逃走列車
江戸川ばた散歩
第1話
もう駄目だ。ここにはいられない。
尾原真理子は園長室の扉を叩いた。
この児童施設「向日葵園」に就職して三年。ここまでの道のりは決して平坦ではなかったのに。
どうぞ、と園長の声がし、彼女は扉を開いた。
「どうかしましたか、尾原先生」
穏やかな微笑を浮かべ、園長は仕事の手を止めた。
そう、何故疑ったことすらなかったのだろう。彼女は園長の他の表情を知らない。
あの時もそうだった。面接の時だ。履歴書を見ながら、園長はこう言った。
「色々あったのですね。頼もしいですよ」
それまでにも「真面目」とか「一生懸命」は言われて来た。だがそれ以上のことは無かった。
「あなたの様な意思の強いひとなら、強い子供を育ててくれそうだ」
信用と期待。それは真理子にとって初めてのものだった。それまでの苦労が報われた思いだった。
真っ直ぐ自分を見ながら、にっこりと笑ったあの顔が真理子の脳裏に未だに焼き付いている。
それ以来、彼女はこの園で「先生」と呼ばれる身分と高額の給料と、日々を暮らして行く場所が手に入ったのだ。
ブライヴェイトは減ったが、―――それでも、自分が施設で育てられていた頃に比べれば、ずっとましだった。
彼女自身、施設の出身だったのだ。
*
母親が真理子を捨てたのは、彼女が四歳の時だった。父親の顔を彼女は知らない。
母親にしたところで、「母親」という実感はなかった。
狭く、日当たりの悪いアパートの中。部屋ではいつもTVが点けっぱなしだった。彼女の耳には母親より、当時のキャスターの声の方に覚えがある。
母親は彼女を飢えさせはしなかったが、それ以上のこともしなかった。ほら食えとばかりに無造作に食事を置き、食べられないと無言で片付けた。
話しかけられたという記憶は、無かった。暴力は無かったが、構われもしなかった。
そんな日々の中、ふっと母親の姿が消えた。
目を覚ました時に母親が居ない、というのはよくあることだった。だが、それから三日経っても戻ることは無かった。仕方なし、彼女は冷蔵庫の中から、見覚えのあるものを出し、精一杯背伸びして水を呑み―――
口にした途端、広がる異臭。
全て腐っていた。
それでも飲み込んた。
痛み出した腹に、真理子は火がついた様に泣き出した。一命をとりとめたのは、通りかかった近所の奥さんが偶然聞きつけたおかげだ。
彼女がそのアパートに戻ることは無かった。病院から出る彼女の手を引いたのは、施設の職員だった。
母親しかいない世界から唐突に、上は中三、下は乳児まで居る施設へ放り出された彼女は、当初どうしていいのか判らなかった。
だがそこは子供だった。
自分を見ようとしなかった母親にとって変わり、自分を見て話しかけ、注意してくれる「先生」。
それ以外は自分と同じ「子供」。
そこが自分のこれから生きて行く「家」。
受け止めるまで時間は掛からなかった。
だがまだその時の彼女には、「外の世界」があることまでは理解できなかった。
それができたのは、小学校に入ってからだった。
「今、何言ったよ!」
真理子は一人の男の子に掴みかかった。
「京子ちゃんが、何だって?」
「あー? 臭いもんは臭い、って言ったんだよ。お前等のとこじゃ、毎日風呂に入らせてもらえないんだろ、って」
京子というのは、同じクラスに通う、施設仲間だった。
真理子より後に入ってきた彼女は、当初、栄養不足のためか、肌も髪もぼろぼろだった。腕も足も細い。そして、何処となくいつも、背後を気にしている様なところがあった。
育った環境は大して変わらないが、真理子は施設に落ち着くと共に負けん気の塊となった。
「うちじゃ、ちゃんと毎日入ってるわよ!」
「へー。あーそいや、お前もそーだもんなー。ん? そーいやお前も、何か臭いぞ。牛乳の腐ったようなにおいだあ」
げらげらげら。周囲の男子は鼻をつまんで一斉に笑った。
