chapter3

「うわー、マジか…」


 俺は思わず独り言を零した。辺りを見回すと人、人、人。よりによってこんなところで彼女とはぐれるなんてついていない。

 東京オリンピック、バスケの試合。それが俺たちの初デート……みたいなものだった。


 友人たちには「そんな人死にが出そうな場所でデートなんてイかれてるのか」と散々言われていたが、今になっては何故その忠告を聞けなかったのかと己が身を呪うばかりである。

 電波も入りが悪いし、果たして互いを見つけられるのはいつになるのか。

 怒っているだろうなあ…。半年間の片思いが実ってやっとのデートなのに。背伸びをしすぎて複雑骨折をしてしまった感覚だ。

 これなら夢の国のほうがまだマシだっただろう。とりあえず、どこか屋内に入りたい。暑くてたまらないのだ。


 皆考えていることは同じらしい。休憩スペースは満員でクーラーの冷気が辛うじて感じられる程度。快適とは程遠いがわがままを言っていられない。

 日差しから逃げることができた俺はホッと一息をついた。彼女に電話をかけるが、混線しているのかなかなか繋がらない。

 イライラとした気持ちで電話をかけ続けていると、外でどよめきがあった。見れば屋外にいる人たちは皆一様に空を仰いでいた。

 …何かサプライズ的な催しでもあったのだろうか。あったとしてもわざわざ日に焼かれて見に行くほど元気はない。


 びちゃん、と外でやたらと大きい音が響いた。小さな頃よく遊んだスライムのような。何度も何度も聞こえる。

 何が起きている、と休憩スペースの人々は眉間にしわを寄せて屋外に注目し始めた。

 外にいる人があんぐりと口を開けている。ふっとそこに影が差す。

 ――べちゃりと、黒い粘着質な何かが落ちてきた。そこに確かに人がいたはずなのに、悪い冗談のように、黒い池が広がる。

 ぱちゃん、ぱちゃん、べちゃりべちゃり。

 悲鳴を上げさせる暇もなくそれは落ちてくる。休憩スペースの天井から嫌な音がする。恐る恐る上を見上げた。ヒビが入っていた。


「え…」


 俺はとっさに外へ飛び出した。

 危険なのは外か、中か、分からない。分からないが嫌な予感がした。

 数秒後、轟音とともに休憩スペースが倒壊した。振り返るとチョココーディングされたケーキのように、すっぽり黒い粘り気のある液体に包み込まれている。辺りは甘ったるい匂いが充満していた。

 な、なんだよ、なんだよこれ…!

 遠くで噴水のように黒い液体が噴き上げられている。そこから水しぶきのように、ぼたぼたと液体が落ちてきている!

 噴水から逃げるように走るが、周りにどんどん液体が落ち、人を潰し、取り込んでいく。

 汗が流れる。涙かもしれなかった。


「シキくん!」


 悲鳴に紛れて名前が聞こえる。とっさにそちらを向くと彼女が人の波に逆らいながら叫んでいた。


「マナ!」

「シキくーん!」


 泳ぐように人をかきわけ、手を伸ばす。

 掴んだ!


「よかった会えて! 逃げよう!」

「うん!」


 手をしっかりと繋いだ。二度と離れないように。そして俺たちは走っ


 ――ぱちゃん、


 と目の前に黒い液体が落ちた。俺と繋いだ手だけを残して、彼女は消えた。


「え?」


 ぽかりとそこだけ空間が出来たようだ。

 甘ったるい匂い。

 汗。

 彼女の香水のにおい。

 ネイルをした爪。

 手首から腕時計が落ちた。

 腕がなくなってるから。

 柔らかい手のひら。

 どこに行ってしまった? このスライムの下敷きになっているのか?


「マナ……?」


わけが分からなくなり空を見た。

俺の上にも、それは落ちようとしていた。

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