第5話

 結局、五人で冒険ものの映画を観て寮に戻って来た時には、夕方になっていた。


「…それじゃ、また」

「先生」


 リョウは片手をすっと挙げた。そして低い声でつぶやいた。


「できるだけ早く、あの園から、出た方がいいですよ」


 じゃ、と彼らは素早く身を翻し、建物の中に入って行った。



 その夜、真理子はなかなか寝付かれなかった。

 彼らの言っていたことは、あまりにも信じがたく、それでいて、妙に真実味があった。

 ああ駄目だ駄目だ。眠ろう。眠って、明日またしっかり考えよう。

 そう思うのだが、やはり眠れない。

 思い切って彼女は身体を起こすと、ハーブティーを入れよう、と起きあがった。

 灯りをつけよう、と電気のスイッチに手を伸ばした時だった。


「…誰?」


 こんこん、と小さな音がした。

 窓の外に、誰か居る。彼女はぞっとするものが背中を走るのを感じた。泥棒?

 注意しつつも、おそるおそる、窓を開けた。

 風の無い、五月の夜は、少しだけ空気が湿っている。

 彼女は身を乗り出し、辺りをきょろきょろと見渡した。

 月の無い夜だった。

 常夜灯の光は、彼女の部屋の前の樅の木のせいで、半分以下しか届かない。安全対策に全くなっていない。

 彼女は再び電気のスイッチに手を伸ばした。


「点けないで!」


 低い声が、した。男の―――声だ。

 ひっ、と彼女は息を呑んだ。身体がこわばるのが判る。


「先生…オレだよ」

「…だ…誰?」

「オレ…クニ…」

「クニ?」


 彼女はすぐに窓辺に駆け寄ろうとした。

 だが、はたと足を止める。クニはまだ、三月の卒業の時には声変わりもしていなかったじゃないか。

 確かに思春期の少年の発育は早い。いきなり変声期が来たのかもしれない。

 だが今、真理子の耳に届いた声は、そんな変わったばかりの少年の声ではなく、大人の男の声だった。


「そんなはず、ない! クニはまだそんな声じゃなかった!」

「オレだよ先生! ホントなんだ、ホントなんだ! お願いだから、少しでいいから、…そうしたら、オレ、すぐに、行くから」

「行く…?」

「逃げる前に、先生に、会いたかったんだ…」


 大人の声なのに。最後の方が、詰まっていた。泣いている様に。

 彼女は劇場用の小さなペンライトを持つと、そっと窓辺へと近づいた。

 男が一人、うずくまって、泣いていた。

 彼女はそっとその上に光を向けるせる。

 ゆっくりと、光度を強くして行く。男はそれに驚いて、顔を上げた。


「!」


 真理子は思わずペンライトを落とした。

 かつん、と小さな音がして、光が消えた。

 男は立ち上がった。

 高い背。180センチはあるだろう。肩幅も広い。筋肉も…

 だが。


「…クニ…クニなの…」


 真理子は呼びかけた。

 あの顔。びっくりした時に見開かれる、大きな丸い目。間違えない。

 最初に「えこひいき」したくなった子供。


「…うん」

「窓を、乗り越えてらっしゃい。…できる?」


 うん、と彼はうなづいた。

 部屋の中に入って来た彼は、思った以上に大きかった。


「一体…どうしたのこの…」


 身体は。

 最後に会った時の彼は、150センチくらいしかない、やせっぽちの子供だったはずだ。なのに。

 彼は頭を大きく振る。


「知らない…わからない…オレが聞きたい…」

「そんな…」

「オレ、中学の寮に引っ越すんだと、ずっと思ってた。だけど、女子二人と、あいつら二人、でオレ一人で車、別れちゃって…何か眠くなって、気が付いたら、何か、変なとこに居て…」

「変なとこって」

「わかんない。変なとこ。誰も居ないんだ。部屋はあるんだけど、中には何も無くて、一人で…そこで毎日、誰かがどこそこへ行け、って、何処かから言うんだ。で、帰ってきた時にごはんがあって。また何処かへ行って。時々すごく眠くなって…」


