第2話

 その日は雨だった。

 真理子はレインコートと傘の重装備で図書館に出かけたのだが、結局は濡れ鼠で帰ってきた。

 んもう、と言いながら玄関でぱたぱたと水滴を払っていると、「娯楽室」のTVの前に加子が居るのが見えた。

 通りかかったら声がした。


「…あらマリちゃん…ずぶぬれね。だいじょうぶ?」

「こーんなに降るとは思ってなかったわよ! 風向きも変わったし強いから傘もさせなかったし! カコさん珍しいね、TV?」


 …ではなかった。ゲームだった。しかも。


「…五目並べ?」

「知ってる?」

「一応…」


 施設にはアナログな対戦型ボードゲームはそれなりにあった。

 特に囲碁・将棋といった伝統的なものは、先生や、やって来る大人達のためのものでもあった。

 五目並べはルールも分かり易く、彼女もよく遊んでいたものだった。

 だが加子ときたら。


「あらら」


 GAMEOVERの文字が出る。


「だめねえ…ぜんぜん勝てないわ…」


 ふう、と消えそうなため息をつく。


「ああそういえばわたしが起きたら、皆さん居なかったけど」


 既に時計は午後二時十五分を指していた。


「昼前に映画にでかけたわよ。ほら、ちょっと前にできた、ゲーセンやファミレスが横についた奴。奈崎さんがワゴン出してくれて」

「ふぅん…」

「加子さんは、何処か行かないの?」

「雨の日は、部屋の中にいるほうが好きよ」


 ふふ、と彼女は笑った。


「ほらこうゆう、みんな居ない雨の日って、音がよく聞こえるでしょう? 雨の音」


 雨の音? 

 真理子は耳を澄ませる。

 そういえば、結構ざあああああ、という音は大きい。


「こうゆうときって、何だか、この世に一人きり、って感じで好きなの」

「この世に?」

「そ」


 そしてまたふふ、と笑った。

 変なひとだ、と真理子は思った。


「そりゃあたしだって、時々は一人になりたいと思うけど」

「マリちゃんは勉強熱心だもんね」

「…いちおう」


 そして加子は再び五目並べをはじめた。しかし弱すぎる。どうしてそこに打つんだ! 真理子は思わず口出ししそうになった。だが。


「どうしてそんな、めんどうなことするの?」


 不意に加子は訊ねた。


「面倒?」

「勉強って…めんどうだし」

「あたしは―――大学に行きたいの、もっと―――」

「もっと?」


 のんびりとした口調で加子は問い返す。身体と目は画面と向き合ったままで。


「もっと―――」


 真理子は困った。

 どうして困るのか判らないままに、困った。上手く言葉にならなかった。

 もっと勉強したい。試験に受かって、何とか進学して、…資金は…奨学金は…授業料免除とか…とにかく手をつくして…そして…


「そうすれば、もっと、いろいろできるかもしれないし」

「って?」


 やはりのんびりとした声で、返された。


「…だって、…ここで一生働く気は無いし」

「そうね、マリちゃんにはものたりないかも」


 こん。


「でも、楽よ」


 真理子はぐっ、と詰まった。


「一度雇ったひとをそう簡単には辞めさせないし…あ、でも、わたしはわたしをもらってくれるってひとがいたら、うん、誰でもいいなあ。そのひとのとこで、のんびり奥さんしているのが一番いいなあ」


 そしてそうやって、昼間から一人でゲームでもやって負け続けても平気で、ただだらだらと時間を潰す? 

