番外編 はじめてのケンカ
「でも、前の日は来れるって言ってたじゃん!」
「だから、急に用事ができたんだって。何度も言ってるだろう」
「お祭りは朝から夜まで、一日じゅうやってたんだよ? いくら用事があったって、ちょっとくらい来る時間あるでしょう⁉︎」
「だからなかったんだって!」
昼下がりのことである。
いつものように野原にやってきたウィルと、そこで待っていたハーシェルは、会って早々にケンカを始めていた。
昨日、アッシリア王国では年に一度の豊穣祭が開かれていた。
山を下った先にある小さな田舎町、エルベもその例外ではない。空中は色とりどりの布や旗で彩られ、人々はその下で机を囲んで食事したり、音楽に合わせて踊ったりするのだ。
ウィルと一緒に祭りに行く約束をしていたハーシェルは、この日をとても楽しみにしていた。しかし当日、ウィルは待ち合わせの野原に来なかったのである。
いつものとおり、時間は決めていなかった。適当な時間に、ふらりとやって来るのがウィルである。だから、ハーシェルは野原の上に座ってじっとウィルを待ち続けた。しかし、空が夕焼けに染まって、月が野原を照らす頃になっても、ウィルはやって来なかった。結局、ハーシェルは年に一度しかない祭りを見ずじまいになった。
ハーシェルは草の上で地団駄を踏んだ。
「じゃあ、昨日ウィルがやってたこと、一から順番にハーシェルに話してよ。朝起きてから、夜ごはんを食べるまで全部だよ。それで納得できたら許してあげる」
「それは――っ」
ウィルは口を開けたが、ただ大きく息を吸っただけで何も言葉は出てこなかった。
ウィルは思い直したように口を閉じると、落ち着いた声で答えた。
「そんなこと、話したところで意味があるとは思えない。だけど、昨日は本当にどうしても行けなかったんだ。信じてくれよ」
「信じられるわけないじゃん! だって、ウィルどんな用事があったのかちっとも教えてくれないんだもん!」
声を高くしてむくれるハーシェルに、ウィルは困ったような顔をした。それから少しずつ、言葉を選ぶようにして言った。
「実は……――畑が、鹿に荒らされちゃって。祭りの日は、売り物にならなくなった野菜を回収したり、植え付けをやり直したりで手が離せなかったんだよ」
最後は確信めいた声になって、ウィルは言い切った。
野原が、しんと静まり返った。
ハーシェルの答えに耳をすませているのだろうか。花の上にとまっている蝶までもが、二人のなりゆきを見守るようにじっと動きを止めている。ハーシェルはウィルから目をそらして、ぷっくりと頬をふくらませていた。
「……うそつき」
ハーシェルがつぶやいた。ウィルは「え?」と聞き返した。
唇をとがらせると、ハーシェルはぶつぶつと言った。
「このあたりの山に、鹿はもう一匹も残っていない。昔、兵士が狩をし過ぎて、全部殺してしまったからだって。ウィルが言ってたんでしょ」
「――あ」
ウィルの口からまぬけな声が出た。それは、嘘をついたと認めるのと同じことだった。
ハーシェルの怒りは爆発した。
「やっぱり、本当はウィル今日のこと忘れてたんだ……! ハーシェルはすっごく楽しみにしてたのに、ウィルはお祭りなんてどうでもよかったんでしょっ!」
ハーシェルが叫んだ。怒りのあまり、目には涙が浮かんでいた。
「そんなこと……っ!」
ウィルがカッと目を開く。
しかし、ウィルがそれ以上なにかを言い返してくることはなかった。悔しそうに口をつぐむと、ふいっとそっぽを向いた。
「もういい。ハーシェルなら分かってくれると思ってたけど、ぼくの思い違いだったみたいだ。――今日はもう帰るよ」
ウィルの眉間には、珍しくしわが寄っていた。かたくしかめられた表情は、どこか寂しげな色をまとっていた。
だがそれに気づくことのないハーシェルは、大きな声で言い返した。
「帰れば! ハーシェルだって、もう二度とウィルとなんか遊びたくない。もう来なくたっていいんだから!」
無言で野原を下りていくウィルの背中に向かって、ハーシェルが言葉を飛ばす。
ウィルが振り返ることはなく、小さくなったウィルの背中は森の向こうへと消えていった。
次の日になった。
ハーシェルは野原の上に座って、ウィルのことを待っていた。