 何だそれは? 真理子は問いかける言葉がなかなか見つからなかった。彼は続けた。


「窓はあるから、朝とか昼とかってのは判るんだ。でも窓から見えるのはコンクリの壁だけだし、時計もカレンダーもTVもラジオもなくて。ただもう、その朝、どっかから聞こえてくる声のとおり、廊下を進むと、外の広い場所に出て…」

「出て? それが何処だか判るの?」


 彼は首を横に振った。


「判らない。でもオレが出ると、そこが閉められてしまうんだ。オレ戻れないんだ。それで外は何かだだっぴろいとこで、…暑いんだ」

「暑い?」

「夏みたいに」

「夏みたいに?」

「オレ、だから、喉が乾くんだ。だけど、何処にも水なんて無くて。そうすると、何処かから水が現れるんだ。取りに行こうとするんだ。だけどそこまで遠くて。遠いけど、それでも喉乾いたから、取りに行こうとすると…何かが、爆発するんだ」

「ば」


 くはつ? 

 唐突に、現実感が彼女の周りから崩れて行く。


「オレ、それで死ぬのかと思った。だけど何ともない。でもケガはするし、痛いんだ。痛いのは嫌だ。嫌だから、じゃあどうしようと思ったら、何か近くに、銃が置いてあるんだ。どうやって使っていいのか判らないけど、とにかく持って、そろそろと進みながら、いやな感じがする時に、撃ってみたんだ。そうしたら、何か当たった。オレを狙ってた」

「それ…って」

「オレ、撃ち方なんて、知らないのに」


 そうだろう。まさか。これは冗談だ、と真理子は誰かに言ってもらいたかった。


「でもオレは知ってた。オレの身体が勝手に動いた。オレは水が取れるんだ。そうしたら、また扉が開いて、部屋に戻れってどっかで声がするんだ。…曜日とか…日にちの感覚が無くなって、しばらくした時、オレ、窓から外を見ようとした時、何か、楽に見れるなあ、って思ったんだ。だって、来た時には、オレ、背伸びしてたのに」

