蟲の勇者は地底に眠る

文壱文(ふーみん)

開闢篇

第一章

始まりの悪夢

「はあ、はあ……っ! 誰か……!」


 とある村で一人の少女が助けを求めていた。

 少女は泣きながら走って、災厄から逃げる。


 ──助けて! 誰か……誰か!!


 同じ村の住人に助けを求めても、住居の窓には人影すら見えない。蔦や木片で編まれた住居は燃えて灰となり、蔦はぼろぼろと崩れ落ちる。

 少女は遠くへ、遠くへと走った。


 しかし、災厄から逃げることは不可能に近い。災厄は腕を持ち上げて、その手に握られた大剣を振り下ろす。大剣は真っ黒で、影のようだ。

 災厄の双眸は前髪の奥でぎらついている。

 一歩、一歩と少女に迫っていた。その距離おおよそ一メートルほど。


「い、いやぁ!」


 咄嗟に少女は悲鳴をあげて、腕で頭を庇う。


「ヒメカぁぁぁ!!」


 誰かが少女の前に割って現れた。人影は少女に大きな背中を向け、少女を災厄から護るような姿勢だ。


「ぐっ、がっ……!」


 咄嗟に庇ったのが自分の父親だと分かるも、既に致命傷ともいえる。腹を切り裂かれ、少女のほうへ倒れ込んだ。少女は父親を抱きとめ、傷口を必死に圧迫する。


「お父さん……お父さん死なないでっ!! だ、誰か! 誰か、助けて……っ!」


 残酷な悲鳴が響く。それは彼女の平穏が壊されてしまったことを告げていた。

 その後は静寂が場を支配する。


「に、逃げろ……! ヒメカ……っ! げほっ、がはっ!」


 一度咳き込んで、口の中から血を吐き出した。独特の臭いが鼻を刺す。

 周囲は黒炎が静かに揺れていて、火の気はすぐ側まで迫っている。地獄絵図以外に何といえばよいのか。当然、少女には見当もつかなかった。


 少女の年齢はまだ幼く、心もガラスのように繊細で、そして脆い。

 少女は煌びやかな銀髪を揺らし、ひたすらに泣いていた。涙で潤んだ瞳は淡くエメラルドに輝く。

 その傍らには父親の姿があり、腹の傷からの血を流している。

 ヒメカの銀髪も一部、黄緑色に濡れ、その顔は絶望の色に染まっていた。

 父親はそっと自分の右手をヒメカの小さな頬に添え、最後の望みを託した。


「ヒメカ! 逃げ、なさい!! は、早く……!」

「っ、うぅ……え?」


 それからまもなくして、父親の瞳から生気が失われる。身体をゆすっても、ピクリとも動かない。


「あ、ああ……。お父さん……お父さん!!」

「──さて、遊びはおしまいだよ」


 声の主を探して見上げると、少女の目の前には父親の命を奪った男の姿。

 災厄と呼ばれた殻人族かくじんぞく、『幻影魔蟲げんえいまちゅう』コーカス。

 コーカスは巨大な剣を肩に担いだまま口を開く。


「さあ、君も僕のチカラになってよ……。そのほうがきっと君にとっても、僕にとっても幸せだろうから」

「うぁっ……! いやっ!」


 片手で少女の首を掴んで持ち上げる。少女は水の中でもがくように、生きようと必死にコーカスの掴む手を首から剥がそうとする。

 しかし、少女の小さな手はコーカスの大きな手を剥がすことなく、ただただ首を掴み上げられているだけだった。


(誰か……助け、てっ!!)


 コーカスは手に持っていた大剣を一振り。辺りに黒炎が溢れ、全てを焼き尽くす。

 少女の身体は、黒い炎に炙られて痛々しく炭化していた。




 ──周囲を見渡して、コーカスは呟いた。


「うん、これでこの世界にいるホンモノはいなくなったな。さて……。次は、どこにいるんだろう、ホンモノは」


 コーカスは自分の思うまま、次の場所へと歩き出す。

 そしてコーカスが離れた後、村には何も残っておらず、あちらこちらが黒い炎に覆われていて、ただただ静かに揺れていた。




 そして、夢から覚める。




「いやぁああああああああ!! はっ……! ゆ、夢……?」

「どうしたヒメカ?」


 目の前には夢の中で死んでしまったはずの父親の姿。ヒメカの異変に心配そうな表情をして、首を傾げる。


「う、ううん。何でもないわ……」


 ヒメカは首を横に振って悪夢を忘れようとした。

 しかしそれは、忘れることも出来ないくらいの凄惨な残痕である。

 この瞬間、ヒメカの中に悪夢トラウマが棲みついたのだった。



 ***



 それからいくらかの月日が流れて、朝日が地平線に光を灯す。


「うーん、やっぱりこうすると落ち着くわね」


 ヒメカはいつものように銀髪を揺らしながら、椅子に腰掛けて水鏡の前で自分の姿を眺める。彼女は銀髪碧眼の少女だ。所謂、高校生くらいの背丈だろうか。

 可愛らしく、あどけなさを残した顔立ちの中には凛々しさが隠れている。


「ヒメカ様、そろそろですよ」

「ええ、わかったわ。ちょっと待ってて頂戴」


 ヒメカは部屋の扉を開け、家を出る。向かう先は学校まなびやと呼ばれる場所。それからして世間知らずの少年、アトラスと出会うのはまもなくのことだった。

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