パッセンジャーズ~やってきて、通り過ぎていくものたち

江戸川ばた散歩

第1話

 佐倉洋子が小さなホテルを経営することになったのは、決して自分の意志ではなかった。

 両親の死が彼女に与えたものは大した額ではない現金と、建てたばかりのこの建物だけだった。ただそれをホテルにしようと決めたのは、彼女自身である以上、結局自分の意志と言えるかもしれない。

 地理的にはそう悪い所では無かった。都心部ではないが、最寄りの駅と空港が上手く連結されていたため、海外に行く客、海外から帰って来た客で、困ることは無い。

 変わり映えの無い日々。

 ホテルを始めた時、二十歳そこそこだった彼女の脇を、五年八年と言った時間が通り過ぎて行った。

 殆ど仕事に休みというものは無かった。だがそれは既に日常と化していたので、ストレスにはならなかった。バイト学生や中年女性とのお喋りや、学生時代の友人と折を見て食事をする程度のことで、彼女は日々を充分満足していた。

 そしてそんな日々がこれからもずっと続いて行くのだろう、と彼女は感じていた。



 ある晴れた初夏の午後、一人の男がカウンターに現れた。


「一ヶ月… いいですか?」


 一ヶ月ですか、と彼女は問い返した。その頃はまだ、長期滞在の客はこのホテルには珍しかった。


「まずいですか?」

「いえ、まずくは無いですが…」

「先払いします。おいくらですか」


 低いハスキイな声が、彼女に問いかける。


「いえ、日払いで結構です」

「いいえ先に」


 そう言って、当時のシングルの一泊の三十倍の金額をぽん、と彼はカウンターに置いた。


「…ではとりあえずお預かり致します。もし途中でお帰りになる様なことがありましたらおっしゃって下さい。精算致しますから」


 男は黙って頷いた。

 お好きな部屋をどうぞ、と洋子が背後のキーハンガーを示すと、彼は二階の隅の部屋を選んだ。

 彼女は人気の消えたフロントで、男の記入した宿泊カードを再び手に取った。

 前野亮太郎、と筆圧の高い、豪快な字がそこにはあった。

 書き込んでいた時の手を、ふと彼女は思い出す。初夏の日差しでこうも焼けるものだろうか、というくらい黒ずんだ手の甲。それとは対称的に白かった手のひら。不思議と、まくり上げた袖の下は、手の甲程には黒ずんでいなかった。

 海外からの帰りなのだろう、と彼女は思った。たぶん南の、光の強い地方の。きっとそうだ。着ている服も、バックパックも、長い貧乏旅行に慣れています、というタイプだ。

 ただ「そんなタイプ」だったから、いきなりカウンターにぽん、と一ヶ月分の料金を置いた時驚いたのだ。このホテルはシンプルで安い方だが、一ヶ月分となると、結構な金額だ。怪しい、と思うのも当然と言えよう。

 住所は千葉県となっていた。三十二歳。私とそう変わらないのね、と彼女は思った。けど。洋子は思う。千葉県だったら、そんな、一ヶ月も滞在するより実家に帰ればいいのに。

 彼女は次の客がやって来るまで、しばらくそのカードを眺めていた。



 前野は一ヶ月の間、ほぼ毎日、昼前にホテルを出て行き、夜半過ぎに帰って来た。

 そうでない時は―――

 一度だけ、そんな日の彼を洋子は見かけたことがあった。

 フロントをアルバイトの子に任せ、近所に買い物に出ていた時、ふと、見覚えのある姿が視界の端に認めた。夕暮れの空が次第に紫から濃紺へと変わって行く時間。点滅を始めた派手な看板の前に前野は居た。

 ぽつぽつ、と同じ様な看板が頭上と言わず足元と言わず、灯りを灯し始める。細い道は、瞬く間にそれまでとは違った明るい世界に変わって行く。どうぞどうぞと呼び入れる男の言葉は耳に入っているのだろうか、前野は看板の向こうへと歩みを進めた。

 ああ。洋子は何となく納得した様な、そうでない様な気持ちで内心つぶやいていた。

 その日、彼の帰りはいつもより遅かった。



 前野はきっかり三十日後、ホテルを後にした。彼女は言った。


「またのご利用をお待ちしております」

「ありがとう」


 彼はそう小さくつぶやくと、斜め後ろに軽く頭を下げた。  


 

