第6話 キミとの距離はゼロになる
学校帰りにそのまま来たのか、水瀬は制服のままだった。二年生になるのに真新しい制服は、俺たちとの距離感の表れに見えた。
「熱測ってごらん」
「あっ……ちょっと」
外す必要なんてないのに、水瀬はパジャマのボタンに手をかけようとする。上ひとつを外し体温計を差し込んできて、冷たい先が胸元をかすめた。
「へんたいめ」
「あは、うん。知ってる」
堂々と笑顔でいられると、これ以上何も言うことはない。
熱は三十七度前半まで下がっていた。今朝よりもだいぶ体調は良い。
「昨日、その本読んでたんだ。読み終わったら日が出てた」
「一気に読んだの? 厚い本なのに」
「読書は好きだし」
「なら感想でも聞こうかな」
「誰かが犠牲になるハッピーエンドは、俺は好きになれない。綺麗に終わっているつもりでも、それを気づかない人が多いって残酷」
「リンは誰かの人生を踏み台にして幸せになることに、嫌悪感を感じる人なんだね」
「水瀬だって嫌だろ? 好きって人いるのか?」
まだ葵と呼ぶのは戸惑いがある。
「俺は踏み台にされた側だから」
「どういうこと?」
「生まれたときから親はいなくて、施設で育った」
そういえば、水瀬の親についても聞いたことはなかった。まだ高校生で一人暮らしなんて、謎が多い。入りたい高校があってひとりで寮に入るのは理解できるが、うちの高校はスポーツが有名なわけでも進学校として五本の指に入るわけでもない。
「施設ってどんな感じなんだ?」
「俺は施設しか知らないから、リンが住む世界とは比べられない。施設を出た後は、行ったり来たりかな」
「今は一人暮らしだけど、どこかに引き取られたのか?」
「まあそうだね。たらい回しだけど」
部屋のドアが叩く音がした。母だ。お盆にカットフルーツのヨーグルトがけを乗せて、いつもより二割り増しの笑顔で入ってきた。
「葵君が持ってきてくれたフルーツよ。ふたりで食べてね」
「あ、葵?」
なんでそう、気軽に呼べるのだ。こう、みぞおちの辺りがおかしな動きをする。
廊下から妹がこちらを気にしている。兄ではなく、視線の先は俺の友達だ。解せない。水瀬は妹に可愛い、などと言っている。父がいなくて本当に良かった。
「もういいから! 二人とも出ていってよ」
「お母さん、ありがとうございます。ふたりで頂きます」
水瀬は入ってこようとする妹の頭を撫でた。母にたしなめられ、ようやく妹も部屋から出ていってくれた。
「妹に手は出さないように」
「侵害だな。手を出すのはリンだけだから」
言い返すよりも、今はフルーツだ。俺の好物でもある。リンゴとオレンジ、キウイと彩りの良いフルーツに、とろとろのカスピ海ヨーグルトがかかっている。粘りが強くて酸味が少なく、フルーツにもよく合っている。いつもは蜂蜜やメープルシロップをかけるが、これはヨーグルトがシロップ代わりだ。
「これも美味しいね」
「母直伝のヨーグルトだし」
「すごい料理上手だよね。お弁当もいつも豪華だし。リンも教えてもらってるでしょ? 慣れていないと人の冷蔵庫の中にあるものですぐに作れないよ。プリンも美味しかった……本当に」
水瀬の持つスプーンが止まる。
「あんな風に初対面で歓迎されたのは、佐藤家が初めてだよ」
水瀬は悲しそうに笑っている。
人間は過去を振り返ったとき、どうして楽しそうな顔をしないのだろう。俺も同じだ。悲しいし、過去は過去と割り切れない。いつも頭の片隅について回る。楽しい想い出を消そうと頑張っている。そんな努力なんて必要ないのに。
「うたのお母さん喜ぶし、いつでも来たらいいよ。水瀬のこと連れてこいって言われてたし」
「やっぱり俺のこと話してくれていたんだね。どうしよう、嬉しい」
「水瀬……」
