第25話 呪文

 浩太くんのノートが、彼の足下で、ぐしゃりと乾いた音を立てて歪む。私はどこか薄皮一枚隔てたような意識で、その光景をぼんやり眺めていた。

 なんのためらいもなく床に散らばるノートを踏みつけ、こちらへ歩み寄る永原くんの目には、そもそも床に散らばるノートなんて映ってすらいないように見えた。彼の視線は、私の顔をまっすぐに見据えたまま少しも揺れない。

 私もじっとその目を見つめ返していたけれど、それも私の意識からは遠かった。すべてが映画でも観ているかのように現実味がなく、まったく頭に染み入ってこない。


 代わりに、洪水みたいにあふれ出した浩太くんのさまざまな言葉や表情が、一気に喉の奥へ流れ、全身を満たしていった。

 小さい頃のものからごく最近のものまで、とりとめもなく。次々に浮かんでは、追い立てられるように短い間隔で切り替わっていく。

 そうしているうちに、やがて息もできないほどの焦燥が押し寄せてきた。

 なにをしているのだろう、と心の片隅が呟く。きっと、時間が経てば経つほど、彼は本当に取り返しがつかないところまで遠ざかってしまうのに。

 たまらなくなって私は立ち上がった。すでにもう取り返しなんてつかないのだという、心の中で響くもう一つの声は必死に聞こえない振りをする。

 追いかけてなにをするつもりなのかなんてわからなかった。だけどとにかく、今のままではだめだ。そんな声に強く責め立てられ、浩太くんのあとを追って走りだそうとしたときだった。


 急に後ろから腕を掴まれた。前へ進めかけた足が思いがけず引き留められ、反動で足がもつれる。

 軽くよろけながら振り返ると、永原くんがひどく静かな目でこちらを見ていた。振りほどこうとしてもその手はびくともしなくて、途端、よりいっそう激しい焦燥が胸を焼く。

「は、離し」

「羽村はさあ」

 声を上げかけた私を遮り、永原くんが口を開いた。表情と同じ、ひどく静かな声だった。

「多分、八尋のところに行ったんだよ。八尋を慰めるために」

 まるで小さな子どもに言い聞かせるような口調で告げた彼は、口元にこちらを気遣うような笑みを浮かべ

「倉田だって傷ついてるのにね。かわいそうに」

 そう言って、軽く目を細めた。だけど声は音のように鼓膜を揺らすだけで、頭の芯にまで届かない。

 私はただ黙って掴まれた左手を引いた。けれどその手はやはりびくともしなくて、途方に暮れる。先日音楽室で腕を掴まれたときより、彼の手はずっと重たかった。しだいに泣きたい気持ちになってきて、「離して」ともう一度声を上げようとしたとき


「結局、羽村ってそういうやつなんだよ」

 ふいにぞっとするほど冷たい声が、耳を打った。

 思わずどきりとして視線を上げる。永原くんは変わらぬ柔らかな笑顔のまま、私を見つめていた。いつもと同じその優しい笑顔と、吐き捨てるような口調のちぐはぐさに、私がひどく混乱していると

「倉田のことなんて何にも考えてない。八尋になにかあったら、そっちにばっかり気とられて」

 続いた言葉に、私は大きく首を横に振った。

「ちが、う」

 掠れた声を絞り出す。

 浩太くんは私のことを考えてくれていた。私に心配をかけないようにたくさん気遣ってくれていた。それなのに私が何にもわかっていなかったから。

 私はぐっと唇を噛みしめた。震える声で、続ける。

「私が、悪いの」

 自分の言葉が重たく腹の底に沈み込んでいくのを感じながら、ぎゅっと拳を握りしめていると

「倉田が悪いんじゃないよ」

 穏やかな、しかしまったく隙のない口調で、永原くんが言った。

「だって羽村は」その声にまたかすかな冷たさを戻し、続ける。

「結局、倉田か八尋かどっちか片方しか選べないなら、なんの迷いもなく倉田のほうを切り捨てるんだし。羽村は八尋のためなら倉田を傷つけたって平気なんだよ。ねえ倉田」

 にこりと笑って、永原くんが言葉を継ぐ。

「倉田だって、もうよくわかってるんでしょ」

 私はただ黙ってかぶりを振った。ぼうっと熱くなっていた胸に、ひやりと冷たい水が落ちたようだった。それは焼けるようだった焦燥すら一気に冷え切らせ、目の前を暗くする。なにか反論したかった。だけど結局、私は反論の言葉なんて一つも持ち合わせていなかった。ただ馬鹿みたいに、何度も首を横に振る。

「違う、ちが」

「違わないよ」

 どこまでも優しい口調で、永原くんははっきりと残酷な言葉を紡ぐ。

「羽村は倉田を切り捨てて、八尋を選んだ。もう今更、倉田がなにを言ったって信じてもらえないよ。羽村だけじゃなくて、八尋も」

 私は思わずぎゅっと目を瞑った。それ以上聞きたくなくて、大きくかぶりを振る。けれど永原くんの柔らかな声は、容赦なく耳元で続いた。

「おれのためなら、倉田を切り捨てることができるんだし。倉田はさ、羽村と八尋のこと本当に大事に思ってたみたいだけど、結局、羽村にとっても八尋にとっても一番って倉田じゃないんだよ。八尋は倉田の言葉よりおれの言葉を信じるし、羽村は倉田の言葉より八尋の言葉を信じるし。二人とも、もう倉田の言うことなんてなにも信じないよ、きっと」