 それから半年か一年に一度、前野はこのホテルに滞在する様になった。だがやはり、洋子が前野と必要以上の口をきくことは無かった。

 ただ六回目に彼がやって来た時―――


「あ」


と彼女は思わず声を上げた。前野は顔を上げた。陽に焼けた、乾いた髪がざっ、と揺れた。


「何か―――まずいことでも」

「い、いえ…」


 彼女は口ごもった。

 宿泊カードを押さえる前野の手の甲には、大きな傷跡があった。ごく最近のものの様だった。包帯こそ巻いていないが、かさぶたになった血の跡がひどく生々しい。

 彼女には見慣れないものだった。つい声を上げてしまった。

 だがそれは不躾なことだ。彼女は反射的に自分を責めた。

 初めての客だったら、彼女も「目に映っても無視」したかもしれない。だが彼の手は、今までに彼女が何度も目にしてきたものだった。彼の他のどの部分より、見つめてきたものだった。

 彼女は思いきって口にしてみた。


「左手を―――」

「左手? …ああ」


 彼はひらり、と左手の指を逸らした。良く見ると、手の甲だけでなく、指の腹、爪といった部分にも、幾つもの傷跡が刻まれている。


「ちょっとばかり、今回はしくじりましてね」

「…大丈夫、ですか?」


 その問いかけが妥当であったとは思えない。だがその時の彼女には、そんな言葉しか思い浮かばなかったのだ。


「ええまあ。普通には動くし」

「それは、良かった…」


 彼女はほっと胸をなで下ろした。


「うん、俺も、その程度で良かったと思っていますよ」


 前野は軽く口元を緩ませた。


「…いつもの部屋、空いていますから」

「ありがとう」



 しかしそれから一年経っても、前野が来る気配は無かった。

 あんな風に訊ねたのが悪かったのだろうか。洋子は時々考えた。


「今年はあのお客さん、来ないんですね」


 ここ数年バイトに入っている女の子も、初夏のある日、洋子に問いかけてきた。


「そうね」


 彼女にはそう言うことしかできなかった。


 だがやがてその疑問も、日々の様々なよしなしごとの中にゆっくりと薄れて行った。




 ある日、東北に住む母の妹が、見合い話を持って来た。


「その話でしたら、今は…」


 ロビーの一角。コーヒーを挟んだソファの上で、洋子は曖昧に断りのつもりの言葉を口にした。


「でも洋子さん、あなたもう、三十五でしょう?」

「それはそうですが」


 彼女が洋子にその話をほのめかしたことはそれまでにも幾度かあった。だがあくまで電話のレベルだった。いくら姉の娘でも、遠く離れた場所で仕事を精一杯やっている洋子に口うるさく言うことはできなかったのだろう。おば自身も仕事と家庭の両方を持つ女であり、忙しく、せいぜいできることと言えば、姪が結婚という二文字を忘れてしまわない様にするくらいだった。


「…確かに三十五ですが… でも仕事が」

「あなたがしっかりしたひとだ、というのは良く判っていますよ、洋子さん」


 彼女はそう言ってコーヒーを口にする。


「お葬式の時にも、泣きもせず、その後も、あんな若いのに、よくまあ手続きとか、式次第とか、冷静にやってのけて、と」

「あの時は…」


 洋子は軽く眉を寄せた。両親が亡くなったのは、まだ大学生の時だった。三年の冬だった。急な事故だったのだ。考える間もなかった。判らないことは人に聞くなり何なりして、とにかく動いて、その時その場でできることを、ひたすらやるしかなかった。

 それだけだったのだ。悲しまなかった訳ではない。

 ただ、悲しむタイミングを逃してしまった、とは今でも思う。自分は父母のために思い切り泣いたことがあっただろうか?


「私は動転してましたけど… とにかく走り回っていたから、そう見えたのではないでしょうか?」


 正直、あまりその件について、洋子は繰り言を聞かされたくはなかった。

 日々は何があろうと淡々と過ぎて行く。ホテルなんて仕事をしていると、彼女には特にそれが肌身に感じられる。毎日毎日、違う人と顔を合わせる。形式通りの言葉を交わし、一日二日で去って行く。前野の様な例外もあるが、それは本当に希なものだ。

 日々がそれだけで緩やかに過ぎて行く。洋子にとって、それは何よりも心地よいものだった。

 おばはカップを置きながら、大きくため息をついた。


「…でも、それだけじゃあ、洋子さん、淋しくないかしらねえ」

「淋しい?」


 思わず問い返していた。


「だってそうでしょう? まだあなた三十代だからいいですけれど、私の様に、五十六十となった時にも、やっぱりこんな生活を続けて行くつもり?」

「…できる限りは」


 洋子はうなづいた。好きでやっていることだし、非難される言われも無いと思う。


「いけなくは、ないけれど。…まあ、一度、会ってみるだけ、会ってみない?」

「…はあ…」

「別にそれで上手く行くとか、期待はしないから」


 そこまで言われると、少し腹も立つというものだが。洋子は苦笑しながら、写真と身上書を受け取った。



 見合いは次の日曜だった。

 当初から仲介者の姿は無かった。予約済みの、緑の豊かな公園に面した静かなカフェでの当人同士の対面。簡単な形に、と望んだ結果だった。

 四十少し前の相手の男は川合と名乗った。顔が丸い。写真よりやや小太りだな、と洋子は思った。

 二人はランチを摂りながら、お天気レベルの言葉を一言二言交わしていたが、不意に彼が言った。


「お聞きになっているでしょうが、僕は一度結婚に失敗しているんですよ」


 それはあまりにもそれまでと同じ口調だった。洋子は口に入れたフォークをしばらく出すことができなかった。たしか身上書に、そんなことは書かれていなかった。


「ああ、隠されちゃったんですね」


 彼はははは、と軽く笑った。少し薄くなりだしている柔らかそうな頭髪が、その拍子に揺れた。


「実は、OKの返事が来たから、おかしいと思ったんですよ」

「あの、でも、どうして…」

「あなたも結構ストレートですね」

「いえそうじゃなくて、…あの、どうして、そういうことをこんな最初から」


 ああ、と彼はうなづいた。


「どんな良い縁談だって、壊れるものなら、いつかは壊れます。後で『あの時は言っていなかった』と言われるのも、何ですし」


 先に手を打っておこうというのか。それとも自分と会って、急に嫌になったのか。洋子は少し試したくなった。


「じゃあそのまま、さっきの質問を、最初にお考えになった方に戻しますけど、…よろしいでしょうか? 興味があるんです」


 最初から防壁を築いておくなんて。


「興味ですか?」

「興味です」


 ただの。


「そうですね」


 川合は、黒い眼鏡の縁を軽く押した。


「僕は、子供を作れない体質なんですよ」


 あ、と彼女は口を丸く開けた。


「…す、すみません…」

「いえ、いいんです。せっかく聞いて下さったのですから」

「…そういうものですか」

「あなたは興味を持って下さったのでしょう?」

「それは、そうですが」


 そういう事情は、予想できなかったのだ。女性なら――― 友人にも、それで離婚した、という者も居る。だが男性でそれは。そして、それを口にできるというのは。


「ですから今回のお話も、受けはしましたが、あらかじめ、言うべきことは言おうと思ってました」

「はあ…」


 眼鏡の下の目が軽く細められた。頬の肉のせいで、笑っている様に見えなくもないが、この状況でそう受け取るのは洋子には難しかった。


「どう望まれても、無理なものというものはあります」


 川合は言った。

 努力も希望も、持つことが叶わないことがあるのだ、と。目の前の男は、お天気の話と同じ口調で言った。


「仕方の無い、ことです」

「仕方の無い、ことですか」

「はい。―――あなたは」

「はい」


 思わず洋子は肩を震わせた。ぬるま湯の様な曖昧な思考の海の中にどっぷりとはまりこんでいたことに、気付いた。


「ホテルを経営していると聞きました」

「ほんの小さなものですが」

「いえ、大小は関係無いです。身上書を見た時、正直、凄いなあ、と思いました」

「凄い?」


 彼はフォークを軽く掲げた。


「一つの場所を、もう長いこと守っているということでしょう? 自分の力で」

「守っただけ、です。家でもありますし… 普通の会社とか、お店だったら、無理だったと思います」


 あくまでそれがホテルだったから。

 それが自分に合っていたから。

 彼女はそう思う。


「それは、幸運でしたね」


 川合は目を細め、今度は本当に、笑った。



 洋子はそれから川合と二年交際し、結婚した。内輪だけの式だった。

 その三年後に彼と死別した。不意の病気だった。

 夫の死後、しばらく通いにしていたホテルに、彼女は再び住み込みだした。また同じ生活に戻ったのだ。

 結婚を勧めたおばは嘆息した。


「…つくづくあなたは家族と縁が薄いのね…」


 聞き流すには少々痛い言葉ではあった。だが、さほど辛くも悲しくも感じていない自分にも気付いていた。

 五年間、洋子は川合と、それまでとは少しだけ違う、楽しい日々を過してきた。それで充分だと思った。激しい恋や追って行く夢は自分の生きて行く上には必要は無い、と思った。