小刻みに揺れた肩から嗚咽の声が漏れ、優しい瞳から大粒の涙が流れた。水瀬は涙が似合う。不謹慎にも、そう感じてしまった。
水瀬の泣き顔を見ていると、胸の最奥から小さな叫び声がする。小さな自分が叫んでいる。無造作に置かれた手に重ねると、彼は驚き顔を上げた。
「あ……、……葵」
水瀬は瞠目した。俺の熱が移ったのか、首元が少し赤い。
水瀬は……葵は、いつも飄々としていて、浮き世離れしているというか、人との距離を取るのが絶妙に上手い。一週間足らずでも同じ世界で生きてきた人間とは違うと感じ、本来なら仲良くなれる人種ではない。
俺は葵はこういう奴だと勝手に決めつけ、内側を見ようとしなかった。実は、とても脆い人なのではないか。
「俺……もっと葵と仲良くなりたいよ。でも友達の距離感ってなかなか分からなくて。親友とか友達とか、まともにできたことないし。クラスの奴らに名前すら覚えてもらってないと思うし。それくらい俺は地味な奴なんだ。一緒にいて、葵が幻滅しないか……不安」
「幻滅って? 友達にも知られたくない何かを持っているの?」
「そういうんじゃないけど……」
俺の秘密を暴露するべきか。繋いだ手が暖かくて、受け止めてくれるのではという気にさせる。
指先を撫でられるとくすぐったくて息が漏れる。仕返しに手のひらを爪でなぞってやると、指を掴まれた。
「俺さ……嫉妬深いし自分の好きなものや好きな人は側にないと嫌な人なんだ。自分の大切な人が誰かと一緒にいるのを見ると、本当に嫌になるし。小学生の頃は仲良かった人がいたんだけど……いなくなった。いちいち嫉妬する俺の態度が、相手が離れていく原因なんだと思う。それからは反省して、できるだけ態度に出さないように気をつけてた。でもそうしていくうちに、距離感が分からなくなったんだ」
「友達と呼べる人が今までいなかったって言うけど、それが理由?」
「うん……仲良くしてくれてた人も、友達と呼べるかどうか……俺が小さかった頃の話だし、ほとんど覚えていないんだけど。幸せだった気持ちは残ってる」
唯一の淡い想い出も、夢だったのではないかとときどき考える。口に出すと卑屈に思われそうで止めた。
「それからは友達もできなかったって言うけど、俺のせいなんだな……」
口に出せば楽になれることもあった。認めてしまえば、少しは肩が軽くなる。
「リンの側からいなくなってしまった人もさ、事情があったのかもしれない。リンが原因じゃない。大事な人が側にいてほしい気持ちは、俺にも分かるよ」
「相手の自由を奪いたいほど?」
「うん」
「俺たち、駄目な大人になりそう」
葵は笑い、俺に布団を被せてきた。
握ったままの手は、次起きたときはもう無くなっているだろう。けれど暖かくて目に見えないものは握っているはず。
俺たちの関係は変わったようで変わらないまま、一か月が過ぎた。変わったものといえば、水瀬を葵と呼ぶようになったということ。今は照れもせずにすんなり呼べる。少し距離が近くなった。実はもう一つ変わったことがある。
杉野が学校に来なくなった。一日目はクラスメイトが理由を聞いたが、担任は曖昧に濁しただけだった。俺も気にはしていなかった。さすがに五日連続で休むと、これは何かあったとクラス中がジャーナリスト化し始めた。
そしてたった今、普段の生活からかけ離れた出来事が起こった。
「他のクラスの女子が呼んでるよ」
呼ばれたのは葵だろうと、俺の弁当のおかずを美味しそうに食べる彼を見やる。俺は気にせず食べ始めた。
「あの、呼ばれてるんだけど……」
肩を叩かれたのは、まさかの俺だ。からかいか何かだろうと面倒くさそうに振り返るが、相手もなぜお前なんだと複雑そうに見ている。
廊下には北野さんだ。今のところ、最後の依頼主。一か月間、何の依頼もなく過ごしている。ぶうたれていたら「平和なのは良いこと」だと葵の助言だ。
「残ってるの食べてていいよ」
最後に残しておいたササミとチーズの揚げ物は葵に託した。葵はコンビニやスーパーで買ってきた弁当をいつも食べているが、しょっちゅう交換していて、メインの唐揚げを恵んでくれたりする。唐揚げは弁当界で王の位に居座っているのだ。
「どうしたの?」
「ちょっと屋上に来られます?」
背後がざわついている。違う。クラスの男子が騒いでいるようなことにはならない。
北野さんの背後をついていき、屋上のドアを開けた。隙間から強風が俺たちを強く押し、入ってくるなと言われているようだった。
北野さんは手すりに寄りかかり、髪をかき上げる。スカートがふわりと持ち上がり、柔らかそうな太股が露わになった。風の悪戯のせいだ。
「杉野君って、どうして来てないの?」
「俺にも分からない。というよりクラスメイト全員知らないと思うよ。担任は何も言わないし」
「うちの親が、杉野君の家に警察官が入っていくところ見たって言ってて……」
全身から血の気が引いていく。思い当たることは山のようにあって、いかなる理由であっても彼女に伝えてはならない。
「このことは他の誰かに話した?」
「ううん、まだ。言ってなかったけど、うちの母と杉野君のお母さんは仲が良いの。私と彼は話したことはないけど……好きだったのに、前とは違う感情があって……うまく言えない」
「好きって一言で言っても、恋愛感情なの憧れなのか分からないときがあるよね」
恋愛経験ゼロに等しい俺の声なんて届くどころか素通りしていきそうだ。こうして杉野を気にかけているあたり、揺れ動きつつも恋愛とは程遠い感情なのではないかと思う。もともと惚れっぽい性格もあるのかもしれない。経験者皆無でも、昔出会ったお兄さんには似た想いを経験してきた。親ですら知らない、秘密の友愛。きっとお兄さんはとっくに忘れているけれど。
「警察の件は誰にも言わない方がいいと思うよ」
「そうだよね……」
言うべきでないと念を押し、俺は教室に戻った。水瀬はお弁当を片づけていて、机にはプリンが二個置いてある。羨ましそうに見つめるクラスメイトの中、少しだけ鼻が高かった。うちの高校ではプリンが二種類あり、八十円で買えるものと百五十円とする高級プリンだ。後者は食べたことがない。
「遠足前の前日を思い出すね」
「分かる。お菓子をつめるときと似た感情だよ。ありがとう」
安いプリンより濃厚で、舌触りがなめらか。卵の風味が強い。百五十円の価値は充分にある。
「葵ってバイトしてるの?」
「分かっちゃった?」
「俺に奢るだけのお金はどこから出てくるんだよ。どこかで働いているとしか思えない」
「実は闇営業を幾分か……」
「え、うそ?」
これだ、この笑みだ。葵は感情を隠すのが絶妙に上手い。嘘も本当にしてしまう優しさの暴挙でうまく丸め込んでしまうのだ。こういうところも好きで、なぜか懐かしい。
「リンは闇まみれのお仕事はしちゃいけないよ? 得られるものはないし、神経も心もすり減っていく」
「したことあるみたいないい方じゃんか」
「……………………」
「どっちなんだよ、もうっ」
「あは、俺に補助してくれる人がいるからね。これは本当」
本当というのだから、真実なのだろう。寂しそうに、葵は目を伏せ笑った。
「今日、クラブに来られる?」
「もちろん行くよ。改まってどうしたの?」
「あー、ちょっと話があって」
「楽しみにしてる」
「楽しい話題なんかじゃないって」
「もしかしてさっきの呼び出し?」
「…………うん」
切り出しも難しい話だ。葵は知るはずのない現実でも、彼は先のことまで分かるようで、少し不気味に感じた。
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