第3話

 学部を卒業するまでの四年間、彼女は奨学金と授業料免除の資格を手に入れ、なおかつその上で、可能な限り多くの講義や演習を取った。

 奨学金の延長を承認され、大学院の方に進むこともできた。

 その院生も残り半分、となった時に、彼女は学生課から、呼び出しを受けた。



「何でしょう?」

「ああ尾原さん、ぜひあなたに頼みたいことがあるの」


 は、と彼女は首を傾げた。

 貧乏学生の真理子にとって、学生課は馴染みの場所だった。

 割のいいバイトの申し込みだの、授業料免除の書類だの、奨学金の申し込みと確認だの、様々な用件で学生と院生の合計五年間、この場所を訪れた。

 そして自分にいい条件を勝ち取るまで、粘りに粘った。

 結果、この学生課長の女性は真理子を特に気にする様になった。就職先のことも、彼女は前年から心配してくれていた。

 通された応接のテーブルには、コーヒーと一冊のファイルが置かれた。


「実はね、今年いっぱいで、うちの系列の『向日葵園』に欠員が出るのよ」


 ソプラノの声は、実に嬉しそうだった。


「…『向日葵園』?」

「初耳かしらね。これでも一応うちの…東日本グループ系列なんだけど」


 そう言いながら、やせた、皺がちの白い手が、ファイルを開いた。


「ほら、ここ」

「施設…ですか」

「ええ。グループが、捨てられた赤ちゃんを引き取って育てているの」

「…赤ちゃん?」

「ほら、コインロッカー・ベイビーみたいな。あんな風に、捨てられた子供とか、産んだけど育てられない子供とか、とにかく身寄りのない乳児をこの園では十二歳…小学校卒業まで、育てるの」