「うるさい!」
思わず、掴みかけた男子を突き飛ばしていた。
机二台と椅子三脚と一緒に彼は吹っ飛んだ。
「もう一度言ってみな!」
突き飛ばされた男子の友達が、慌てて近寄った。彼は頭でも打ったのか、気絶していた。
「おい尾原! お前何したんだよ!」
それからが大変だった。
担任教師と教務主任が飛んできて、気絶した男子を保健室に運び込むやら、救急車が来るやら、真理子と京子は職員室に呼ばれて足止めされ、施設から先生が呼び出され、軽い脳震盪を起こしただけ、という男子の家に出向いて謝罪するやら…
「…全く…」
担任教師は真理子と京子、そして施設の先生の三人を乗せた車の中で、聞こえない程度の声でぶつぶつとつぶやいた。
後部座席で真理子は、ミラーに今まで見たことの無い程不機嫌そうな担任の顔を見ることができた。
男子の両親の前で、担任教師は、真理子と京子に、有無を言わせず頭を下げさせた。
「だって先生、あいつが」
反論しようとする真理子に、担任教師はミラーの中とはうって変わった穏やかな表情で、
「尾原は彼にケガをさせただろう? そのことについては謝らなくてはならないね」
その時真理子は思った。嘘つき。
京子は自分にくっついたまま、ずっと震えていた。
施設に帰ってから、先生は、騒ぎの詳細を二人に問いかけた。
彼も予想はしていたのだろう。説明の途中で声が詰まりだした真理子の頭を優しくぽんぽん、と叩いた。
横で京子がぎゅっ、と真理子の腕に抱きついた。
「…怒らない…んですか? せんせい…」
「だって君達はもう、ケガをさせたことに関しては、彼に謝ったし。僕には君等を怒る理由は無い」
「あ…いつ…うちじゃあ、まいにち、風呂に入ってないのか、っていった…」
「そんなこと、無いのにね」
彼は悲しそうに目を伏せた。
「でも、そうやって見てしまうのが、ここ以外のところ、だからね」
「…そぉ…なの?」
彼はゆっくりと分かり易い言葉で、二人に向かって、「世の中の不条理」について話した。
言葉自体は分かり易いものであったが、真理子は彼の話すことの半分も判らなかった。
いくら真理子が聡い子だったとしても、小学校二年の児童では判る話と判らない話があるのだ。
それでも彼女もこれだけは理解できた。
ここと「世の中」じゃ、あたし達に対する目は違うんだ。
あたし達は、皆と違う場所から、走らされてるんだ。
当時、ハンデという言葉を知らなかった彼女は、少し前の体育の時間を思い出した。
皆が一斉にゴールにつける様に、と足の速い子はスタートラインを少し後ろにずらして走らされたのだ。
あんな感じだ、と真理子は思った。
あんな感じだけど―――
別にあたし達は、足が速い訳じゃあ、ないのに。
それから真理子は変わった。
いや、パワーアップした、と言うべきか。
幼いなりに彼女は「よのなかのふじょうり」に対して決意したのだ。
「だったら何か言われない様にすればいい」
「後ろからスタートされられても追い抜いてやる」
負けず嫌いと遺伝的有能さがかみ合って、彼女はそれ以来、成績優秀、もめ事も起こさずに小中学校を過ごしてきた。
ずっとかばってきた京子は、その細い身体とよく動く体を、「慰問」でやってきた小さなバレエ団を経営する女性に目をつけられ、引き取られていった。
「うまく行くといいね」
と真理子は京子の後ろ姿を見ながら先生に言った。本気でそう思った。
「そうだね」
と先生は答えた。
真理子自身は、中学を卒業するまで施設に残った。
「優秀な子を」という望みの引き取り手が無い訳ではなかった。
しかし彼らの欲しいのは、自分達の言いなりになる「優秀な子」であって、ぎらぎらした目で自分達をにらみ付ける彼女ではなかった。
それはそれで、構わなかった。真理子は自分のことは自分でするつもりだった。
自分の手で、道を拓いて行くつもりだった