「それって」

「うん」


 彼はうなづいた。


「オレの身体が、こんなんなってた。…ずっと誰とも喋ってなかったから、…逃げ出した時…人を脅してきたんだけど…オレ、自分の声にびっくりした」

「よく…逃げられたね…」


 真理子は彼の顔を両手でくるんだ。


「…まだ、逃げてるんだ。ううん、また逃げなくちゃ。それに、一週間前よりオレ、何かまた、大人になってる…」


 そっ、と大きな手が、真理子の手の上に重ねられた。


「急がなくちゃ、いけないんだ。でも、その前に、マリコ先生に会いたかったんだ」

「…」

「確かめたかったんだ。オレ。あんたが、知ってたのか、知らなかったのか」

「そんな…」

「うん。あんたは、知らなかった。わかったから、オレはもう、いいんだ。よかった」


 真理子は、一瞬、強い腕が自分を抱きしめるのを感じた。強い強い力だった。

 呼吸が止まるかと思うほど、強い力だった。

 意識が遠のいて行く―――


「大好きだったんだ」


 翌朝。

 あれは夢だったのではないか、と彼女は思った。思いたかった。

 だが窓には鍵が掛かっていなかったし、カーテンも半開きだった。

 それに、パジャマの上にカーディガンを着たままでベッドに入るということはまず無い。

 それに何よりも、強い強い腕の感触が、残っている。

 あれは現実だった。

 しかしあれが現実ならば、現実だと言うのなら。


「…変な夢だったんですよ。クニが出てきて」

「あらあ。そうねえ、あの子、真理子先生、あなたのお気に入りだったものね」


 先輩格の職員に、洗濯物を畳む作業をしながら、さりげなく話を振ってみた。


「昨日、リョウ達と映画見に行ったせいだと思いますけどね…彼一人居ないし」

「そうねえ。ま、可哀想だけど、仕方ないわね」

「そうですね。あたし詳しくは知らないんですけど、吉野先生はご存じですか? どうやって、あの子達、使われてるんですか?」


 できるだけさりげなく。

 この言葉を使うのはなかなかに苦しかったが。

 だがさすがに先輩格の彼女は、それが当然、という口調でこう言った。


「そうねえ。私も良くは知らないわ。でもうーん、訓練の後、海外に、とか言ってたから、そういうことなんじゃないかしら」

「そういうこと、ですか。はあ確かに」

「ね」


 それで吉野は納得した様だった。

 大量の洗濯物。取り込んだばかりのそれを、どんどん畳んで行く。積み上げて行く。当たり前の光景。


「ほら、ねえ、あの子達って、他に使い道なんて無いでしょうに」


 当たり前の様に、吉野は言った。そして「ね」と同意を求める。

 真理子はそれには気付かなかった様に、急に立ち上がった。


「あ、やだ、これ、上手く汚れが取れてない」

「あらそう?」

「あたしちょっと、これだけ洗い直してきますね」


 さっ、と彼女はその場から立ち上がった。

 どうにもならない感情が、喉元からあふれ出してきそうだった。

 皆の話をまとめれば。それを全部信じていいとするなら。

 彼女は洗面所のバケツの中に、汚れたはずのタオルを押し込んだ。

 本当は何処も汚れていない。

 だが彼女は部分洗い用の棒石鹸をそこになすりつけた。とにかくうつむいて、手を動かしていたかった。冗談じゃない。


 一体あたしは―――


 退職願は意外な程あっさりと受理された。

 「長距離恋愛をしている恋人と結婚するので、その準備のため」

 適当な口実だった。


「…残念ですねえ」


 眩しい程の頭の園長は、いつもと変わらない穏やかな笑顔でそう言った。


「尾原先生だったら、彼らを強い子供に育ててくれると思ったのですが」


 それはここに就職が決まった時にも言われたことだった。あなたの様な意思の強いひとなら、強い子供を育ててくれそうだ、と。

 そうかもしれない。そうだったかもしれない。

 けど。


「ま、ひとにはそれぞれ事情がありますからねえ」

「…すみません」

「ああ、そう言えば、あの子、捕まったそうですよ」


 園長はさらりと言った。一瞬、心臓が跳ね上がった。


「は? 何のことですか?」


 真理子はできるだけ冷静な声を絞り出した。


「…いや、こっちの勘違いですね。お幸せに、尾原先生」


 今までありがとうございました、と真理子は頭を下げた。



 真理子は慌てて荷物をまとめ、目的地の月極マンションに送らせた。

 素早い行動だった。

 まとめた荷物の中身をいちいち調べてはいない。いつか調べなくてはならないかもしれない。でもどちらでもいい。ほとんど処分するかもしれない。

 それに、何処に居ても、本当の意味で逃げることなど、できない様な気がした。

 だがそれでも、ここには居たくなかった。

 逃げたかった。どうしても逃げたかった。

 それは彼女のそれまでの生き方に完全に反していた。

 だがそれでも構わなかった。

 とにかく、もうここには、居たくなかったのだ。


 荷物を運び出す車に、駅まで送ってもらうと、そのままやってきた列車にすぐさま乗り込んだ。乗り継ぎの関係も、どうでも良かった。

 車内は客がほとんどいなかった。

 この時間に各駅停車を使う客などほとんど居ないのだ。

 がたんがたん、と揺れるたびに、身をすくめたくなる様な気持ちに襲われる。


 ごめん、カナ、ごめん、ユキ。


 今度はこの二人が、クニの様にされるのか。

 それが判っていても、自分は何もしようとしない。いや、できない。

 気が付くと、真理子の中には言い訳ばかりが頭をよぎって行った。

 そして思った。


 ―――あたしは、無力だ。


 喉の奥から、洗濯していた時以来、必死で止めていた嗚咽がほとばしる様にあふれてきた。

 奥歯を思い切り噛みしめる。拳を握りしめる。


「ううう…」


 だがこの先、無力かどうかは、まだ判っていない。

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逃走列車 江戸川ばた散歩 @sanpo-edo

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