第1話

 物語は現実となった――――科学を用いることによって。

 今日において、国内での脳科学研究が世界の中でもトップレベルであることは、周知の事実である。全日本未来科学創造研究所=通称JFCの長年にわたる研究により、恋愛とは脳の錯覚であることが証明され、それと同時に人が恋に落ちるためにはある一定の周波数の脳波がその人の脳内で発生することが必要不可欠であることが分かった。

 JFCはその研究結果をもとに、人工的に人を恋に落ちさせる機器を開発した。

 機器はヘッドフォンのような形をしており、使用方法も単純である。

 使用者は耳にクッションの付いたカフ部分を当て、付属のスイッチを押す。すると使用者の視線に合わせて信号が直線的に発射される仕組みになっていて、それが脳のある部位に当たると、受けたものは恋に落ちる。

 正確には、恋に落ちたと『思い込む』。送られる信号は送信者の脳波を参考に発信されるものであり、成功すると、その信号の送り主のみを対象に『ときめき』を認知する仕組みになっている。つまり、想い人を意図的に振り向かせることができるのだ。物語のキューピッドそのものである。


 開発された機器の商品名は、物語にちなんで『Qキュー-pidピッド』と付けられた。




 信号が変わり、歩行者は一斉に動き出した。ツカツカという足音がスーツ姿のサラリーマンやOLの下を這う。猫背の彼はおそらく大学生で、黒っぽい服の彼女もそうだろう。

 一様に同じ顔をして、きっと彼らも、他人が見えているようで見えていない。


 横断歩道を渡り終えても、人々の流れは止まらない。無表情で、前ばかりに目を向けている。時たま見かける例外も手の中の携帯端末か、それとも自分のつま先かしか見ていなかった。


 そんな街に息が詰まるような感覚を覚えるのは、もう何度目のことだろう。上京して既に一年が経ったはずなのに、都会の空は小さく見えるし、日常は次第に色を失ってきている。

 寝ぐせを撫でつけながら、僕は今日も朝の群れに紛れた。


 いつからか、世の中から『線』が消えた。

 イヤホンやヘッドフォン、音響機器に家電製品。電気自動車の充電にもコードは使われなくなり、街からは電線が消えた。どうやら巷では、コンセントレスと呼ばれる家も建ち始めたらしい。

 時代は線を手放し、たくさんの人間はそれを便利だ、綺麗だと喜んだ。町中で電波が飛び交い、家電や情報通信機器のための基地局は急激に増えた。『いつでも、どこでも、誰とでも』は当たり前になり、何かを『つなぐ』作業はめっきりなくなってしまった。

 世界は人々を次々に現実から切り離し、目に見えない網にからめ捕っていく。

 僕は、そんな世界が嫌いだった。




「ミヤ、起きろ」


 講義が終わり、いつも通り睡魔に襲われ机に突っ伏していた友人を叩き起す。簡単に起こせたら苦労はしない。ミヤはそのまま永眠してしまうのではないかと疑うほど、寝起きが恐ろしく悪い。


「起きろって。講義終わったぞ」

「……あと三分」

「三分で起きたことないだろ」


 分厚いファイルの角を脳天にお見舞いすると、ミヤは悶絶しながら頭頂部を押さえた。


「っっ――――俺を殺す気か!?」

「殺されたくないなら早く起きてくれ」


 冷やかに言い放つ。ミヤは渋々荷物を片付け、僕らは二人で教室を出た。昼食は外で済ませようと歩いて建物を出る。爽やかな初夏の風に前髪を煽られ、僕は首を振ってそれに逆らった。

 あ、とミヤが思い出したようにこちらを向いた。


「さっきの講義の後半のノート、あとで写させてください」

「……また聞いてなかったんだな」

「むしろ誰があんな催眠攻撃に耐えられるんだよ。現に、起きてるやついなかっただろ」

「僕が起きてた」


 はいはいそうですか、とミヤは呆れて上を見上げた。


「ああ、そういえばさ」


 平たい顔を上に向けたまま、友人は横目で僕を見る。

 赤信号に進行を阻まれて、僕らは薄汚れた点字ブロックの上で一時停止した。


「昨日学食で俺に声かけてきたやつ、覚えてる?」

「……神谷だっけ」

「高沢だよ。全然違うし。お前ほんとに人の名前覚えるの下手な」


 まあそういうとこ、お前らしいけどな。ミヤは信号をうかがい、調子よく喋り続ける。


「で、その高沢と今朝電車同じでさ。ちょっと喋ったんだけど」

「なんだよ、コミュ力の自慢かよ」

「ちげーよ最後まで聞け。あいつすっげー喜んでたんだよ、『俺、Q-pidの被験者に当選したんだ』って」


 信号は青に変わったのに、大きく脈打った僕の心臓は両脚に酸素を送ることをよしとしなかった。ミヤは僕に気づかずに歩き始める。


蒼空そらの親父って確か、あれ作ってる会社の人だよな。ほんとに機械で恋に落ちたりするもんなのか? ……って、お前に聞いてもわかんな————」


 横断歩道の向こう側で、彼はやっと隣に誰もいないのに気づいた。きょろきょろと探している後ろから、小走りで追いつく。


「……お前さ、結構天然だよな」


 僕は半ば強引に話題を変えた。




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