第27話 帰る場所
歩美ちゃん、と後ろから掛けられた声に、一瞬息が止まりそうになった。
弾かれたように振り返ると、そこには赤いランドセルを背負った一人の女の子が立っていた。鈴ちゃんをそのまま少しだけ幼くしたような、見知った女の子。
「あ……理彩ちゃん」
呆けたように彼女の名前を呟けば、理彩ちゃんは「ちょっと久しぶりだねー」と目一杯白い歯をこぼして笑った。
私もなんとか笑みを返して相槌を打つ。同時に、先ほど一気に力がこもった全身から、ふっと力が抜けるのを感じた。一瞬だけ高鳴った鼓動もすぐに凪いて、代わりに、なにを期待していたのだろう、という自嘲の声が胸の奥で響く。
理彩ちゃんの声も私の名前を呼ぶトーンも、鈴ちゃんのものと本当によく似ていて、一瞬わからなかった。もう彼女がこんなふうに私を呼んでくれることなんて、あるはずがないのに。
改めて染み入ってくる事実に、思わず目を伏せる。そうしてぐっと奥歯を噛みしめていると
「歩美ちゃん、最近、全然うちに遊びに来ないね」
ふいに理彩ちゃんが軽い調子でそんなことを言った。
私は少しどきりとしながら、「う、うん」とぎこちなく頷く。
「最近、ちょっと忙しくて……」
「そっかあ」
とくになにも気にした様子はなく、理彩ちゃんは軽い調子のまま相槌を打つ。それから私の隣に並んで歩き出した彼女は、少ししてからふと思い出したようにこちらを向き
「え、もしかして、歩美ちゃんもカレシとか?」
出し抜けにそんなことを尋ねてきた。まさか理彩ちゃんの口からそんな単語が出てくるとは思わず、びっくりして、え、と聞き返せば
「だってカレシができたら、もう、友達とはあんまり遊ばなくなっちゃうものなんでしょ」
なんだかませた口調で、理彩ちゃんは続けた。
私はちょっと困ってしまって、「そう、かな」と曖昧に相槌を打つ。すると理彩ちゃんは「そうだよ」とやたら力を込めて頷いてみせ
「だってね、お姉ちゃんなんてひどいんだよ。もうここ最近は、ずうっとこうちゃんと遊んでばっかりでね、あたしが買い物行こうとか言っても、全っ然付き合ってくれないんだもん」
子どもっぽく口をとがらせながら、早口に続けた。不満げに捲し立てられた理彩ちゃんの言葉に、喉からは、え、と思わず掠れた声が漏れる。だけど理彩ちゃんの耳には届かなかったようで
「こうちゃんもさー、前はもっと構ってくれてたのに、最近はさっぱりだし。なんで付き合いだした途端あんな、お互い以外興味なしって感じになっちゃうんだか」
気づいたときには、私は足を止めてしまっていた。
理彩ちゃんもすぐに気づいて立ち止まると、きょとんとしてこちらを振り返る。そうして、「歩美ちゃん?」と不思議そうに首を傾げる彼女の顔を、私は呆けたように見つめたまま
「――付き合い、だした?」
強張った声で先ほどの理彩ちゃんの言葉を繰り返した。
理彩ちゃんはますますきょとんとした様子で、うん、と相槌を打つ。それから
「へ、もしかして歩美ちゃん、知らなかったの?」
と心底戸惑ったように聞き返してきた。私ははっとして咄嗟に首を横に振る。
「う、ううん。知ってたよ、もちろん」
そう言ってあわてて笑みを作れば、だよねえ、と理彩ちゃんもあっけらかんと笑い
「まあ、そりゃそっか。お姉ちゃんが歩美ちゃんに言わないはずないもんね」
なんの憂いもない明るい声でそう付け加えた。私は思わず右手をぎゅっと握りしめる。それでもなんとか笑みを崩さないよう気をつけて、うん、と相槌を打った。
ふたたび足を進め、理彩ちゃんの隣に並ぶ。それから少し迷ったあとで、「ねえ理彩ちゃん」と口を開いた。
「うん?」
「鈴ちゃん、最近はずっと浩太くんと一緒にいるの?」