「小学校卒業、までですか?」


 確か自分の育った所は、中学卒業までだった、と真理子は思う。


「ええ。うちの付属に通う訳だし。中学校からは寮があるでしょう? そっちへ移るのよ」


 なるほど、と真理子はうなづいた。


「確かにこの大学も、免除制度とか、奨学金とか、色々豊富だから、ってことで選んだ部分もあるんですけど…」

「正直ね」


 くす、と学生課長は笑った。


「でもそういうこともしているんですね」

「もしかしたら能力が高い子が居る可能性もあるのに、埋もれさせるのも何だし、ということじゃないかしら?」


 だとしたら大したボランティアだと思う。

 確かに優秀な人材を育てて東日本グループの何処かの社員にする、というのも考えられるが、リスクも大きいのではないだろうか。

 東日本グループは、真理子も知っている、日本でも有数の企業体だった。

 大学とその付属学校、病院などの関係施設もその傘下にある。大学自体、マンモスな総合大で、各地にキャンパスが置かれていた。


「あなたなら大丈夫じゃないか、と思って。それに、単に教師になろうと思っただけなら、あなたが必要以上の免許取ろうとしているのも何だし」

「…って」

「だって取っている授業を調べれば、何の資格が欲しいかなんて一目瞭然だわ。ねえ」


 にっ、と学生課長は笑った。


「ちなみに初任給はね…」


 こそ、と学生課長は耳打ちする。え、と思わず真理子は声を上げた。


「何ですかそれは!」

「だから専門職だし。それにできるだけうちの卒業生から、というのが向こうの意向でもあるのよ。しかも住み込み。食事つき。ちゃんとローテ組んで休みもあるわ。どう?」

「それは…美味しいですね」

「でしょう?」


 彼女は大きくうなづく。


「まああなたがプライべートをものすごーく重んじるひとで、耐えられない、って言うなら、第二候補のひとにに回すだけだけど」


 真理子は軽く苦笑した。


「でもあなたならできると思うけど?」


 そう言われて、NOと言える彼女ではなかった。



 そして四年。

 彼女はすっかり「向日葵園」の「若いけど優しくて厳しい先生」になりきっていた。

 少なくとも―――彼女はそう思っていた。



「こらカナ! あんたはまた遅くなって!」

「アタシしたよ! 電話したよ! マリコ先生が聞いてないんだろ!」

「聞いたわよ。だけどその時間を考えたの!」


 あ、とカナと呼ばれた少女は口を塞いだ。


「連絡して遅くなるのはいいの。だけどできるだけ早くそれをしないと、皆の食事が遅れるの。忘れていた?」

「…はい」

「明日朝、皆に謝るのよ」

「はーい」


 少ししょげたカナが解放されると、ユキと呼ばれている少女がとことこ、と近づいて、どうだった、と肩を抱く。

 その様子を見ながら、真理子はふう、と息をついた。



 彼女の担当は主に小学校高学年の子供達だった。

 体力のこともあるが、話題が大人に近づいた彼らの場合、「現代の話題」についていける若いひとの方がいいのだ、と言われて配置されていた。

 「五年生」の歳の子八人と、「六年生」の子五人。計十三人を、彼女とあと二人の「先生」が担当している。

 そして目下の問題は。


「…さて今日は、もう一人、か…」


 消灯時間は既に過ぎていた。

 暗い廊下の窓がそっと開く。そして人影。飛び降りる音。


「ちょっと待った」


 ぱっ、と少年の顔にライトが当てられる。


「…ちっ」


 小柄な少年が、大きな目を細めつつも、真理子の方を真っ直ぐにらみ付けていた。


「これで何度目だと思ってるの! クニ!」


 真理子は腕組みをしてクニと呼ばれた少年に、音量を落として詰問する。


「しかも」


 くい、と彼女はクニのジャージの胸ぐらを掴みあげる。な、何だよ、と彼は焦る。


「…キャビンだね」

「セイラムだよ…っと」


 ばーか、と真理子はぽそっとつぶやき、彼を廊下に下ろした。


「まあいいわ。ちょっとおいで」

 彼女はクニを手招きし、自室へと連れていった。

「お説教なんかやだぜ」

「説教と聞くかどうかは、あんた次第だけどね」


 真理子はコーヒーを入れて、テーブルにつかせた少年の前に置いた。

 彼女の私室は広かった。

 いや、職員だけでなく、この施設全体が広く、設備も充実していた。

 普段彼女は子供達と入るので使わないが、この部屋には個人用のバスまでも備えられていた。


「…苦い」

「だったら砂糖やミルクが要る、って言うの。言わなくちゃ、判らないでしょ」

「じゃあ、両方」

「両方下さい、でしょ」

「両方下さい。これでいいんだろ」

「OK」


 にっ、と笑って真理子は両方を彼に差し出した。

 ようやく飲める程度になったらしく、ふう、と彼は息をつく。


「大人ぶってもブラックが飲めないんだよね」

「マリコ先生うるさいよ。もうババアだからって」

「あ、言ったなー。まあ確かに、あんたに比べればババアだけど、それでも世間じゃあまだ小娘だよ」

「小娘、がそんな言葉つかいしていていいのかよ。嫁のもらい手が無いぜ」


 真理子は肩をすくめた。一体何処でそんな言い方覚えて来たのやら。


「あんた等の世話してたらこうなったの」

「オレ達の?」

「そ。悪ガキにお上品な言葉が通じるならそれもいいけどね」


 そう言いながら、彼女はぽっかり空いたクニの口にたまご色のバームクーヘンのひとかけらを押し込んだ。


「あーんまりあたしに縁が無い様だったら、あんた達、責任取りなさいよ」

「…くそ」


 そう言いながら、もぐもぐと彼はバームクーヘンを噛みしめた。

