第3話
紅葉書店は、桜並木の国道から一本内側の通りに面している。
開け放された店内にはいつも外の空気が流れ込み、それはまるで本たちの呼吸が感じられるようだ。
僕がこの書店のバイトを選んだのには、実はそういう理由があったりする。
「今日もお客さん少ないねぇ」
新刊をまとめた棚に書籍を並べていると、奥のほうから今井の不貞腐れたような声が響いた。
周りを見渡すと、確かに誰もいない。
「せっかく神楽木先生の新刊が出るのに」
「仕方ありませんよ、平日ですから」
作業する手を止めずに苦笑すると、「でもさぁ」と今井は口を尖らせた。
正確に言えばこの位置から彼女の表情を窺うことはできないのだが、見なくても容易に想像できる。
「そんなにいいんですか、神楽木楓の作品?」
「そりゃあもう! ストーリーに勢いがあってさ、もう読むのが止まらないんだよね。それでいて表現にも面白みがあって、独特な言い回しが記憶に残るっていうか? 特に新刊は世界観にも凝ってて……」
ちなみに僕は今井に、自分が本の虫であることを隠している――――――というか言っていない。
勿論神楽木楓の作品は過去に読んだことがあるし(一冊だけだが)、彼だか彼女だかの作風も大体把握しているつもりだ。
その作家に対する彼女の想いが何となく気になり試しに尋ねてはみたものの、そこまで語ってくれるとも思っていなかった僕は今井の熱量に驚いた。
かなりご執心のようだ。
あまりに熱がこもりすぎて、若干新刊のあらすじまで語り始めている気もする。
ふと手元を見ると、自分の右手が
「そうなんですね。えっと、いくらだこれ……1500円?」
本をひっくり返して後ろ側に書いてあった値段を読み上げる。
今井は「え、何!? 読んでくれるの!?」と歓喜し、バタバタと騒々しい足音を立てながら本棚を回り込んでこちらにやってきた。
「それならあたしの貸すよ!! ほらこれ!」
押し付けられた本には、紅葉書店のブックカバーがされている。
「いや、僕、読むの結構遅いんでいいですよ。返すのいつになるか分かりませんし」
「全然いいよ、気にしなくて! いつか返してくれればそれでいいから!」
「いやいや、ここは売り上げに貢献させてくださいよ。ね?」
日本人お決まりの遠慮大会は(半ば強引だったが)僕の勝利に終わり、バックヤードに置いていた自分の財布から1500円プラス税をレジに放り込んだ。
折り目を付けてから被せた真新しい紙のブックカバーには、紅葉をあしらった絵が描かれている。
それをエプロンの大きめなポケットに入れてから、作業を再開すべく元居た場所へと戻った。
「じゃあ、読み終わったら感想聞かせてね?」
「はいはい、分かりました」
「本当に好きなんですね」とからかうように笑うと今井はなぜかドヤ顔で「勿論!!!」と胸を張った。
「おい蒼空、何読んでんだよ」
隣からミヤの小声が割り込んだ。
集中を阻害され、栞を挟みなおしながら嘆息する。
「小説だよ。別に何読んだっていいだろ」
あえて邪険に扱ったつもりだったが、当の本人はそれに気づくこともなく「あ、これお前のバイト先のやつじゃん」と紅葉がデザインされたブックカバーを指さした。
「わざわざ図書館にきて自分の本読むのかよ、図書館に失礼だぞ」と謎理論を展開している。
もう小声ですらなかった。
一体どうしてこいつと友達をやっているのかと考え始めそうになり、そして悟る。
恐らく答えは出ない。
声のボリュームを一層落として、ため息交じりに口を開いた。
「お前が行きたいって言うからついてきてやったんだろ」
「てかまじで何読んでんの?」
「……教えたら黙って勉強するんだな?」
なぜかドヤ顔で「勿論!」と胸を張るミヤ。
デジャヴだろうか。
僕はブックカバーを半分だけ取って、表紙をミヤの方に差し出した。
「ああ、神楽木楓か。お前もこういうの読むんだな」
「いや……昨日バイト先の先輩に勧められたんだよ」
「へぇ……ってか、え?それ、昨日出たばっかのやつだよな。もう買ったの?早くね?」
それは少し意外な反応だった。
本好きの自分や書店員の今井が知っているのはおかしくはないが、そもそも神楽木楓はお世辞にも日本を代表するほど有名な作家ではない。
新進気鋭の新人作家とは言ってもまだ人気は上昇中だし、映画化やドラマ化された作品があるわけでもない。
そんな人物を、しかも昨日出たばかりの新刊を、本などむしろ縁遠そうなこの友人Aが知っている……?
「……ミヤお前、よく知ってたな。これが昨日発売の新刊だって」
「え、あ、いや――――んじゃ俺ちょっと勉強するわー……」
怪しい。非常に怪しい。
しかしまあ、言いたくないことを無理に言わせるのもあまりよくないだろう。
「おう」
「……いやいやいやいや、そこは質問しろよ!」
「どっちだよ!!」
僕の叫び声が、静かな館内にこだました。
ミヤによると、どうやら神楽木楓という作家の話は知り合いの女性から聞いたのだという。
その人はミヤの実家が営む喫茶店の常連で、ミヤは彼女にいわゆる恋愛感情を抱いているらしい。
「その子、いっつも本読んでてさ。この前頑張って『何読んでるんですか』って声掛けたんだよ。そしたら『神楽木楓って知ってますか』って。また今度話しかける口実になりそうだと思って、今その作家の本読み漁ってるんだよ」
ミヤは嬉しそうに笑って言った。
「おう、よかったな」
誰が聞いても明らかに棒読みだと分かるレベルの平坦な返事を返すと、ミヤは「いやもっと興味持ってくれよ」と言って想い人のことを語り始めた。
「俺金曜は3時からシフト入れられてんだけどさ、その子、毎週同じ時間に来て毎週窓側に座って毎週ホットコーヒーを頼むんだわ。待ち合わせとか勉強とかじゃなくて、ただずーっと本読んでんの。でも姿勢がめっちゃ綺麗でさ。あ、あと髪も綺麗なんだよ、いつもポニテなんだけどさ、やっぱポニテってなんかいいよなー」
……嫌な予感がする。
「……なぁ、お前ん家って確か、ここから結構近かったよな」
「ああ。歩いて十五分くらいのとこにある、『深谷珈琲店』ってとこだ。お、もしかしてこれから来てくれ————」
「その人の持ってた本、ブックカバーとかしてなかった?」
「お、おう、してたしてた。なんか紅葉っぽい絵の……ってそれだわ!! え? てことはあの子、お前のバイト先の常連?」
カバーに描かれた紅葉を指さして混乱するミヤを眺めながら、「お前ってほんと……」と独り
世間は狭い。たとえそれが都会であっても。
ミヤの実家から紅葉書店までは、徒歩十分強。
一方某名門国立大学はそのすぐそばだ。
そして言っちゃ悪いが、紅葉書店には閑古鳥が鳴くどころかほぼ住み着いている。
可能性は大いにある。
というか十中八九間違いない。
「まじかー……」
僕はそうでない可能性に一縷の望みを懸けて、どこか憎めない友人Aの狼狽えようを落ち着かせる術を模索し始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます