第2話

 運命の赤い糸、という迷信がある。実は人は運命の相手と、見えない赤い糸で繋がっているらしい。だからどこへ行き何をしようと、その相手といつかは出会い、一緒になるという。

 理工学部情報学科の僕は、勿論信じていない。周りの人間と同じ程度には『運命』という言葉の意味について考えたことがあるし、科学研究の進んだこの時代においても、えんや何かしらの思し召しみたいなものがこの世に絶対に存在しないとは言いきれないのも十分に承知している。

 というかだいたい線を捨てたがっているはずの人々がなぜ『糸』の迷信なんて信じるのだろう。どんなに同じ話を聞きすぎても耳にできるタコはないのと同様に、どんなに遠く離れていても切れない糸は恐らくないはずだが、それは一種のことわざや慣用句と一緒くたにして脳みそに放り込んでしまおうと決めたのはもう随分前のことだ。こういった迷信の背景には必ず文化があるもので、史学は自分の苦手分野だと諦めて「もう何も言うまい」と僕はケチをつける毎日から足を洗った。

 しかし、それが人工的なものである必要性については、今でも考え続けている。


「……ら……おい、蒼空!」

「……ん?」

「なあ、今俺の話聞いてなかっただろ」

「ああ、聞いてた聞いてた」


 勢いよく目前の縮れ麺を啜り込みながら、ミヤを適当にあしらう。

 キャンパスから徒歩五分のラーメン店『池田』は毎日満席で、一番人気の醤油ラーメン五百円とミヤの話を天秤に掛けたら前者は120%地面にめり込んでしまう。年中冷房気味の店内で、にぎやかな掛け声をかけるスタッフたちが昼休みの社会人の群れに毅然と立ち向かっていた。

 疑わしく眉根を顰める友人Aを無視して箸を動かす。


「だからさ、俺も欲しいんだって」

「……まだその話続くのかよ」

「いや今さっき始めたばっかだろ」


 こいつの中では三十分前も五秒前になるらしい。


「つーかお前はいらねーのかよ」


 僕は……、と少し言葉に困ってしまった。健全な男子大学生として勿論彼女は欲しいところだが、正直、機械に頼ってまで恋がしたいとは思えない。


「……いらねーな」


 麺伸びるぞ。親切に忠告してやっているのに、ミヤは聞いていない。


「え、マジで言ってる? 就職の時使えるかもしれないのに?」


 手が止まる。じっくり麺を噛み砕いて飲み込んでから、僕は尋ねた。


「……何の話だ?」

「運転免許の話だろ」


 至極真面目に答える友人Aに、返す言葉もなかった。




 午後からバイトだとミヤに告げると、彼はサークルに顔を出すと言って大学に戻っていった。そのまま反対向きに歩き始め、裏道を抜けて公園を横切る。こっちから行くと、店までの道のりが五分ほど縮まるのだ。

 腕時計が示す時間にはまだ余裕がある。ふとベンチの方に目をやると、先日見かけたヤマダ親子の背中が見えた気がして、僕はなんとなく足を止めた。


 小さい頃、小説家になりたかった。

 家にある山のような本は僕の世界を広げてくれたし、研究ばかりしていた父は難しい本を読んでいる幼い息子を見ると、キーボードを打ちこむ手を止めて褒めた。僕はそれが嬉しくて、たまにしか家にいない父親のために、大学ノートに自作の小説を書くようになった。中学の時に応募した作品は三年連続で賞を取ったし、認められたい一心で、僕は物語をつづり続けた。何より指先から流れ出る世界は、色鮮やかで楽しかった。

