第4話
そんなある日のことだった。
「先生…」
昼を少し過ぎた頃だった。振り返ると、泣きじゃくるカナと、それにぴったり寄り添うユキが居た。
「どうしたの? カナ…こんな時間に」
カナは言おうとするが、喉が引きつって言えない。代わりにユキが答えた。
「先生、これ、保健の先生から」
大きな黒い瞳をやや不機嫌そうに開き、ユキは封筒を突き出した。
手紙には、カナに初潮が来たことが書かれていた。ああなるほど、と真理子はうなづいた。
こういうことはよくあった。
自分の頃と比べても、この頃の子供達の初潮は早い。三年生で始まる子も結構居る。
とは言え、やはり個人差はある。それでも身体に丸みを帯び初めていたカナと比べてユキは未だ、少年の様な体つきだ。中学に入れば徐々に変化していくのだろう。
けどね。
少しだけ真理子は淋しい気持ちもする。
高学年を担当する、ということは年々こうやって、馴染んだばかりの子供達と別れていかないといけない、ということだ。
そう言えば。
ふと彼女は思う。
クニはちゃんとやっているだろうか。もうじきゴールデンウイークだ。顔を出すかもしれない。いや、その前に、一度こちらから中学の寮に様子を見に行くのもいいだろう…
「先生、カナちゃんだるいって」
そんな真理子の考えを切り裂く様に、ユキは言葉を放った。
「あ、ああ、そうね、じゃあ食事は持ってってあげるから、今日は好きなだけ寝てなさい」
こくん、とカナはお下げ髪を揺らせてうなづいた。ユキはそのままカナを部屋に連れて行こうとする。
「ユキ!」
少女は振り返った。
「カナを連れてきてくれたのはいいけど、あんた、授業は?」
「つまんない」
ぼそ、とユキは答えた。
「つまんない、ってあんた」
「だって」
それきりユキは黙った。
黒い大きな瞳が、瞬きもせずにじっと真理子を見据えた。
「…宿題は、ちゃんとやるから」
そう言って、ぷい、とユキは背を向けた。
これ以上今は言っても無駄だ。真理子は思った。
ユキは必要以上の口もきかないし、けた外れに強情だ。
そこが好きでもあったが、新年度が始まって以来、その傾向は強まっていた。
「判った、じゃあ静かにしてるんだよ」
*
「…え?」
「だから先生、クニはここには居ないんだってば」
トシこと松村俊和は玄関先で、面倒臭そうに言った。
すると「あ、先生じゃないですか」とリョウこと橋詰良一が寄って来た。
「どうしたんですか? お久しぶり」
「マリコ先生、クニに会いに来たんだ、…ってさ」
「…え?」
リョウの表情が変わった。彼は昨年の五人の中でも最も優秀な子だった。小学校でも成績は学年トップクラスだったという。
「なあ、…ってことかなあ」
「…かもな…」
二人は顔を見合わせた。
「何よ二人とも。あたしには言えないこと?」
「…と言うか…」
おや、と真理子は思った。
正直、それまで彼らのそんな表情を、彼女は見たことがなかったのだ。
彼ら二人と、女子二人。
真理子はこの四人が焦ったり戸惑ったりした顔を見たことが無かった。だから「先生」としては「楽」だったし、その一方でクニが指摘する様な微妙な気持ちになったりもした。
…しかし。
「ええと、先生、サワとミナには会いました?」
切り出したのは、リョウの方だった。
「え? まだだけど」
「じゃあ、今から皆で、ちょっと、外出ませんか?」
「外?」
「別におごってくれなんて言いませんから」
「相変わらず失礼だね!」
だが二人とも、そこで笑いはしなかった。
*
「先生!」
「あ、先生だ」
呼び出されたサワこと倉瀬佐和とミナこと布施美奈もまた、記憶に無い表情で彼女を見た。
「今リョウが、外出許可取ってるからさ」
「いいの? だってあたし等」
「いいだろ、先生保護者だし。少なくとも、去年まではかんっぜんに保護者だったんだしさ」
「そうね…」
サワは口に指を当てる。困った時のこの子のクセだ、と真理子は気付いた。
一体彼らはどうしたのだろう。クニを訪ねて来たことがそんなに妙なのだろうか。
「おーい、大丈夫だ」
リョウが四人の外出許可を取った、と共通舎監室の扉を開き、現れた。
「大丈夫だったか?」
「ああ、マリコ先生の名出して、一発」
リョウは親指を立てる。
「こいつ、もう生徒会から目ぇつけられてるんだぜ」
「へえ…」
「ま、当然っていや、当然だしー」
ミナは頭の後ろで手を組んだ。
「ともかく、出よう。話はそれからだ」
OK、と三人はリョウに向かってうなづいた。以前からリーダー然としていたが、それが強くなった様だった。
「じゃあどっか近くのお店に…」
「あ、先生、今いい映画が出てるんです」
不意にリョウは大声で真理子の言葉を遮った。
「映画?」
「あ、それいいね」
「うんうん」
「あーでも、確かお前、ホラーの方って言ってなかったか? オレ冒険の方がいい」
「そうか? まあオレはお前の好きな方でいいよ」
女子二人もホラーは嫌、ということで意見は瞬く間にまとまった。
そのテンポの良さに、真理子は唖然とするばかりだった。
この子達は、以前からこんなに気が合っていただろうか、と。
「じゃあバスで…」
「映画館のあるあたりなら、市内均一料金で大丈夫ですね」
「小学生じゃなくなったから、運賃、あがっちまったんだよなー」
とぶつぶつ言いながらも、皆やってきたバスへ乗り込んで行く。
*
十分程度で目的地には着いた。
確かに映画館もある。だがリョウは映画館を通り越して、こっち、と手招きをした。
