イト

雨森葉結

プロローグ

 むかしむかしのお話です。

 世界には、たくさんの人間たちが暮らしておりました。彼らは神様を崇め、とてもありがたく思っておりました。神様はそれを見て、それはそれは喜び、もっと人間たちの願いを叶えてやりたいと思うようになりました。


 ある日のことです。神様がいつものように人間界を覘いていると、一人の若者が、何かを願っているのを見つけました。彼はどうやら、恋をしているようでした。

 どうかあのひとが自分を愛してほしい、と彼があんまりにも強く思っているものですから、神様も若者の願いを叶えることにしました。


 どうやって助けようかと考えながら、ふと足元に目をやると、そこには一本の、たんぽぽのわたぼうしがありました。神様はそれを優しく摘み取ると、一息でわたげをふうと飛ばしてしまいました。

 するとどうでしょう。ひとつひとつのわたげが、小さな子供達になったのです。神様は隣に生えていたたんぽぽの花びらでかわいらしい弓矢を作ると、子供達に一つずつ渡しました。そして彼らに言いました。


「よくききなさい。お前達はこれから、人間の世界へ行って、彼らの恋を手伝う仕事をしておいで。その矢の刺さった者は、お前達と契約を交わした人間のことを愛するようになる。だからね、恋をする人間のもとへ行って、たくさんの人間を幸せにしてやるんだよ」と。

 神様は彼らをキューピッドと名付け、恋をするたくさんの若者の願いを叶えてあげました。




 隣で若い女性が、幼い娘に絵本を読み聞かせている。おさげを握りしめた少女は少しつまらなそうにしながら、母親に尋ねた。


「……けいやくって、なあに?」

「契約っていうのはね、約束のことだよ」


 まだ難しかったかな、と彼女が静かに笑うと、少女は口をとがらせた。


「難しくないよ。りーちゃんはもうすぐお姉ちゃんになるんだもん」


 丁度少女が母親の膨らんだ腹のあたりをうかがった時、カウンターからヤマダメイさんを呼ぶアナウンスが流れた。母親はぱっと顔を上げて立ち上がり、少女を連れてゆっくりと歩いていく。


 後ろ姿を見送りながら、僕は図書館の妙に落ち着いた空気を吸い込んだ。

 三寒四温を謳う今朝のニュース番組がなぜか脳裏をよぎる。もう春か、という独り言は口の中で溶けた。


 ヤマダさん親子が借りた本を手に壁の向こうに消える頃、僕は一ページも進まなかった文庫本を閉じながら、ふと思いだした。


 たんぽぽの花言葉が、『愛の神託』であることを。




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