chapter1 

 その光景は、わたしの勤めるオフィスからもよく見えました。――職員の休暇の多い日だったので、ごく小さな困惑のさざ波だけで済みました。もしも大勢いたならパニック状態だったでしょう。

 わたしが呆然と外を見ていると、上司は「最悪だ」とだけ呟きました。


 振り向いた上司の顔は真っ青でした。今までどんなお叱りを上から受けても飄々としている人だったので、その様子を見てわたしはようやく「異常なのだ」と思いました。

 上司は周りを自分に注目させるために片手を上げます。


「あれは俺の幻覚か?」


 問いかけに否、とみんなは答えました。上司は苦笑いします。


「集団幻覚か」


 集団幻覚ならなんと面白かったことでしょう。ええ。本当に。皮肉も無しに。

 遠くに見えるオリンピック会場の位置に、コールタール状の黒々とした液体が噴き上げています。

 噴水のように勢いよく。なにか形を作ろうとしては崩れていきます。むかし弟と遊んだスライムを見ているようでした。


 吹き上げるたびに、形を崩すたびに、周りの建物を液体が覆っていきます。

 わたしは恐ろしさに耐えきれなくなりその場に尻餅をつきました。

 あれは――あそこにいる人たちは、無事なのか。そもそも触れたらどうなるのか。ここからではなにも、分かりません。


 ブゥン、という空調機の音だけがオフィスを満たしています。

 熱いのか寒いのは、もはや分かりません。冷汗ばかり出ます。


「下手な怪獣映画みたいだ」


 先輩が無理やり笑いながら言います。


「どうします、佐藤課長? B級映画ならおれたちも飲み込まれるパターンですよ」

「家族があそこにいるんだ…」


上司は呻きました。


「B級映画のように」


 先輩は黙りました。同僚が啜り泣きます。

 やはり、知り合いがオリンピック会場に行っているのです。

 …いえ、このオフィスの、休暇を取ったもので何人が会場に――? そこまで考えて、ゾッとしました。理由は分かりません。

 ただ…おそらく、遠い出来事が一気に現実感を伴い始めたからでしょうか。


「今から携帯の使用を許可する! 安否確認だ! それに情報も!」

「いや、そんなんより逃げましょうって。他人よりこっちの安全スよ」


 わたし直属の後輩が真面目な顔をして指摘しました。上司が怒鳴る前に、私たちが目を離した窓を指差しました。


「アレ、こっち来てますもん」


 見れば泥のようなスライムのようなコールタール状の何かは外側に向かって形を作り、崩壊しながら広がっていきます。

 この距離から見ても目に見えて動きがあるということは、相当早いのでしょう。


「交通機関はもう間もなく麻痺をする。しかもあれは走って逃げられるか分からないっス。ね、井崎先輩。B級映画でのお約束、でしょう?」


 先輩はぽかんとしています。


「なんだ、おまえも見るんだな、映画。知らなかった」

「失礼っスね。サメ映画愛好家なんですよオレ」


 あまりにも、場違いな言葉です。それでも、そのやりとりで皆正気に戻りました。


「逃げるぞ!」


 上司が叫びました。いっせいに周りが動きます。

 出遅れたわたしがオロオロしていると、後輩がわたしの手を掴みました。


「バイクの後ろ、乗ったことあります?」

「…ある!」


 むかし、友達に乗せてもらったことがあります。そう難しくはありませんでした。


「じゃあ乗せてやります。緊急事態だし、ノーヘルでも許されますよね!」

「パニック映画の定番だな。生き残れよ、若いお二人!」

「先輩こそ!」


 わたしたちはバタバタと駐車場まで慌ただしく駆けます。後輩は自分のヘルメットをわたしにかぶせました。ふと、かすかに甘ったるい匂いがすることに気づきました。

 そのことを後輩に言う前に、バイクは急発進します。

 もうきっとこのオフィスに戻ることはないだろうな、という漠然とした確信を胸に、バイクのモーター音を感じ取っていました。

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