chapter4

「ぼく、オリンピック行きたかったのに!」


 もう何度目かになる息子の恨み言を聞き流す。

 地方の病院。母が――息子からすれば祖母が倒れた。

 オリンピックを見に行く予定であったが、さすがに身内の入院を放っておくわけにはいかない。姉さんにも後々ぐちぐち言われてしまうだろうと考えてのことだ。


 しかし蓋を開けてみれば母は一週間後には退院できるし、姉さんは家族とオリンピック旅行だ。

 いろんなものをほっぽり出して来てしまった自分が恥ずかしく、だからこそ息子の愚痴にも強くは叱責できなかった。


「迷惑かけたねえ」


 母がボソリと言った。孫の言葉が老体に刺さっているらしく、ここ最近はずっと伏し目がちだ。


「やめてよ。…見栄のためにあんな暑いところにいくより涼しい場所で競技見てるほうがよっぽど楽だもの」


 本音を交えたつもりだが、可愛がっている孫の恨み節の前ではすべて無意味だった。


「これで何か好きなもの買ってあげて。夏休み明け、ちょっとは自慢出来ることを増やしてあげたいから……」

「母さん」


 財布を出そうとする母を制止する。


「オリンピック見なかったぐらいで死にはしないんだから! いつかの万博みたいなもんよ、行かなくても別にどうってことないわ」


 …姉さんは自慢したがるだろうけど。そして、いとこに夏の一幕を語られる息子を思い、今から不憫になってしまう。


「とにかく、元気で良かったじゃない。…ショウタ、売店で飲みたいの買ってきなさい」


 声変わりを済ませていない男子のぶつぶつという独り言は耳に辛い。少しは機嫌が良くなるだろうか。

 千円札を握らせるとパッと表情を明るくさせ意気揚々と病室を出ていった。現金な子だ。あれは本当に好きなおもちゃなりなんなり買わせたらいいのかもしれない。


「どのチャンネルもオリンピックだらけねえ…」


 ぱちぱちとチャンネルを変えながら母はため息をついた。


「しばらくは仕方ないよ……待って?」


 生中継、と右上に表示されているチャンネルで止めてもらった。

 なんだ、これは?演出か?


「噴水…?」


 にしては禍々しい。

 主要競技場から、黒々とした何かが吹き上げていた。


『ご覧ください! なんでしょうかこれは! ああっ、逃げ、逃げるぞ!』


 レポートをしようとするも恐ろしくなったのか、レポーターは素に戻りマイクを投げた。

 次の瞬間には悲鳴とともに何かが潰れた音がして、画面は黒くなった。


「な、なにこれ…タチの悪いドッキリ?」


 まわりの病室からもざわざわと声がする。みんな同じものを見ていたのだろうか。

 他の生中継をしている番組に変えても同じような結果だ。黒い液体が降り注ぎ、悲鳴と怒号、人が飲み込まれていく。

 あのままどうなってしまうのか。

 はっとしてテレビを消した。母の体調に良くない。


「…パニック映画だよ」


 うそぶく私の声は震えていた。真っ黒な画面に映った自分を見て、ギョッとする。


「ママー、コーラ買ってきた! ママはコーヒーがいいんでしょ?」


  息子がのんきに帰ってくる。母が振り向くより先に私は息子を抱きしめた。


「ママ? どうしたの?」

「大丈夫、大丈夫よ……」

「あなた震えてるじゃない…来て、手を握るから…一緒にいるから…」

「大丈夫、母さん…本当に……」


 本当に、大丈夫なのだ。息子の肩に顔を埋める。

 ああ、忘れられない夏になる。オリンピック会場の、ちょうどあの競技場にいるだろう姉さんを思う。

 あの液体に飲み込まれているだろうか。それともまだ逃げているだろうか。旦那とははぐれずにいるか、子供と手を離していないか……。


 姉の不幸を思い浮かべながら、心からオリンピックに行かなくて良かったと私は笑みを抑えきれなかった。

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