雪猫亭

 雪猫亭。ヤルタの町で唯一内風呂が付いている宿だ。

 残念ながら奴隷であるチシャは一般の温泉に入ることは出来ない。出来ればガイドブックに書いてあるような露天風呂に入ってみたいのだが…… 

 それは背中の入れ墨を全部消してからだな。


 三人で受付を済ませる。今回も俺達は家族のフリをして泊まることにした。

 ふふ。親子か。ごっことはいえ、フィオナが俺の嫁さんか。なんか嬉しいな。


 受付のドワーフが宿の説明を始める。


「内風呂が付いている部屋ですが百五十万オレンになります。よろしいでしょうか?」


 やはりお高い…… ってゆうかこの国の物価はおかしい。全体的に値段が高いのだ。

 シバも言っていたがこの国の経済は鉱石に依存している。鉱石ってのはいい金に替わるからな。国民一人一人が裕福なんだろう。


「それと厨房の使用料として十万オレンを追加させていただきますのでご了承ください」


 ふぇぇ…… 更なる出費が。だってこの国の料理は美味しくないのだ。全体的にしょっぱくてねぇ。俺達は宿に泊まりつつも自炊することを選んだ。


 ここに来る前に食材を買ってきたのだが、卵一個が千オレンって…… 宝石を換金しておいて本当によかったよ。

 因みに夕食と翌日の朝食分の買い物で十万オレンだった。王都で節約すれば一ヶ月分の食費になるな……


 部屋に案内される。お高い割には今回は一部屋か。むぅ、今夜は無しだな。フィオナも少し残念そうな顔をしている。

 でもお風呂は前回同様、庭に露天風呂があった。これは嬉しい!


「ライー、お腹減ったー」


 よしよし、今日は俺が腕を振るってやるとするか。久しぶりにカルボナーラを作ることにした。

 この子にパスタを食べさせるのは初めてだな。美味しく作らないと。


「フィオナはチシャと先に風呂に入っていてくれないか? 俺は料理作ってくるからさ」

「やだ! 三人で入るの! 待ってるから!」


 チシャに拒否されてしまった。嬉しいじゃないですか。じゃあ、風呂の前にごはんだな。早めに作って戻ってこよう。


 厨房の一角を借りて調理を始める。ふんふふーん。美味しくなーれ。卵が固まらないよーに。滑らかな舌触りになるよーに。チシャは美味しいって言ってくれるかな? 完成するとすぐに部屋に戻る。さぁご飯だぞ!


 部屋に入るとキラキラした眼差しでチシャが俺を、いや、俺が持つパスタを見つめる。


「いい匂いがする!」

「はは、よし! すぐに食べよう!」


 テーブルにパスタを並べる。チシャもフィオナもいい笑顔だ。二人共お腹が空いているんだな。

 チシャがフォークを手に取り、ぎこちなく食べ始める。クルクルとパスタを巻いて口に運ぶ……


「なにこれ! おいしい!」


 チシャは夢中になってパスタを啜る。乳白色のソースが口の周りについている。はは、そんなに美味しいか。作った甲斐があるってもんだ。


「ライトさん、腕を上げましたね。もう私が作るより美味しいです」

「そうかな? 俺はフィオナが作ったほうが美味しいと思うけど?」


 そういえば母さんが作ってくれたミネストローネ。同じ材料と作り方をしていたのにも関わらず、母さんの味と同じにならなかった。愛情が決め手なのよって言ってたな。

 そうか、美味しく感じる理由はそれなんだろうな。


 このカルボナーラは俺のために作ったのではなく、愛する二人のために作ったんだ。俺の愛情がたっぷりと入っている。

 フィオナが自分のより美味しいと感じてくれるのは当然か。


「そう言ってくれると嬉しいよ。それにしてもパスタってどういう世界で知ったんだ?」

「ごめんなさい。覚えてないんです。記憶、知識としてではなく経験として作り方を知っているんです。異世界に渡る際の記憶の消失のせいですね。

 米のこともそうです。その味や調理方法を覚えていても、どうやって知ったかは忘れてしまいました」


 そういや記憶を失うんだったな。こんな美味しいものを食べられる世界か。いつか行ってみたい気もするな。


「あ…… 無くなっちゃった」


 チシャが悲しそうな顔で皿を見つめている。俺の分をあげるか。

 自分の器からパスタを半分程取ってチシャの皿に載せてあげた。


「いいよ!? もうお腹いっぱいだから!」


 すごくかわいい嘘をつく。

 ふふ、子供が遠慮することはないのだ。


「いいから食べな。お前の為に作ったんだから」

「ありがと……」


 少しだけ申し訳ないような顔をするチシャ。気にしないで、いっぱい食べてな。



◇◆◇



「チシャ、準備はいいかい?」

「うん!」


 お腹が落ち着いたところで治療の時間が始まる。治療といっても入れ墨を消すために皮膚を焼くのだが…… 

 チシャのリクエストでお風呂の前にやっておきたいと言ったのだ。がんばれよ…… 

 彼女はタオルを受け取ってそれを口に咥える。


「チシャ、がんばってください」


 フィオナが悲壮な表情で小さな炎を射出する。



 ―――ジュワッ



 ゆっくりと火の玉がエメラダの背を焼いていく……


「んぐー!」

「はいお終い! よく頑張りました! mastdalma超回復!」


 焼けた皮膚が回復していく。抱きついたままチシャが離れない。大丈夫だろうか……?