卒業後、彼女は某家電メーカーの工場に就職し、付属の寮に住み込むことになった。そこの仕事は地味で単調だったが、給料は確実だし、社員食堂も充実していた。
何より彼女が嬉しかったのは、寮が個室だったことだ。
四畳半の大きさで、風呂・トイレ・洗面所・台所も共同ではあったが、それまで全くなかった「自分の時間」をそこでは持つことができた。
「自分の時間」。人の目が全く無い場所。
今までは、それが必要な時には、いちいち探さなくてはならなかった。
たとえば放課後の学校の屋上に続く踊り場、たとえば帰り道のコンビニのかげ。トイレの個室、ベッドの中。
だけどもう、探す必要は無かった。
図書館で借りた本を読む時に、騒ぎ立てる仲間達の声に悩まされずに済む。ラジオの英会話を恥ずかしがらずに発音できる。
彼女は仕事と食事が終わると、座卓にかじりついて勉強をしていた。
高卒の認定試験に受かりたかった。
大学に行って勉強したかったのだ。
そして首尾良く入学できた暁には、会社は辞めるつもりだった。
「年頃」というのに、色気一つ見せず、時間があれば本と勉強に明け暮れ、給料の大半を貯金する真理子を、寮に住む他の女達は、「真面目だねえ」と半ば感心、半ば呆れて見ていた。
「あたしなんかさぁ、高校出た時に、もうこんなもん、見たくないっ! って教科書とかむ、ゴミの日に出しちゃったもんね」
そぉだよねえ、と何処かの一室や食堂、もしくは「娯楽室」と呼ばれる、二十畳ばかりの何の変哲もない、TVとビデオデッキ程度がぽん、と置いてある部屋で行われる「お茶会」で真理子は何度も言われた。
そしてそのたび、彼女は笑顔でこう答えるのだ。
「もったいなーい。だったらあたしにくれれば良かったのにぃ」
「それもそうだね」とか「あんたそりゃせこいよ」という声が、笑い声に混じって真理子の耳に入った。
この寮の気のいい住人達は、上は五十代から下は十代まで居た。だがその明るさとは裏腹に、彼女達は皆、何処かしら苦労してきていた。
例えば真理子の隣りの部屋の宮本は四十五歳だが、三年前に離婚し、ここに一人、入ったのだという。
「やっぱり安く住めりゃそれにこしたこたないよ」
娘も息子も独立してるから安心だし、と彼女は大きく口を開けて笑った。
そのまた隣りの中井は三十代前半だが、前に勤めていた会社が倒産し、社長が逃げて、最後の二ヶ月は給料がもらえなかったらしい。
「…ってなるとやっぱり安全な大企業よっ」
末端だろうが何だろうが、安心できるにこしたことはない、と。なるほど、と真理子は思った。
また、三つ年上の野辺山加子は、真理子同様、施設出の中卒だった。
ほっそりとして静かな彼女は、食堂などでもその存在に気付かれないことが多く、食器を片付ける時に、「あれ、カコちゃん居たのかい」と周囲から言われる始末だった。
マイペースという意味では、真理子といい勝負だった。だが彼女は、真理子と違い、勉強とは無縁だった。
五時ですサイレンが鳴りましたさあ終わりです。
真理子にとってはそこからが楽しみだった。
自転車を持ち出してさあ図書館。そうでない時でもやることは幾らでもあった。
内容はともかく、他の者にとっても「楽しみ」であるのは同じようで、誰かの部屋に集まったり、「娯楽室」でTVを見たり、もっと元気な者は、夜遊びに行く場合もあった。
しかし加子はいつも食事と風呂をさっさと済ませてしまい、誰かが「お茶会」に誘ったりでもしない限り、まず部屋の外に出ようとはしなかった。既に寝ている、ということも多々あった。
そしてまた「大企業の末端」では、週休二日も早くから導入されていた。
週末となると、皆外に遊びに出た。
晴れていれば晴れているなりに。雨ならば誰か、男性社員から車を出してもらって。
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