 内容とは裏腹に、諭すような彼の口調はとても優しくて、しだいに深い混乱がこみ上げてくる。

「ひどいよね」心からこちらを気遣うような調子で、永原くんはさらに重ねた。

「倉田はそんなことするような子じゃないって、ちょっと考えればわかりそうなのに」

「……そんな、こと」

 呆けたように彼の言葉を繰り返す。私はゆるゆると視線を上げ、永原くんの顔を見た。

「そんなこと、って、なに」

 強張った声で聞き返す。だけど永原くんは淡く微笑んだだけでなにも答えなかった。私もそれ以上問い詰める気にはなれなかった。きっと心のどこかではもう察しがついていたのだろう。先ほど聞いた鈴ちゃんの言葉が、繰り返し頭の中で響く。

 応援してくれるって言ったよね。嘘ばっかり。永原くんと、別れてくれるの。


 じわりとした熱がまぶたの裏に広がる。

 耐えかねて顔を伏せれば、ふたたび真っ黒に塗りつぶされたノートと教科書が視界を埋めた。

「十年間一緒にいたって、結局」

 ゆっくりと言葉を続けながら、一歩、永原くんがこちらへ歩み寄る。穏やかな口調に反して、彼の右足は目の前に落ちるノートをまったく容赦のない力で踏みつけた。ぐしゃりと音を立て、そこに書かれた文字が歪む。

「羽村も八尋も、倉田のことなんて何にもわかってなかったんだよ」

 まるで毒のように、その声はすうっと身体の芯にまで染み入ってくる。それは否定しようとする力すら一気にそぎ落とし、代わりに真っ暗な絶望を膨らませた。

 たまらなくなって、ぶんぶんと首を横に振る。けれどその動きも、しだいに小さく、鈍くなっていく。


「――かわいそうにね」

 私の目の前に立った永原くんが、ふっとこちらへ顔を寄せ、囁いた。

「好きなのも、大事に思ってたのも、結局、倉田だけだったんだよ」

 閉じたまぶたの裏に、今度こそ焼けるような熱さが弾ける。咄嗟に反論しようと開いた口からは、引きつった嗚咽だけが漏れた。

 あの日蓋をしたはずの想いは、消えたわけではなくて、ただ心の底に眠っていただけだったのだ。改めて突きつけられる事実に途方に暮れ、目を伏せる。拍子に、こぼれた涙が頬に落ちた。

「ねえ、だけど」

 耳元で、どうしようもなく優しい声が続く。私の腕を掴む彼の手に、少し力がこもった。

「おれは、ちゃんと知ってるよ」

 その言葉は、まるで頭の奥に直接吹き込まれたかのようだった。

 途端、勢いよく目から涙があふれ出す。肩が何度も大きく震えた。頭の中は真っ暗で、もうなにも考えることができなかった。ただ永原くんの声だけが、すべてを塗りつぶすように重なっていく。

「倉田がなにも悪くないってこと。おれだけは、ちゃんとわかってるから」

 そうしているうちに、なにが悲しくて泣いているのかも、しだいによくわからなくなってくる。

 崩れ落ちるように床にしゃがみ込めば、私の腕を握っていた永原くんも、引っ張られるようにして私の傍に膝をついた。空いたほうの右手で口を覆う。その下でも、途切れることなく嗚咽が漏れた。

「ねえ倉田」

 やがて永原くんが私の腕を離し、代わりにそっと私の背中を撫でた。

 制服越しに伝わる体温も、ゆっくりとした動作も、あの日こうして触れてくれた彼の手のひらと何一つ変わらなくて、よけいにわけがわからなくなる。下を向くと、ぼろぼろと落ちた涙がノートに並ぶ黒い文字を滲ませた。

「おれだけなんだよ」

 ゆっくりとした手の動きに合わせるよう、永原くんが穏やかに言葉を継ぐ。

 視線を上げれば、柔らかな眼差しがこちらを見つめていた。いつもとなにも変わらない優しい笑顔に、よりいっそう喉が引きつり、息が詰まる。

 そして唐突に理解した。私はもうとっくに、なによりも大切だったものを失ってしまったのだと。

 目を伏せると、床に散らばるノートの上に次々と滴が落ちて、弾けた。先ほどまで頭を満たしていたはずの浩太くんの言葉すら、すべて遠ざかっていくのを感じた。


 掠れた吐息が漏れる。気づいたときには、震えながら上がった右手が永原くんのほうへ伸びていた。

 自分がなにに縋ろうとしているのかはよくわからなかった。けれど私の指先は、迷うことなく彼の制服の裾を強く掴んでいた。

 永原くんがふっと目を細め、制服を握りしめる私の指を見つめる。やがて私の手をそっとそこから離すと、「ねえ」と静かに口を開いた。

「倉田には」

 その言葉は、きっと呪文だ。聞いてしまったらもう、私は振り切ることができなくなる。

 そんな打ち消しがたい予感を抱きながらも、私はどうすることもできなかった。永原くんの手が、今し方制服から離した私の手をぎゅっと握りしめる。そうしてゆっくりと、言葉をつないだ。

「もう、おれしか、いないんだよ」

 私はじっと目を伏せたまま、彼の手を強く握りかえす。そこから伝わる体温以外、私が頼れるものなんてなにもなかった。溺れる者が藁をつかむみたいに、震える手で必死に永原くんの手を握りしめる。

 そのときふいに、永原くんがひどく楽しそうに笑ったような気がしたけれど、それも頭の奥にまで染み入ってくることはなく、すぐにかき消えた。

 嗚咽がふたたび連続して漏れる。私はそのまま泣き続けた。他にはなにもできない子どもみたいに、永原くんの手を握りしめたまま、いつまでも泣き続けていた。

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