第5話
結局、五人で冒険ものの映画を観て寮に戻って来た時には、夕方になっていた。
「…それじゃ、また」
「先生」
リョウは片手をすっと挙げた。そして低い声でつぶやいた。
「できるだけ早く、あの園から、出た方がいいですよ」
じゃ、と彼らは素早く身を翻し、建物の中に入って行った。
*
その夜、真理子はなかなか寝付かれなかった。
彼らの言っていたことは、あまりにも信じがたく、それでいて、妙に真実味があった。
ああ駄目だ駄目だ。眠ろう。眠って、明日またしっかり考えよう。
そう思うのだが、やはり眠れない。
思い切って彼女は身体を起こすと、ハーブティーを入れよう、と起きあがった。
灯りをつけよう、と電気のスイッチに手を伸ばした時だった。
「…誰?」
こんこん、と小さな音がした。
窓の外に、誰か居る。彼女はぞっとするものが背中を走るのを感じた。泥棒?
注意しつつも、おそるおそる、窓を開けた。
風の無い、五月の夜は、少しだけ空気が湿っている。
彼女は身を乗り出し、辺りをきょろきょろと見渡した。
月の無い夜だった。
常夜灯の光は、彼女の部屋の前の樅の木のせいで、半分以下しか届かない。安全対策に全くなっていない。
彼女は再び電気のスイッチに手を伸ばした。
「点けないで!」
低い声が、した。男の―――声だ。
ひっ、と彼女は息を呑んだ。身体がこわばるのが判る。
「先生…オレだよ」
「…だ…誰?」
「オレ…クニ…」
「クニ?」
彼女はすぐに窓辺に駆け寄ろうとした。
だが、はたと足を止める。クニはまだ、三月の卒業の時には声変わりもしていなかったじゃないか。
確かに思春期の少年の発育は早い。いきなり変声期が来たのかもしれない。
だが今、真理子の耳に届いた声は、そんな変わったばかりの少年の声ではなく、大人の男の声だった。
「そんなはず、ない! クニはまだそんな声じゃなかった!」
「オレだよ先生! ホントなんだ、ホントなんだ! お願いだから、少しでいいから、…そうしたら、オレ、すぐに、行くから」
「行く…?」
「逃げる前に、先生に、会いたかったんだ…」
大人の声なのに。最後の方が、詰まっていた。泣いている様に。
彼女は劇場用の小さなペンライトを持つと、そっと窓辺へと近づいた。
男が一人、うずくまって、泣いていた。
彼女はそっとその上に光を向けるせる。
ゆっくりと、光度を強くして行く。男はそれに驚いて、顔を上げた。
「!」
真理子は思わずペンライトを落とした。
かつん、と小さな音がして、光が消えた。
男は立ち上がった。
高い背。180センチはあるだろう。肩幅も広い。筋肉も…
だが。
「…クニ…クニなの…」
真理子は呼びかけた。
あの顔。びっくりした時に見開かれる、大きな丸い目。間違えない。
最初に「えこひいき」したくなった子供。
「…うん」
「窓を、乗り越えてらっしゃい。…できる?」
うん、と彼はうなづいた。
部屋の中に入って来た彼は、思った以上に大きかった。
「一体…どうしたのこの…」
身体は。
最後に会った時の彼は、150センチくらいしかない、やせっぽちの子供だったはずだ。なのに。
彼は頭を大きく振る。
「知らない…わからない…オレが聞きたい…」
「そんな…」
「オレ、中学の寮に引っ越すんだと、ずっと思ってた。だけど、女子二人と、あいつら二人、でオレ一人で車、別れちゃって…何か眠くなって、気が付いたら、何か、変なとこに居て…」
「変なとこって」
「わかんない。変なとこ。誰も居ないんだ。部屋はあるんだけど、中には何も無くて、一人で…そこで毎日、誰かがどこそこへ行け、って、何処かから言うんだ。で、帰ってきた時にごはんがあって。また何処かへ行って。時々すごく眠くなって…」
何だそれは? 真理子は問いかける言葉がなかなか見つからなかった。彼は続けた。
「窓はあるから、朝とか昼とかってのは判るんだ。でも窓から見えるのはコンクリの壁だけだし、時計もカレンダーもTVもラジオもなくて。ただもう、その朝、どっかから聞こえてくる声のとおり、廊下を進むと、外の広い場所に出て…」
「出て? それが何処だか判るの?」
彼は首を横に振った。
「判らない。でもオレが出ると、そこが閉められてしまうんだ。オレ戻れないんだ。それで外は何かだだっぴろいとこで、…暑いんだ」
「暑い?」
「夏みたいに」
「夏みたいに?」
「オレ、だから、喉が乾くんだ。だけど、何処にも水なんて無くて。そうすると、何処かから水が現れるんだ。取りに行こうとするんだ。だけどそこまで遠くて。遠いけど、それでも喉乾いたから、取りに行こうとすると…何かが、爆発するんだ」
「ば」
くはつ?