 そんなのまっぴらだ、と真理子は思った。


「あたしはそういうの…」

「別にマリちゃんはいいじゃない…」


 こん。画面に白番で「4」が作られる。…駄目じゃんもう負け、と真理子は思う。


「マリちゃんは偉いと思うもの。ほんと」

「…でも」

「でもわたしは別に偉くなろうとは思わないし」


 ああ、と小さく声が漏れた。

 再びGAMEOVERの文字が現れた。


「だめねえ、ぜんぜん勝てない」


 ふふふ、と笑いながら、加子は再びリセットする。


「同じような毎日をのんびり続けていくのが、いちばんいいわ」


 そしてまたこん、と音が雨音の中に混じる。

 真理子は黙って首を横に振り、自分の部屋に戻った。



 翌年。


「今までありがとうございました」


 と加子は静かに言って、頭を下げた。

 その顔には穏やかな笑みがいつも以上にふわりと広がっていた。

 門の外には迎えの車が待っていた。加子はもらった花束と共に、その車に乗り込んで行った。

 もう彼女が戻ってくることは無かった。

 望み通り、野辺山加子は、彼女をもらってくれる誰か、と結婚して、会社を辞め、寮を出ていったのだ。



「しかし辞めなくても良かったのにさ。ウチの会社、別に結婚したから辞めろとは言わないしさ」


 自室での「お茶会」で宮本はみりん揚を口にしながら言った。


「そんなこと言ったら、あたし等なんかとっちゃくれないだろ、ウチの会社。いいじゃないか。あの子はずーっと専業主婦になりたかったんだし」

「…専業主婦って、そんなにいいものですか?」


 真理子は口をはさんだ。英会話のラジオの途中で呼び出されたのだ。

 宮本は専用のマグカップにほうじ茶を注いでやった。


「そりゃあねえ」


 宮本より数歳年上の坂上がうなづいた。


「何たって、金は亭主が稼いできて、こんな世知辛い世の中には出ていかないで済むんだし」

「そうだよね。ここだからともかく、カコちゃんが他の企業とかで働いてたら、何か病気になっちゃいそう」

「家事は好きそうだし、いいじゃないか。あれだって立派な労働さ」


 宮本は大きくうなづいた。


「でもあんた、その労働を認められなかったんだろ?」

「ああ全く! ひとを何だと思ってたんだろうねえ。いやいっそそう言ってやりゃあ良かったかもねえ。わたしゃもうあくまでハウスキーパーだからね、とかさ」


 宮本は嫌そうに首と手を大きく振った。

 聞く所によると彼女は、浮気した亭主に子供ができてしまい、離婚したのだそうだ。

 亭主にも女にも怒りはしたが、家のローンも残っているし、この先生まれてくる子供には罪は無い、子供も独立しているし、ということで、慰謝料は殆ど取らなかったらしい。


「ま、わたしのことはいいさ。問題はカコちゃんさね。あの子に何もありませんように、だよ」


 言いながら拝む様な動作をする宮本に、坂上はババ臭い、と一言で片付けた。あんたに言われたくないよ、と宮本は即座に切り返した。


「けどまあ、私も同感さあ。堂上さんはどうかねえ」


 首を傾げる真理子に、同席していた中井が、カコちゃんの旦那さんよ、と付け足した。


「そぉだねえ。あのひとはいいんじゃないかなあ。確かに次長さんからのお見合いだったけどさあ、結構その後もお付き合いあったんだろ?」

「まぁねえ…あん時はびっくりしたよ。あのカコちゃんが朝帰り!ってさ」

「ああじゃあ、カコちゃんのアレ、ダンナは知ってたんだ」


 中井はぽん、と手を打った。


「アレ?」


 思わず真理子は問い返していた。

 ん? と彼女以外そこに居た三人は、顔を見合わせた。


「…え? カコちゃんの身体のことだけど」

「身体?」


 確かに強くはなさそうだけど、と真理子が思った時だった。


「ええと…マリちゃん、カコちゃんと風呂、一緒になったこと、…ない?」


 中井は何処か言いにくそうに問いかけた。


「え? ―――あ、無いけど。だって、あのひと早いし」

「そうだよねえ」


 三人はため息をついた。


「カコちゃんは早く食べて早く風呂入って早く寝てしまうし、あんたは遅くまで勉強して、皆の中でも最後くらいだもんねえ」


 宮本の言葉に他の二人もうんうん、とうなづいた。蛍光灯の光が、呼応するかの様にちかちかと震えた。


「あ―――とね。カコちゃんの身体って、ちょっと、…傷跡が、多いんだよ」

「傷跡?」


 どき、と真理子は自分の心臓が跳ねるのを感じた。


「うん…何かねえ。あの子も、まあ、あんたと同じで…ほら…」

「施設育ち?」

「うん―――なんだけどね。十歳くらいまで、親のとこに居たんだって。ただ、ほら、その親ってのが、ひどい奴でさ」


 宮本は口を大きく歪めた。


「そりゃあさ、わたしだって、ウチの娘や息子が…ま、別にあんたみたいに出来のいい子じゃあないからさ、イロイロやってきたし、叱る時に時には手も挙げたりしたたさ。けどね、それでも、…あれは無いだろ、って」


 真理子は大きく目を開けた。


「何かしては殴られ蹴られ、煙草押しつけられたりさ、ごはんもらえないこともしょっちゅうだったって。で、その親がカコちゃん置いて逃げてさ」

「大家さんが、一週間ほど新聞溜まってるの見付けて、おかしいと思ったんだって。で、開けたら、途端にどたどたという足音と、悲鳴が聞こえたの」

「慌てて中に入ってみると、部屋の隅でカーテンにくるまってぶるぶる震えている、カコちゃんが居たんだってよ。ずいぶんやせこけてたらしいってさ」


 代わる代わる三人は説明する。


「だけど…何で叫び声なんて」

「カコちゃんが言うにはさぁ」


 ふう、と宮本はほうじ茶にため息をぶつける。


「扉の音に、親が帰ってきたんだ、と思ったらしいよ。やっと一人になれてほっとしたのに、って」


 真理子は息を呑んだ。それは。


「まあさすがにそれなら、ねえ。わたし等その話、最初に当人から聞いた時、どうしたもんか、と思ったもんねえ」

「だけどカコちゃんがえらく淡々と言うから、…ねえ」


 三人は顔を見合わせた。

 何も、それ以上言うことができなかったのだと言う。


「だから、カコちゃんが一人でぼーっしていたら、そっとしておくことになってたの」


 中井は苦笑した。そうだったのか、と真理子は思った。


「マリちゃんは…そういうことは」

「えー…と、そこまでひどくは無かったし」


 母親は、確かに自分に何もくれなかった。だがとりあえず暴力は振るわなかった。

 それだけでも、ずいぶんましだ。

 おかげで彼女の闘争心の芽はきっちり保存されていた。


「全く、ねえ。何が一体まずいんだろうねえ…」

「ワタシは家庭持ったこと無いから知りませーん」

 三十代前半独身の中井はそう言ってみりん揚に手を出した。


 やがて真理子は、彼女の思い描いていた通り、認定試験に合格した。

 その翌年、大学にも合格した。

 会社を辞め、貯めたお金を学資とし、本格的に学生生活に入ることにした。


 ―――東日大学教育学部児童福祉学科学生。


 それが新しい彼女の肩書きだった。

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