「…映画に行くんじゃないの?」
「おいリョウ、先生、やっぱり、何も知らないんだなあ」
「だよねー、変だと思ってたけど。でもセンセイだと思ってたのに」
「だから、わたしもあまり、近づかないでおこうと思ったのに…」
え、と最後のサワの言葉に真理子はぎょっとする。
「な」
「マリコ先生、映画は方便です。オレ達、隣町まで来たかっただけですよ」
リョウはそのままさくさくと足を進めた。
「まあオレ達が居ておかしくないと言えば、こんなところですか」
セルフサービスのコーヒーショップの前で彼らは立ち止まった。
「適当に席、とっておいて下さい。…買いに行くけど」
「あ、あたしも行く」
立ち上がり、サワはテーブルの上のメニューを出すと、何がいい? と問いかけた。
皆で口々に好みのものを言うと、行ってくるから、と二人は足早にカウンターの方へ向かった。
「マリコ先生、あいつら、付き合ってんだ」
テーブルに肘を立てて、トシはにやりと笑った。
「付き合って?」
「前々からそーゆー感じはあったもんね。でもイイんじゃない? お似合いだしさあ。オレとミナってのはあんまりだけどさー」
「あたしもあんたなんかやだよ」
「お、気が合ったな」
「で、でもそんな素振り…」
二人の掛け合いに真理子は何とか割って入る。
「だってオレ達、マリコ先生には隠してたからさあ」
え、と真理子は声を漏らした。
「まさかさー、マリコ先生が、何っにも知らない、って思わなくってよ」
「悪かった、と思ってるの。ごめんねー」
「あいつら、って…」
「んー? だから、園の、センセイ達」
トシの言う「センセイ」という言葉は、明らかに真理子に対するものとは異なった響きがあった。
「…で、クニも、何も知らなかった」
「ん」
こくん、とミナはうなづきながら目を伏せる。
「知らなかった知らなかった、って、…あんた等一体」
「あ、帰ってきた」
「ただいまあ」
トレイの上には飲み物や焼き菓子、ポップコーンといったものがどっさりと乗せられていた。
「ちょっとリョウ、一体、あたしが、何を知らないと言うの?」
「まあ落ち着いて下さい、マリコ先生」
そう言いながら、リョウは真理子につ、とラテを勧めた。
彼女は微妙な苦みのあるそれをすすりながら、冷静になろう、と努力を始めていた。
どうやらこの「子供達」は自分の知らない、そして自分にとっては何かショッキングな―――そう、昔、野辺山加子の身体の話を聞いた時の様なことを言おうとしているらしい。
「まず…そうですね、マリコ先生の一番知りたいのは、クニの行方ですよね。でも正直、オレ達も、何処に行ったのかは知らないんです」
「知ってるのは、クニはオレ達と同じ中学には行けなかった、ってことだけ。予想はしてたけど」
言いながらトシは、椅子の背に、背中と両腕を投げ出した。
「予想…してた?」
「だってマリコ先生、クニは、頭良く無かったもん。スポーツも普通だったし、これと行った特技も無い。じゃあ、中学には、行けないよ」
ミナもまた、当たり前の様に言う。
「そんな訳ないでしょ!」
「あるんですよ」
静かに、という様に、リョウは真理子の肩を押さえた。
「オレ達、あそこで育った子供は、だんだん気付くんですよ。とにかく何かに秀でていなければいけないって。そうでなければ、あの中学校の寮には行けないって。マリコ先生、三年も居たんだし、知ってると思ってましたけど…」
「知らなかったのね…」
サワはため息をついた。
「でも、じゃあ」
「ごめん、本当に、その先は、オレ達にも知らないんだよ」
苦々しげに、トシは両手を組み合わせ、そこに視線を据える。
「オレ達の先輩に、タマミさんって居たでしょ」
「あ、…ああ、居たね」
最初の年に担当した子供の一人だった。
大柄で、腕っぷしの良い少女だった。
頭は良くないが、下の者の面倒見が良かった、という記憶がある。
ただまだその頃は、真理子自身、仕事に慣れるのに精一杯だった。子供達一人一人に情を移らせる余裕も無かった。
「オレ、その時まだ四年だったけど、あのひとのことはとっても好きで、会いたくて、中学まで訪ねてったんだ。そうしたら、やっぱり他の先輩から、言われたんだ。『居ないんだ、連れていかれたんだ』って」
「連れて?」
「…ねえマリコ先生…わたしたちって、飼われてるんです」
サワは静かに言った。
真理子はからかうんじゃない、と言おうとした。
だが実際には、その言葉は出て来なかった。
「生まれてすぐに放り出されたわたしたちは、拾われて、飼われてるんです。そして中に上質なものがあれば、それなりに生かしておくし…」
「そうでなけりゃ…」
ミナは口の端を上げ、首の所で手をすっと横に引いた。
「…冗談は…止しなさいよ」
「冗談じゃないですよ。具体的に何処に行ったのか、まではオレも知らないけれど、クニがオレ達とは違う利用目的のために連れて行かれた、ということは確かです」
「利用目的…」
「それが、何であるのかは判りませんが…ただ、まず会えないことは、…先輩達の話からして、確かだと思います。探しようも無いし、探しているってことが判ったら」
リョウは首を横に振った。
「だからこんなとこまで、わざわざ出て来た、って訳?」
「そ」
トシは短く答えた。
「オレ達は、先生と映画見に行ってるの。だからできればそっちも付き合って欲しいな。何処かでボロが出ない様にさ」
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