「ふぇぇぇ! 痛かったよー!」


 あ、ウソ泣きしてる。かわいいので許すが。

 甘えたいんだろうな。抱っこして背中を撫でる。

 そんなチシャを見たフィオナは……

 

「だいぶ慣れてきたみたいですね。これならもう少し焼く箇所を増やしてもいいかもしれません」

「えっ!?」


 チシャが腕の中でビクってなった。


「わわわ、わたし、ががが、がんばれるよっ!」

「んふふ。嘘ですよ。焦ることはありません。ゆっくり入れ墨を消していきましょ。じゃあ、お風呂の時間ですね。ライトさん、チシャ、タオルを持ってきてください」


 ははは、フィオナがこんなことを言うなんてな。

 さてお風呂の時間だ。ヤルタの温泉は赤いお湯が出ることで有名なんだっけ? 

 服を脱いで庭に出ると…… うわっ、すごい。ほんとに真っ赤だ。


「ここの温泉の効能は貧血に効くそうです。肩凝りにも効果があります。飲むことも出来るんですよ」


 チシャが恐る恐る湯船に指を付けてペロっと舐めてみる。


「うぇ!? しょっぱい! 美味しくない……」

「ふふ。これは薬みたいなものですなら。ごくごく飲めるようなものではありませんよ」


 湯船に浸かる前にしっかりと体を洗う。チシャは一日中嫌な思いをしたんだ。汚れと一緒に洗い流してあげたい。

 タオルで体を擦ると身をよじらせる。


「あははは! くすぐったい!」


 前回同様チシャが笑いだす。こらこら、暴れるんじゃない。洗えないでしょ。

 自分で洗わせるか。タオルを渡す。


「ごめんね。前は自分で洗って。背中だけ洗ってあげるから」

「…………」


 どうした? そんな残念そうな顔して。


「我慢する…… ライ、洗って……」


 よーし、はりきって洗っちゃうぞー! 

 ごしごし擦ると庭にチシャの笑い声が響き渡った。


 体を洗った後は湯船に浸かる……のだが、この色だ。流石に躊躇してしまうな。

 血の池みたいだ。チシャは勢いよく温泉に飛び込んでいった。


「ライ! 早く入って! うぇー、ふかーい」


 元気だなー。半日前まで盗賊に監禁されていたというのに。

 チシャに誘われ、俺も温泉に浸かる。 お? 確かにと深いな…… 

 座ると首まで湯に浸かることになる。チシャはつま先立ちしてしのいでいるようだ。

 するとフィオナが俺の右膝に座ってきた。彼女にとってもこの湯船は深いんだな。


「ちょっと膝を貸してくださいね。チシャ、こっちにいらっしゃい」


 今度はチシャも俺に体を預けてくる。そうしないと溺れちゃうもんな。

 愛しい恋人とかわいい幼子が俺に密着している。なんだろうかこの幸せは。


「フィオナー。少し熱いよ」

「はいはい。laηcaaicia氷槍

 

 フィオナが氷魔法を使って温度を下げる。温度がちょうどよくなったせいか、チシャの目がトロンとしてきた。眠くなったか。

 今日は眠る前に上げてあげるとしよう。


 チシャの体を拭いてあげるが、彼女はもう限界のようだ。真新しい下着を着せてベッドに運ぶ。横になった途端に寝息が聞こえた。

 やっぱり疲れてたんだよな。お休みチシャ。いい夢を見るんだよ。おでこにキスをしておいた。


「ライトさん、私まだ物足りないんです。よかったら一緒に入りませんか?」


 そうだな、どうせここではアレは出来ないしな。


「喜んで。ゆっくり温泉を楽しむとしますか!」


 再び庭に出て温泉に入る。フィオナはまた俺の膝に乗ってきた。

 ふー、気持ちいいな。今はゆっくりと温泉を楽しみとしよう……と思ったが、フィオナが話しかけてくる。


「ライトさん。私、もうすぐ新しい感情が発露します。今日ね、あの音が聞こえたんです」

「あの音? ガラスが割れるみたいな音だっけか?」


「そう。でも今はひびが入るような音だけ。もうすぐ楽の感情が芽生えるのが分かりました。少しずつですが未来を想像出来るようになってきたんです」


 王都で言ってたな。たしか与えられた状況から未来を想像することは出来るけど、何もない所から未来を想像出来ないって。

 チシャという存在が影響したんだろうか?


「どんな想像が出来るようになったの?」

「ひみつです……」


 そう言ってフィオナはキスをしてから耳を噛んでくる。何となく分かった。


 俺の耳をひとしきり噛んだ後、フィオナは立ち上がって後ろを向く。美しい背が露わになる。


 フィオナは壁に手を着いた。


 切なそうな顔をこちらを振り向く。


 もしかして…… ここで!?


 フィオナは俺を誘うように見つめる……


 俺は誘われるがままに……

 





 こうしてヤルタでの一日は終わった。今度はこの旅の最終目的地、タターウィンを目指す。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る