とは言え、ハーシェルにウィルを待っているつもりはこれっぽっちもなかった。ハーシェルはただ野原に座って、好きに花を摘んだり、アリの行く先を追いかけて遊んだりしているだけなのだ。だけどもし、そこにたまたまウィルがやってきて、昨日のことをあやまってくれるというのなら、少しくらい遊んであげてもいいかなと思っていた。
そのまた次の日になった。
ハーシェルは草むらに寝転んで、空を見上げていた。船みたいな形をした雲がひとつ、青空の海の中を流れていく。
雲を眺めつつも、耳ではウィルが野原を上がってくる音が聞こえはしないだろうかと、じっと耳をすませていた。それか、足音を忍ばせたウィルが、今にハーシェルを驚かそうとぱっと雲の下に顔をのぞかせるかもしれないと。
そう思っていると、空は夕焼け色へと変わっていた。
また次の日になった。
いい加減、ハーシェルは腹が立ってきた。
いったい、ウィルはなにをしているのだろう。どうして来ないのだろう。
ハーシェルは野原をくだって森のふちを歩きまわったり、頂上に登って上から野原の下と森を見渡したりした。どこにも、人の影はなかった。
ハーシェルは少し寂しくなってきた。
ウィルが来なくなってから、四日が経った。
ハーシェルは体を小さく丸めて、野原の真ん中にうずくまっていた。
野原が、やけに広く見える。前はきれいだと感じていた色とりどりの草花や木の緑も、どこか色あせているように感じる。アイリスの野は、こんなにつまらない場所だっただろうか。
こんなに長い間、ウィルがアイリスの野に来ないのは初めてのことだった。
ハーシェルが「来なくていい」なんて言ったのがいけなかったのだろうか。本当に、二度と来ないつもりなのだろうか。
寂しさと後悔から、ハーシェルは腕の中にきゅっと顔をうずめた。喧嘩をしたあの日に戻りたい思いで、いっぱいになった。
それからどれくらい経ったろうか。
遠くでさくっ、と草を踏む足音が聞こえた気がした。
ふっと顔を上げると、ちょうどウィルが野原を登ってくるところだった。
もう、何ヶ月も会っていないような気がした。しかし実際には数日しか経っていないウィルの姿は、前に会ったときと何も変わってはいなかった。ハーシェルと目が合うと、ウィルは気まずそうな顔で小さく笑った。
「やっほ、ハーシェル。遊びに来たよ」
ハーシェルは呆けたような表情で、ゆらりと立ち上がった。ふにゃり、と顔がふやけたかと思うと、丸めた紙のようにくしゃくしゃにゆがむ。
次の瞬間、空を裂くような泣き声が野原に響きわたった。
「えっ、うわっ、ハーシェル?」
野原を登りかけていたウィルはびっくり仰天し、体を縮み上がらせて立ち止まった。丘の下の木陰から、小鳥が一羽あわてたように空に飛び立っていく。
ハーシェルは草の上にぼろぼろと涙をこぼしながら、野原いっぱいに泣き叫んだ。
「もう、来ないかと思ったあぁぁ! ハーシェルがあんなこと言ったからっ……もう来ないでいいとか言ったから……ハーシェルのこと、嫌いになっちゃったのかと思ったあぁぁー!」
あふれ出る大粒の涙は、いくら両手でぬぐっても受け止めきれずこぼれ落ちる。ウィルは動揺し、おろおろと両手を宙にさまよわせた。
「ぼくがハーシェルのことを嫌いになるとか、そんなわけないじゃん。……ここ何日かは、家の用事でどうしても抜けられなかったんだ。来られなくってごめんよ」
ハーシェルは鼻をすすり上げ、しゃくり上げながら、「ほんとう?」と赤くなった目でウィルを見た。
「ハーシェルのこと、嫌いじゃない? 今日も、明日も、これからもずっと遊びに来てくれる?」
「当たり前じゃん。だからさ、そんなに泣かないでよ。きみが泣いてたら、ぼくどうしたらいいのかわかんないし……一緒に遊べないじゃん」
ハーシェルは顔をゆがめたままウィルを見つめた。
「そんなこっ、ひっく、言ったって、止まら――うわあぁぁぁ」
「ああっ、ハーシェル!」
ウィルが再びあわてた声を出す。
野原には色が戻っていた。アイリスの花の白、ひらひらと舞う黄色い蝶々、さまざまな色の草花に、まわりを囲う木々の鮮やかな緑。小屋の窓からは、母が食器を洗う音が聞こえてくる。
アイリスの野は、今日も平和だった。
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