うん、と理彩ちゃんは間を置くことなく頷いた。
「おかげであたしとは全然遊んでくれないよ。お姉ちゃんもこうちゃんも。なんかね、お姉ちゃんもこうちゃんも一気に離れていっちゃったみたいで、ちょっと寂しいんだ。最近」
そう言って唇をとがらせながらも、理彩ちゃんはとても穏やかな笑顔を浮かべていた。それは初めて見るような大人びた表情で、私はなんだか胸が締め付けられたみたいに苦しくなる。
不満げに口にされる言葉とは反して、理彩ちゃんが二人の幸せを祝福していることはよくわかった。ただ純粋に、心から。
私は視線を足下に落とし、そっか、と相槌を打つ。
「幸せそう、だね。二人」
ぽつんと呟けば、理彩ちゃんは、うん、と無邪気な笑顔で頷いた。
「今度ね、地区大会があるでしょ。お姉ちゃんてば、それも応援に行くつもりらしいんだよ。結構遠いのに」
「え?」
理彩ちゃんがさらっと口にした言葉に、私はまた驚いて彼女のほうを見た。
「地区大会? 浩太くん、地区大会に進んだの?」
意気込んで聞き返すと、理彩ちゃんも驚いたようにこちらを向く。それから、え、と戸惑ったように首を傾げ
「歩美ちゃん、知らなかったの?」
今度はごまかしもきかずに、私は、うん、と正直に頷いた。「あの」と苦し紛れに言葉を続ける。
「最近忙しいから、浩太くんたちとはあんまり話せてなくて……」
ぼそぼそとそんな言い訳をすれば、理彩ちゃんはとくになにも疑うことなく、そっか、とあっさり納得していた。それからにっこり満面の笑みを浮かべ
「郡大会はね、あたしもお姉ちゃんと一緒に応援行ったんだ。かっこよかったよー、こうちゃん。順位は、惜しいとこで二位だったんだけど」
目を輝かせて語る理彩ちゃんの顔を見ているうちに、ふっと鼻の奥が熱くなる。私は思わず視線を落とし、「そう、なんだ」と小さく相槌を打った。
まぶたの裏に、私が応援に行くと告げたとき、嬉しそうに笑ってくれた浩太くんの顔が浮かぶ。そうするとどうしようもなく感傷的な気分になってきて
「……私も、行きたかったな。応援」
ぽつりとそんな声がこぼれていた。
理彩ちゃんはきょとんとした顔で私を見る。それから、「え、それならさ」と明るい口調で口を開いた。
「地区大会、歩美ちゃんも一緒に応援行こうよ。あたしもね、お姉ちゃんが行くならついていこっかなって思ってるんだ。せっかく大きい大会に進んだんだし、みんなで応援してあげよ。こうちゃんのこと」
ねっ、と理彩ちゃんはにっこり笑って促してくる。
その笑顔も声もしゃべり方も、鈴ちゃんのものとあまりによく似ていたものだから、私はなんだか泣きたくなってしまった。あわてて目を伏せ、強張った笑みを作る。それからゆっくりと、首を横に振った。
「……私は、行けないの。ごめんね」
「え、なにか用事?」
「うん、ちょっと忙しくて……理彩ちゃん、私の分もいっぱい応援してきてね」
言うと、理彩ちゃんは「まかせてよー」と意気込んだ様子で拳を握りしめてみせた。拍子に、彼女のランドセルにぶら下がる防犯ブザーが音を立てて揺れる。その無邪気な仕草に私が小さく笑っていると
「ね、でも歩美ちゃん」
ふと思い出したように、理彩ちゃんが私の顔を覗き込んできた。
「さっきから忙しい忙しいって、やっぱり歩美ちゃんもカレシでしょー」
好奇心に溢れる表情で、理彩ちゃんはじっと私の顔を見つめてくる。
私は少しだけ黙って彼女の目を見つめ返した。それは本当に無邪気な目で、もちろんそこに私の対する非難の色などあるはずがない。だけど、握りしめた手のひらにはうっすらと汗が滲んだ。心臓の鼓動が少し硬くなる。
私は短く息を吸った。それからぎこちない苦笑を浮かべ