唐突に、現実感が彼女の周りから崩れて行く。
「オレ、それで死ぬのかと思った。だけど何ともない。でもケガはするし、痛いんだ。痛いのは嫌だ。嫌だから、じゃあどうしようと思ったら、何か近くに、銃が置いてあるんだ。どうやって使っていいのか判らないけど、とにかく持って、そろそろと進みながら、いやな感じがする時に、撃ってみたんだ。そうしたら、何か当たった。オレを狙ってた」
「それ…って」
「オレ、撃ち方なんて、知らないのに」
そうだろう。まさか。これは冗談だ、と真理子は誰かに言ってもらいたかった。
「でもオレは知ってた。オレの身体が勝手に動いた。オレは水が取れるんだ。そうしたら、また扉が開いて、部屋に戻れってどっかで声がするんだ。…曜日とか…日にちの感覚が無くなって、しばらくした時、オレ、窓から外を見ようとした時、何か、楽に見れるなあ、って思ったんだ。だって、来た時には、オレ、背伸びしてたのに」
「それって」
「うん」
彼はうなづいた。
「オレの身体が、こんなんなってた。…ずっと誰とも喋ってなかったから、…逃げ出した時…人を脅してきたんだけど…オレ、自分の声にびっくりした」
「よく…逃げられたね…」
真理子は彼の顔を両手でくるんだ。
「…まだ、逃げてるんだ。ううん、また逃げなくちゃ。それに、一週間前よりオレ、何かまた、大人になってる…」
そっ、と大きな手が、真理子の手の上に重ねられた。
「急がなくちゃ、いけないんだ。でも、その前に、マリコ先生に会いたかったんだ」
「…」
「確かめたかったんだ。オレ。あんたが、知ってたのか、知らなかったのか」
「そんな…」
「うん。あんたは、知らなかった。わかったから、オレはもう、いいんだ。よかった」
真理子は、一瞬、強い腕が自分を抱きしめるのを感じた。強い強い力だった。
呼吸が止まるかと思うほど、強い力だった。
意識が遠のいて行く―――
「大好きだったんだ」
翌朝。
あれは夢だったのではないか、と彼女は思った。思いたかった。
だが窓には鍵が掛かっていなかったし、カーテンも半開きだった。
それに、パジャマの上にカーディガンを着たままでベッドに入るということはまず無い。
それに何よりも、強い強い腕の感触が、残っている。
あれは現実だった。
しかしあれが現実ならば、現実だと言うのなら。
「…変な夢だったんですよ。クニが出てきて」
「あらあ。そうねえ、あの子、真理子先生、あなたのお気に入りだったものね」
先輩格の職員に、洗濯物を畳む作業をしながら、さりげなく話を振ってみた。
「昨日、リョウ達と映画見に行ったせいだと思いますけどね…彼一人居ないし」
「そうねえ。ま、可哀想だけど、仕方ないわね」
「そうですね。あたし詳しくは知らないんですけど、吉野先生はご存じですか? どうやって、あの子達、使われてるんですか?」
できるだけさりげなく。
この言葉を使うのはなかなかに苦しかったが。
だがさすがに先輩格の彼女は、それが当然、という口調でこう言った。
「そうねえ。私も良くは知らないわ。でもうーん、訓練の後、海外に、とか言ってたから、そういうことなんじゃないかしら」
「そういうこと、ですか。はあ確かに」
「ね」
それで吉野は納得した様だった。
大量の洗濯物。取り込んだばかりのそれを、どんどん畳んで行く。積み上げて行く。当たり前の光景。
