気づかない振りをして、うん、と笑顔で頷いてみせる。それから軽く首を傾げ
「倉田からはなにも聞いてない?」
不思議そうに、そんなことを尋ねてみた。うん、と引きつった笑顔で頷く八尋に、この話を疑う様子なんかはとくになかった。
そのあとの羽村も同じだった。ひどく困惑した顔をしながらも、なんの迷いもなくおれの言葉を信じていた。あとで倉田に確認することもなかったようだし、結局彼らの倉田に対する信頼なんてその程度だったのだろう。
かわいそうだから、彼女にはなにも教えないでおいてあげるけれど。
教科書がぼろぼろと形を崩して黒い灰だけになるのを見届けたあとで、後ろを振り返る。
倉田は、十メートルほど先で凍ったように立ちつくしていた。肩はもう震えていなかったけれど、こちらを見つめる目は虚ろで、未だ乾ききっていない頬を生ぬるい風が撫でている。その様子は、なんだか叱られた小さな子どもみたいだった。
おれはにこりと穏やかな笑みを向け、彼女のほうへ歩いていく。その間も彼女は身じろぎ一つせず、その場に立ちつくしていた。
「倉田」
目の前に立って名前を呼べば、彼女は途方に暮れたような目でおれを見上げる。おどおどとしたその表情や仕草は、いつもより数倍幼く見えた。
ふと視線を落とすと、彼女の小さな手が縋るようにスカートの裾を握りしめていた。なんとなく気に入らなくて手を伸ばす。そして彼女の手を掴むと、そっとスカートから引きはがした。
「大丈夫だよ」
優しい口調で言いながら、離した彼女の手を握りしめる。するとすぐに、倉田もきつい力で握りかえしてきた。
そのしがみつくような強さにも、こちらを見つめる不安そうな目にも、どうしようもなく追い詰められた必死さが滲んでいて、おれはひどく満たされた気分になる。
もう片方の手を伸ばし、前髪をかき上げるようにして頭を撫でると、彼女はじっと身を強張らせたまま軽く目を細めた。泣いたあとの目元が赤く、本当に小さな子どものように見えた。
「ねえ」いつもと同じように柔らかく笑って、倉田の目をまっすぐに見つめ返す。
「羽村と八尋は、もういないけど」
静かに言葉を続けると、途端にぼんやりしていた彼女の目が見開かれ、悲痛に揺れた。おれの手を握る力が少し強くなる。そんな彼女の仕草に、もう倉田が頼れるのはおれだけなのだということを強く実感しながら
「倉田には、おれがついてるから」
これ以上なく優しい口調で、言葉を継いだ。涙の跡が残る頬をそっと指先で撫でる。倉田は相変わらず身を強張らせたまま、じっとおれの目を見つめている。
その眼差しはひどく弱々しくて、今ここでおれが彼女の手を振り払えばその瞬間に彼女は死んでしまうのではないか、なんて馬鹿げた考えすら浮かんだ。
ああ、いっそそうなればいいのに。ふいに頭の隅でそんなことを思う。
一人では何にもできないかわいそうな彼女。これまではずっと、羽村と八尋が傍にいて守ってくれたのだろうけれど。
もう彼女の傍に彼らはいない。そしてこれからも、近づけさせる気はない。羽村と八尋だけでなく、このクラスにいる誰も。倉田が縋ることのできる手は、おれのものだけでいい。そうでなければ意味がない。
結局、どんなに外面を取り繕ったところで、根っこはなにも変わっていないのだ。改めて思い知らされる。根暗で卑屈で自分にちっとも自信がなくて。
大勢の中の一番ではだめだった。彼女の唯一になりたかった。誰かに頼らなければ生きていけない彼女が、おれから離れられないように。
「大丈夫だよ」
もう一度繰り返して、彼女の手を強く握りしめる。
「これからは、おれが守ってあげる」
優しい口調を崩さずに、そう告げたときだった。
頼りなくおれの顔を見つめていた倉田の目から、ふいに涙がこぼれた。表情は動かず、ただ涙だけが、一筋音もなく頬に流れた。
なんのための涙なのかはわからなかった。だけどどうしようもなくきれいに見えて、おれは思わず地面へ落ちようとしたその滴を指先で掬った。
この一滴の涙さえも、すべて。もう、何もかも、おれだけのものなのだ。
言い聞かせるように、心の中で呟いてみる。途端、頭の芯にぼうっと染み入ってきた甘さに、目眩がした。
幸せだと思った。生まれて初めてかもしれないほど、心の底から。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます