第5話 偽名と本名
「散らかってるけど、どうぞ」
「散らかってる? どこがだよ」
それどころか何もない部屋だ。必要最低限の家具はある。フローリングに布団をそのまま敷き、枕元には携帯端末が転がっている。
「返事できなくてごめん。薬飲んだから良くなったけど、朦朧としていて返せなかったんだ」
「そんなに? なんで連絡くれなかったんだ? 一人暮らしでさ。ちょっとは頼ってよ」
「…………うん」
「寝てて。何か作る」
「寝るの飽きた」
水瀬は座布団に座り、楽しそうに俺を眺める。
冷蔵庫を開けると、冷凍食品や小分けにされたご飯が入っている。一人暮らしの冷蔵庫だ。
「水瀬……これなに?」
あきらかに風邪の薬ではないものが目を引く。瓶に入った赤黒いカプセル。俺は似た色を過去に見たことがある。動物園で観た毒ガエルにそっくりだ。
「風邪薬だよ」
「いや絶対違うでしょ……何の薬なんだ?」
「ふふ。リンの作るご飯楽しみだなあ」
「答える気ないな、もう」
薬の他には卵、冷凍の野菜もいくらかある。棚には乾麺。うどんに決定した。
「リンゴもあるから切って。ウサギにして」
「はいはい」
茹でている間にリンゴを切りテーブルに置くと、水瀬は口を開けた。無視してやった。茹で終わったうどんを水で締め、出汁を温めてうどんも野菜も一緒に煮る。卵を落として、適当うどんの完成だ。
「すごい……すごいよリン」
「それは食べてから言ってよ」
「こんな豪華なご馳走久しぶりだ……」
「いっつも何食べてんの? 昼食のときはいないしさ」
「朝は冷凍ご飯。昼は購買のパンを屋上で齧る。夜は野菜とか肉を適当に煮込む。食事に無頓着なんだよ」
「ちゃんと食べなきゃダメだ。でもひとりだと大変だよな」
「気楽でいいところもあるけどね。やっぱりこれ美味しいよ。食べる前から分かってたけど」
「卵のおかげかな」
「愛情たっぷり入ってるね」
水瀬は時折、会話が成り立たない人だと感じるときがある。これで成り立っているのだから、慣れって怖い。
水瀬はうどんを全て平らげた。残ったリンゴは俺が食べた。
片づけた後、水瀬は俺に膝枕してほしいと訴えてきた。冗談めかした言い方ではなく、一生のお願いだと願いを込めて。
だから俺は、膝枕は止めて代わりに腕枕をした。布団の中にふたりで入ると密着度が増して、恥ずかしくなってくる。
「膝枕より腕枕の方がいいって珍しいよね」
「下半身の方が汚れてるイメージだよ。何やってんの?」
「リンの匂い嗅いでる。ああ……好き」
「変態も通り越すと清々しいんだな」
「リンだけだよ」
「他の人にやったら手錠かけられるぞ」
「リンならいいんだね? 最高」
寝ろと言っても、寝過ぎて眠くないという。ならば、あの疑問をぶつけてみよう。
「水瀬がくれた本だけど、主人公の名前と同姓同名ってどういうこと?」
「偶然ってすごいね」
あくまでごまかす気だ。
「偽名なの?」
「偽名といえば偽名かな」
「どっちなんだよ」
「じゃあ、葵って呼んで。そしたら教えてあげる」
「……………………」
「あの本は全部読んだ?」
「まだ。昨日もらったばっかりだし」
「ぜひ、読み進めてみてよ。きっと気に入る」
水瀬は身体が小刻みに震えた。寒いのかと思い抱きしめてやれば、彼は抱きしめ返してくる。背中をぽんぽんすると、徐々に震えは治まっていく。
今の今まで忘れていたわけではないが、あの幽霊屋敷はどうなったのだろうか。それとなくテレビのニュースをチェックしたり、SNSで検索してみても、話題が尽きている。
「リン、約束してほしいことがある。今日の帰りだけど、この前忍び込んだ屋敷には行かないでほしい」
俺の頭の中を覗いたわけではないのに。驚いて目を見開いた。
「約束するけど……なんで?」
「付近を警察が見回りに来てる。リンも通れば事情を聞かれる」
「どこでそんな情報を……」
「こう見えて、危険の察知能力が高いからね。遠回りして帰って。俺を信じてほしい」
「……分かったよ。信じる」
「それと、杉野君のことだけど、警察には連絡を入れたから。あとは任せよう」
「え、ほんとに?」
「匿名通報ってできるからね。学校、クラス、名前等伝えておいた。リンは充分よくやった。ここから先は警察の仕事だ」
この話は終わりだと丸め込まれた気がするが、俺にこれ以上できることはないのは事実。
「リンは……いつも暖かいね」
抱きしめる腕の力が抜け、水瀬は意識を手放す瞬間、お礼の言葉を述べた。俺は布団から這い出し、後で食べられるようにお手軽プリンと冷凍ご飯を入れた野菜スープを作って家を出た。
水瀬と約束した通りに、できるだけ幽霊屋敷から遠回りをして帰宅した。
「遅かったわね」
「友達の家に渡すものがあって。今日の夕飯はなに?」
「炊き込みご飯よ」
あいつの家にも持っていってやりたい、と水瀬の顔が浮かんだ。なぜここで水瀬が出てくるんだ。あいつは俺にべたべたするからだ。腕枕は……仕方なしにしただけだ。あいつが一生のお願いなんて甘えるから。
今日は妹は塾、父は仕事で二人だけの夕飯だ。炊き込みご飯やレモンの利いた鶏肉、豚汁もある。どれもこれも美味しい。
父は食事中のテレビ視聴をあまり好まない。普段からあまりつけることはないが、こうしていない間の娯楽はたまには味わいたい。リモコンを手に取った。
バラエティーが観たかったが、母にニュースがいいと変えられてしまった。
「まあ、あそこって幽霊屋敷じゃない?」
舞う砂埃が街灯の明かりによって白いもやがかかったみたいだ。つい先日忍び込んだ幽霊屋敷が半崩壊している。形だけはなんとか分かるものの、一歩でも踏み入れたら跡形もなく崩れてきそうだ。
「屋根が落ちてきたのかしら? 重みで全部壊れてしまいそうね。誰も住んでいないはずだから、怪我人はいないと思うけど……」
崩壊した建物は、道にまで瓦礫が崩れかかっている。お椀を持つ手が震え、豚汁の水面が微かに揺れている。
もし、俺が道路を歩いていたら。もし、水瀬から忠告を受けていなかったら。全身にひやりとしたものが覆い、目の前が真っ暗になった。
箸すらも持てなくなって、箸置きに並べる。こういうときにずれもなく綺麗に置いてしまうのは、残してしまうやましさからだろうか。
「ごめん、お腹あまり減ってなくて」
「何か食べてきたの?」
「うん……ちょっとね。明日、残ったものお弁当に入れられる? 食べたいな」
「炊き込みご飯なら余るから、おにぎりにしましょうか」
「うん、お願い」
どうやって自分の部屋に戻ってきたのか覚えていない。足の小指を本棚の角にぶつけて、やっと意識を取り戻した。
「どういうことだよ……」
水瀬葵。やたら俺に構う転入生。もらった本の主人公の名前もまったく同じ。俺への忠告は、命を救う神の声となっていた。
ますます水瀬が分からなくなっている。
見計らったように、水瀬からメールが届いていた。
──プリンもスープも美味しい。完食完食。
──ちょっと聞きたいんだけど。
──どうかした?
──未来を読む力、あったりする?
──今だけはね。
──また適当なことを。
──葵って呼んで。メールでいいからさ。そしたら、少しだけ教えてあげる。
彼とのメールを一覧で見ると、恋人同士のやりとりに近い。
──なんか、恋人同士みたいだね。
──やっぱり未来を予知できる?
──同じこと思ってたんだ? 葵って呼ばれたい。早く。
名前で呼ぶことがなんだ。俺は男だ。
──あおい。
──ひらがな? まあいいけど。特別に俺の秘密を教えてあげる。水瀬葵は、偽名です。でも葵は本名。
──じゃあ葵って呼ばないといけないじゃん! なんで偽名で転入できたのさ?
──それはね、裏でいろんな力が働いているからだよ。俺は秘密が多い。キミは苛立ちを募らせてしまうかもしれないけれど、話せないんだ。俺と友達になったことは後悔してる?
友達。そう呼んで良かったのか。なんだか背負っていたものが軽くなった気がした。
──後悔してないよ。俺も友達の家に行ったりするの初めてだったから。
──良かった。ならもっと仲良くなれたらいいね。枠組みを越えるともっといろんなことができるし。
何をしようとしているのか。いろんなことの内容を聞きたいが、無難に話を終わらせるべきだと心の中の俺がざわついている。
──おやすみ。
──うん、また明日ね。
すんなりと引き下がってくれた。明日は学校に行くつもりなのか。
葵から授かった本を開いた。前にめくったときには気づかなかったが、目次のところに子供の落書きがしてある。ここにも『あおい』。漢字が書けなかったのか、平仮名だ。
「………………?」
妙な違和感というか、懐かしさに似た感情が芽生えた。俺はこの落書きを知っていると一瞬よぎるが、それほど幼少時代の記憶がしっかりしているわけではない。気のせいだ。そう思いたい。でも何かが引っかかる。
とりあえず読み進めることにした。あらすじには、未来人がタイムトラベルをして、まだ見ぬ世界線を巡り戦争のない時代へ導く話らしい。結末は最後まで読んでみないと分からないが、こういう話なら後味すっきりで終わってほしい。
一枚、また一枚とめくるたび、古い紙の香りがし、涙が出てきそうに気持ちになる。なぜだろう。
忘れたらいけないものを忘れているような、見落としてはいけないものを見落としているような……。
「俺は……この本を…………」
──口にしてはいけない。
──まだ駄目だ。
──大事な人が消えてしまう。
本の中の『水瀬葵』は叫んだ。タイムマシーンは乗り物のイメージがあるが、液体状の薬を口にして、とある場所で腕輪型の装置をつける。それが世界線を移動できる仕組みとなっていた。
結末は世界大戦の起こる国は救われたが、主人公だけが死んでしまった。誰かにとってはハッピーエンドでも、読んでいる俺にとってはバッドエンドだ。
カーテンの隙間から日が差している。時計を見ると、あと数時間しか寝られないではない。こんな悲しい気持ちのままだったが、今日も授業がある。布団を丸々被り、瞼を閉じた。
誰かに身体を揺さぶられて目を覚ました。ゆっくり目を開けると、母が心配そうな顔で俺を見下ろしている。
「目覚まし時計がずっと鳴っているから心配したわ。いつもはちゃんと起きてくるのに」
「ごめん……なんか……頭痛い……」
「ええ、きっと熱があるわ。顔が赤いもの。測ってみて」
渡された体温計を脇に差した。母は俺のおでこに張りついた前髪をそっと上げる。優しい手だ。
体温計の音は熱いと悲鳴を上げているように聞こえた。
「三十八度近いわ。今日はお休みしてね。お粥とうどんのどちらがいい?」
「お粥……」
本当は何も食べたくなかった。けれど食べなければ母は心配する。
横にある本に触れると、余計な熱を吸収してくれる。冷たくて気持ちいい。
母の廊下を歩く音が聞こえ、俺は再び夢の中へ入った。
「ん…………」
額に冷えたものが乗せられ、冷却シートの類だろうと手を当てる。部屋は真っ暗ではないが、カーテンの隙間からは淡い光が差す程度だ。
「お母さん……」
「ママって呼んでもいいよ」
「…………え、」
かすんでいた目が覚醒し出し、はっきりと見える。
「……何の冗談だよ……なんでいるの?」
「体調不良で休みだって聞いた。お母さんに果物渡しているから、後で食べてね」
転入生が椅子に座り、俺にくれた本を読んでいた。
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