「ほら、ねえ、あの子達って、他に使い道なんて無いでしょうに」
当たり前の様に、吉野は言った。そして「ね」と同意を求める。
真理子はそれには気付かなかった様に、急に立ち上がった。
「あ、やだ、これ、上手く汚れが取れてない」
「あらそう?」
「あたしちょっと、これだけ洗い直してきますね」
さっ、と彼女はその場から立ち上がった。
どうにもならない感情が、喉元からあふれ出してきそうだった。
皆の話をまとめれば。それを全部信じていいとするなら。
彼女は洗面所のバケツの中に、汚れたはずのタオルを押し込んだ。
本当は何処も汚れていない。
だが彼女は部分洗い用の棒石鹸をそこになすりつけた。とにかくうつむいて、手を動かしていたかった。冗談じゃない。
一体あたしは―――
退職願は意外な程あっさりと受理された。
「長距離恋愛をしている恋人と結婚するので、その準備のため」
適当な口実だった。
「…残念ですねえ」
眩しい程の頭の園長は、いつもと変わらない穏やかな笑顔でそう言った。
「尾原先生だったら、彼らを強い子供に育ててくれると思ったのですが」
それはここに就職が決まった時にも言われたことだった。あなたの様な意思の強いひとなら、強い子供を育ててくれそうだ、と。
そうかもしれない。そうだったかもしれない。
けど。
「ま、ひとにはそれぞれ事情がありますからねえ」
「…すみません」
「ああ、そう言えば、あの子、捕まったそうですよ」
園長はさらりと言った。一瞬、心臓が跳ね上がった。
「は? 何のことですか?」
真理子はできるだけ冷静な声を絞り出した。
「…いや、こっちの勘違いですね。お幸せに、尾原先生」
今までありがとうございました、と真理子は頭を下げた。
*
真理子は慌てて荷物をまとめ、目的地の月極マンションに送らせた。
素早い行動だった。
まとめた荷物の中身をいちいち調べてはいない。いつか調べなくてはならないかもしれない。でもどちらでもいい。ほとんど処分するかもしれない。
それに、何処に居ても、本当の意味で逃げることなど、できない様な気がした。
だがそれでも、ここには居たくなかった。
逃げたかった。どうしても逃げたかった。
それは彼女のそれまでの生き方に完全に反していた。
だがそれでも構わなかった。
とにかく、もうここには、居たくなかったのだ。
荷物を運び出す車に、駅まで送ってもらうと、そのままやってきた列車にすぐさま乗り込んだ。乗り継ぎの関係も、どうでも良かった。
車内は客がほとんどいなかった。
この時間に各駅停車を使う客などほとんど居ないのだ。
がたんがたん、と揺れるたびに、身をすくめたくなる様な気持ちに襲われる。
ごめん、カナ、ごめん、ユキ。
今度はこの二人が、クニの様にされるのか。
それが判っていても、自分は何もしようとしない。いや、できない。
気が付くと、真理子の中には言い訳ばかりが頭をよぎって行った。
そして思った。
―――あたしは、無力だ。
喉の奥から、洗濯していた時以来、必死で止めていた嗚咽がほとばしる様にあふれてきた。
奥歯を思い切り噛みしめる。拳を握りしめる。
「ううう…」
だがこの先、無力かどうかは、まだ判っていない。
逃走列車 江戸川ばた散歩 @sanpo-edo
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