「そういうのじゃ、ないよ。私は」
「なんだ、そうなの?」
「うん」
頷いて、視線を前方へ戻す。するとすぐに、「じゃあさ」という楽しそうな理彩ちゃんの声が追いかけてきた。
「歩美ちゃんて、好きな人とかいないの?」
え、と小さく声がこぼれる。理彩ちゃんはにこにこと笑いながら
「そういえばあたし、歩美ちゃんからそういう話聞いたことないなあ。ね、好きな人くらいはいるでしょ? 歩美ちゃんも」
あっけらかんとした調子でそんな質問を重ねた。
私はふたたび視線を足下へ落とす。灰の汚れは思いのほか頑固で、未だスニーカーの爪先にしがみついたまま剥がれない。私はそれをぼんやりと眺めながら、力なく笑った。
「……いないよ」
「えーっ、そうなの? なんで?」
「なんでって」思いも寄らぬ聞き返しをされて私が苦笑していると
「もったいないよ。歩美ちゃんも恋しなよ。歩美ちゃん、せっかく可愛いんだから」
力を込めて、理彩ちゃんはそんなやたら大人びたことを言った。私はますます苦笑しながら、「ありがとう」と返す。
その台詞も言い方もやっぱり彼女は鈴ちゃんとよく似ていて、なんだか一瞬、鈴ちゃんと一緒にいるように錯覚しそうになった。
振り払うように目を伏せる。それから「あの、理彩ちゃん」と少し改まった調子で口を開いた。
「うん?」
「鈴ちゃん、最近、どんな様子かな」
「へ、どんなって?」
理彩ちゃんはきょとんとして首を傾げる。私はちょっと考えたあとで
「塞ぎ込んでるとか、食欲がないとか、そういうこと、ないかな?」
「えー、ないない! 全然元気いっぱいだよ。ていうか、カレシができたっていうのに塞ぎ込む理由なんかないじゃん。浮かれてるならわかるけど」
さばさばとした口調で返された言葉に、私はいくらかほっとして、そっか、と相槌を打つ。だけどそのすぐあとで、「ああ、でも」と理彩ちゃんが思い出したように言葉を重ねた。
「いっこだけ変わったことといえば、お姉ちゃん、全然ピアノ弾かなくなったんだ」
え、と掠れた声で聞き返しながら顔を上げる。
背筋をすっと冷たいなにかが走ったようだった。強張った表情で理彩ちゃんのほうを見れば、彼女はあっけらかんとした調子のまま
「この前までラプソディの第1番弾けるようになりたいって頑張ってたのに、最近になってぱったりやめちゃった。レッスンもね、三年生になるまでは続けるって言ってはずなんだけど、もう今月いっぱいでやめるなんて言い出したし」
なにかあったのかな、と心配そうに呟く理彩ちゃんに、自分がなんと返したのかはよくわからなかった。だけどきっと、彼女に合わせるように白々しく相槌を打っていただけなのだろう。
それ以外はなにも言えなかった。言えるはずがなかった。
理彩ちゃんと別れて一人家路を歩いていると、やはり涙があふれてきた。
鈴ちゃんをあれだけ傷つけておいて、それでも自分のためにはしっかり悲しむなんて都合が良くてあきれてしまう。だけど一度あふれた涙は、もう堰を切ったように止まらなかった。
昔よく三人で遊んだ公園の前を通りかかったときには、さらに嗚咽まで漏れてきて、私はとうとう耐えかねてその場にしゃがみ込んだ。
私が帰る場所なんて、きっと、もうどこにもないのだ。頭の奥で、そんな声だけが重たく響く。
自転車に乗った高校生が怪訝そうにこちらを眺めながら通り過ぎていったけれど、気にする余裕はなかった。震える腕に顔を埋め、私はそのまま途方に暮れたように一人で泣いた。始まりすらなかった、だけどどうしようもなく長かった恋の終わりを見送って、長いこと泣き続けていた。
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