 その夢を諦めた今も本好きは健在で、大学に入ってからは書店員のアルバイトをするに至っている。


「いらっしゃ……って、城嶋きじま君じゃない」


 棚の整理をしていた長いポニーテールが僕を見つけた。作業を中断して、わざわざこちらにやってくる。僕は軽く頭を下げた。


「お疲れ様です、今井さん」

「うん、疲れたぁ。今日、シフト入ってたっけ」

「はい、二時からです」


 そっかそっか、とにこにこ笑いながら、今井は切りそろえられた黒い前髪を撫でた。

 彼女はこの店のバイトリーダーで、ここのオーナーの娘である。年は一つ上。

 ここ、紅葉書店は今井の祖母が創業した店らしく、名門国立大学に通いながらバイトとして家業を手伝っている。


「今井さんは、今日は講義ないんですか」

「あー、今日ね。さぼっちゃった。おばあちゃんには内緒だよ?」


 声の調子を全く変えずに、今井はからりと笑ってのけた。

 名門大学が聞いて呆れる。


「さすがにさぼるのは……」

「いいのいいの、今日は特別。なんてったって、神楽木かぐらぎかえで先生の新刊の発売日なんだから!」


 今井は上機嫌で頬を紅潮させると、いつも以上に目を細めた。

 神楽木楓とは、最近人気急上昇中の若手作家だ。繊細な作風と斬新なストーリー展開は読む者を魅了してやまないが、性別や年齢、顔などは一切公開していない。正体不明の本人は一体どんな人物なのか、文芸系の掲示板では彼女についての論争が連日絶えない。


「神楽木楓、お好きなんですか」

「あれ、言ってなかったっけ? あの辺のポップ、あそこだけ妙に気合入ってるでしょ?」


 あの辺、のところで今井はレジ横の幅の狭い本棚を指差した。

 なるほど確かに、ジャンルの偏りはないにしても、ポップの偏りが激しい。今風のおしゃれな絵で強調されたあの空間は今井の趣味だったのか、と僕は勝手に納得した。


「あれ、あたしがお気に入りの作家さん集めたコーナーなんだよね。あそこに全部おいてあるよ、神楽木先生の本。よかったら読んでみてよ。最新作は『メビウスの輪』っていうんだけどさ」


 彼女はそこまで言いかけて、やっぱネタバレしちゃうと面白くないから自分で読んでね、と笑った。

 どうやら、既に目を通してしまったらしい。店番をしながら読んでしまったのだろうか。ほんのり漂うコーヒーの香りが鼻をくすぐる。

 いいご趣味でと僕も微笑むと、残っていたたった一人の客がレジで彼女を呼ぶ声がして、会話はそこで中断された。

 それにしても、今井がお勧めの本を紹介してくるなんて珍しい。

 彼女のモットーは本人曰く、『うちはうち、よそはよそ』というもので、本人の言いたいこととそのフレーズは少しずれているような気もするが、要は他人の趣味を貶すことも自分の趣味を押しつけることもしないような人なのである。今までも、書店員として世間話こそするものの、自分やたまに来るお客さんと趣味を共有しようとすることはなかった。

 一体、どういう風の吹き回しだろう。新手の売り文句だろうか。

 レジの方から、若い女性たちの楽しそうな話し声がする。新書がどんな話なのかと想像を膨らませながら、僕は関係者以外立ち入り禁止の張り紙の付いた扉のノブを捻った。

 

 紅葉書店のバックヤードは、かなり狭い。せいぜい三畳といったところだろうか。

 数人分の背の低いロッカーは二段に重ねられており、真ん中に名前入りのカップがいくつか並んだ小さな机と、古びた丸椅子が二つ置いてある。それだけならまだ救いようのある狭さだ。

 しかし問題はそれだけではない。机やロッカーでもかなり幅をとられるのに、ロッカーの反対側の壁には書店らしく、大きな本棚が据え付けられているのである。おかげで一人でも椅子に座ろうものなら、道が塞がれてしまうのだ。

もっとも、ここの従業員は自分を含めてたった3人しかいないのだが。


「神楽木楓、か」


 開けたロッカーに向かってぼそっとつぶやくと、店の方から今井たちの朗らかな笑い声が聴こえた。

 小さく笑い、制服代わりの紅色のエプロンをロッカーから引っ張り出して勢いよく頭から被る。

 よし、とロッカーの扉の裏の鏡に向かって意気込むと、ちょうど店内の鳩時計が午後二時になったことを知らせた。

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