chapter7
わたしと後輩は、ガソリンが続く限り走り続けました。彼はとても運転が上手で、また裏道もよく知っていました。
追い抜かしていく人々の、嘆きも、悲鳴も、なにもかもを後ろに残してどこまでもどこまでも走っていきます。
「…この辺までくれば、いいっすかね…」
疲れた様子で後輩はバイクから降りました。わたしにも手を貸してくれます。
あたりに人は少なく、わたしたちのように逃げてきた、という人は少なそうでした。
先輩や、上司はどうなったのでしょうか――。
わたしが沈鬱な表情をしているのを見て取ったのでしょう、後輩がわざとらしく肩をすくめました。
「あんな殺しても死ななそうな人たちの心配、するだけ無駄っすよ。どうせ明後日には『会社にこーい!』なんてラインが来ますって」
「そうだと…いいけど」
そういえば家族は無事でしょうか。いえ…東京に住んでいないので、きっと大丈夫なのかもしれませんが。
それでもあの黒い液体のことは現状何も分かりません。もしかしたら想像した以上に広がっていくかもしれないし、生き物のように動くかもしれないし、分裂して大きくなるかもしれない…。
そんな恐ろしい考えばかりがわたしの脳裏をよぎります。
後輩はそんなわたしの手を掴みました。
「大丈夫ですって! だって俺ら、ここまで逃げてこられたんですよ? だったらまだ逃げられます!」
「う、うん…」
「それより今日の宿を考えるべきですよ。この川向うに泊まるところあるといいんですけど――それ以前に、まだやってるのかな」
後輩はそばの橋へずんずん歩いていきます。わたしは慌てて引っ張られるがまま、その背中を追いました。
「バイクはどうするの?」
「あー、もったいないすけど、あのまま放置です。運がよかったら取りに来ます」
「そっか」
橋のちょうど真ん中に差し掛かった時、甘ったるいにおいがすることに気づきました。
なんの匂いでしょう。そういえば、逃げる時も同じようなにおいがしたような気がします。
「ねえ、なにか匂いがしない?」
「匂い? 俺の香水じゃなくてですか?」
「うん、違う匂い…」
後輩の背中にしがみついている時、さわやかな香りがしました。はじめて彼が香水をしていることに気が付きましたが――今は良いとして。
「甘い匂いがするの。チョコレートにしてはちょっと違うし、カラメルに近い感じかな…」
「んー? あ、確かに」
あたりを見回しますがこれと言ってお菓子工場だとか、パン屋さんは見当たりません。住宅が並ぶ街です。
ふと、橋の下で水が跳ねる音がしました。いくつも聞こえます。
大きな魚でもいるのかと不思議に思い、橋の欄干から見下ろしました。
「…え?」
透明、あるいは少し濁っている水を想像していたのに、眼下に映るのはコールタールでも流し込んだかのような、黒々とした液体です。
私はこの時悟りました。
この液体は、川にも流れ込んでいるのだということを。
そして今まさに、その周囲にいる人間を飲み込もうとしていることを。
わたしたちは、逃げられないということも。
横で同じものを見て、同じような考えを出したのでしょう。
あきらめ、吹っ切れたような笑顔で後輩はわたしを見ます。
「俺の運転テク、すごかったでしょう」
「…うん。また乗せてね」
「いいっすよ。というか先輩も大型二輪取りましょうよ。それで、ツーリングとかしたいっす」
「いいかもね…。北海道のパッチワークの丘とか行ってみたかったんだ」
甘ったるい匂いが、もうすぐそこまで来ています。
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