 あきらかなえこひいきだ、と思いつつ、彼女はこの通称クニ、本名は高岡邦明という少年が結構気に入っていた。

 何が、と言う訳ではない。ただ、異質だったから。

 この施設の子供達は、たいがい頭も良く、彼女達「先生」を悩ませる様なことはしない。

 それこそ、このクニ、先程の「カナ」こと田町香奈、その仲良しの「ユキ」こと長崎有希恵の三人くらいなものだった。

 ことにクニと同じ現在の六年生は、呆れる程優秀だった。学校でもいじめられることなど何処の話、という程、彼らは一目も二目も置かれていた。



 もっとも、大学付属小学校では、園の子供達が居るのは当然のことだし、しかもその半分以上が学業やスポーツ、もしくは芸術などに秀でた能力を示している。

 「施設の子だから」いじめられるということはまず無かったのだ。

 逆に、「あそこで育ったから」優秀なんだ、と価値観を塗り替えている様にも、授業参観に行った真理子には感じられた。

 しかしそんな中にも例外というものは居る。それがクニであり、カナやユキだった。

 この三人は、あの学校でなかったら、自分や、京子が受けたくらいのことは、日常茶飯事となっているだろう。

 それだけに、真理子はこの三人が格別気に掛かった。

 それがえこひいきだと言われたら、…仕方が無い。

 今になってみれば判るのだ。

 確かに自分は、目標を決めて、それに突進して…道を切り開くことができた。

 だが中には、目標が見えない者が居る。

 目標があって努力しても、どうしても身につけられない者も居る。

 向けられた期待にどうしても馴染めない者も居る。

 あの工場の寮で、彼女はそんな人をたくさん見てきた。


「あんたはね、クニ。もう少し要領良くやればいいのに、って時々思うんだけど」

「要領?」

「ん? そーね、さっきのセイラム、じゃないけど」

「皆だって、ホントはやってるんだぜ、知らないのかよ」

「まーね。トシもリョウもやってることくらい知ってるよ。ただあいつらの場合、嫌んなるくらい、証拠が出ない隠し方と、クセにならない程度、ってのを知ってるんだよね。つまり、あたしに口出しさせないアタマがあるって訳」

「へー」

「けどあんたには、それはできないでしょ」

「…」

「別にけなしちゃいないよ。逆」

「何でだよ」


 彼はくわっ、と口を大きく開けた。


「や、…あたしが昔、あいつ等みたいなガキだったからかなあ」


 あの頃の自分は、端から見て子供らしくない奴だっただろう。

 真理子はここの仕事を始めてから気付いた。

 それだけに、この子供子供した三人には、そのままで居てほしい、と思ってしまうのだ。

 周囲の目のために生きるのではなく、不器用は不器用なりに、自分の好きな様に。


「じゃあ何、マリコ先生も、昔はあいつらみたいな口振りでさあ、ガッコの先生達とニコニコ話してたわけ?」

「必要だったらね」

「…オレさあ、あいつらの笑いって嫌なんだ」

「嫌?」

「何か、…やだ。ええと、何か、前、ほら、ニュースん時」

「あんたよくニュースなんて見てたね」

「うるさいよ! …何かどっかの国の、子供達がアコーディオン弾いてたんだけど…何っかもう、ものすっごい笑顔なんだよね」

「楽しそうで、いいじゃないの」

「じゃなくて!」


 どん、とクニは両手を握りしめ、テーブルの上に置いた。


「何か、すごく、怖かったんだ」

「怖かった?」

「だって、顔が笑ってるんだけど…全然、笑ってる様に、オレには見えなかったんだ」


 ああ、と彼女はそのニュースがどの国のことを示しているのか、気付いた。


「まああれは…つくり笑いだからね」

「あいつらの笑いって、あれに似てる。オレ、ああいうの、やだ」

「…そうだね、あたしも嫌だよ」


 真理子は眉を軽く寄せた。


「だけど、止めろとも言えないよ」

「何で」

「あいつらはあいつらなりに必死なの。あんたとは違う方法だけどね」

「あいつらなりに…?」


 彼は大きな目を一杯に広げた。


「だって、あいつら、何だって良くできるじゃんか! どうして」

「だから、そうしないといけない、って思ってるんじゃないか…? あたしは昔そう思ってたけど」

「マリコ先生が?」


 うん、と彼女はうなづいた。


「でも、…ね、やっぱり、子供の時に、子供の時間を過ごしておきたかった、って思うよ。時々ね。―――ってあんたに言うと、またつけ上がるか」


 ははは、と彼女は笑った。

 ううん、とクニは首を横に振った。


「マリコ先生はそんなこと、ないよ」

「ふうん?」


 彼女は軽く目を細め、自分のコーヒーに口をつけた。もうずいぶん冷めていた。


「な、おい、先生が、オレ達のせいで、嫁のもらい手が無いんだったら、オレが、大きくなったら、もらうから!」


 ぶっ、と彼女はコーヒーを吹き出しかけた。


「なななにをいきなり」

「駄目かなあ」

「…ババアって言ったのは誰よ」

「ふん、オレ付属中行ったにーちゃんに聞いたんだからな。年上のオンナを夢中にさせるのが、いい男なんだってさ」

「…あんたねえ」


 ほら食いなさい、と彼女は残りのバームクーヘンの乗った皿を、彼の方に突き出した。

 きっと本気で言っているのだろう。だがいつか薄れて行く。そういうものだ。

 だがいくら子供でも、男からそう言われて悪い気持ちではない。彼氏いない歴27年の彼女としては―――



 翌春、五人の子供達は、園を出て行った。

 真理子は新しく担当になった子供達の世話に、春先から毎日忙しく働いていた。新五年生は六人。少女が多かった。


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