 優しい記憶と、曖昧な日々。

 それだけで、いい。



 その青年がホテルに最初に来たのは、五年前の五月の夜だった。

 脂気の抜けたざんばらの髪、鈍い緑色のシャツを黒いTシャツの上に羽織り、バックパックを背負った二十代前半の青年。

 既視感が、彼女の上にふわりと降りて来る。


「…えーと、一ヶ月分前払いしたいんだけど」

「え」


 そして既視感は、呼び起こされた記憶に変わる。


「…あの…どうしたの? 奥さん」


 こんな馴れ馴れしい口調ではなかったけど。


「あ、すみませんねえ。…シングル一泊二日で5000円ですから、三十日分…」

「分かり易くていいなー。十五万円ね。はい」


 さっ、と青年は財布の中から札を無造作に出し、数え始める。あの男とは違う。あの男は、いつも丁寧な口調で自分と話していた。

 だがそれは、まだこの青年とそう変わらない頃の話だ。今の自分はこの青年から見れば自分は、「古ぼけた安ホテルを切り盛りしているおばちゃん」にしか見えないのだろう。洋子は思う。

 実際、川合が亡くなって、ホテルに戻ってから、確かに身体のあちこちに脂肪がまとわりつき始めた。年月は確実に彼女の身体の上にも降り積もっていた。

 客も以前より減ったから、忙しさが減ったせいもある。

 だが妙なもので、二週間くらいの滞在客が、ある時から増えていた。従って、全体的な収支としては、以前とそう変わりは無かった。特にそれは外国人のことが多かった。ラフな格好をしたパックパッカーは、どう情報を仕込んでくるのだろうか、このホテルに居座って、日本観光をするらしいのだ。

 彼らは出て行くとき、決まってこう言って行く。


「イキテタラ、マタネ」


 生きてたら。国も人種も違うのに、皆そう片言の言葉を投げて行った。不思議なことだとは思ったが、彼らの存在が、年々古めかしく、周囲から取り残されて行くこのホテルには大きいのは確かだった。


「…えーと… これでいい?」


 洋子ははっ、と顔を上げた。青年は宿泊カードをつ、と彼女の方に押し出していた。その手の甲はやはり良く焼けていた。そして明らかに治ったばかりの傷跡があちこちに見られた。


 既視感。


「…ああ、はいはい、OKです。今だったら…」

「えーと、二階の端の部屋、って空いてる?」

「二階の端… ですか?」

「駄目かなあ?」

「構いませんが… だけどあまり居心地がいいとは」

「でも隊長は居心地がいいって言ってたけど」

「隊長?」

「え」


 青年はひょい、と顔を上げ、二重の大きな目で洋子を見据えた。


「あの… もしかして、奥さん、前野さんのこと、何も聞いていないの?」


 前野。そう、前野だ。洋子の脳裏にその名前と、持ち主の姿が一瞬にして浮かび上がる。既視感と記憶の正体。


「何も、って」


 青年は困った様に首をあごに手をやった。


「ええと… 何から話せばいいかなあ…」

「もう十年も前の馴染み客に、そういう名前のひとが居たけれど、…その前野さん… かしら?」

「うーん… 俺が知ってるのは、千葉県出身の、前野亮太郎ってひとだけど」

「ああ、そのひとだわ。…元気でやっているの?」

「…だから…」


 青年はふっと目を逸らした。そしてバックパックを下ろすと、ごそごそと中身をまさぐった。


「あなたに、受け取って、欲しいんだけど」

 はい? と洋子は促されるままに、両手を出した。何やら薄汚れた布包みが乗せられる。土ほこりと、油。…それ以外にも、何かしら染みついている様な。


「あの、開けてみてもいいかしら」

「もちろん」


 受け取った包みは見た目以上に重かった。カウンターに中身を転がしたら、ごとん、と音がした。


「…石?」

「うん。でも、前野さんがわざわざただの石、託すわけ無いから、奥さん、後で宝石店に持ってって見てくれないかなあ」

「え? 宝石?」

「いざという時のための換金用だったかもしれないし」

「って… 前野さんは」

「亡くなったから。この間の作戦で」

「作戦」

「そういう商売なんだ。俺等、少し前までザイールに行ってたから…」


 怪訝そうな顔をする洋子に、アフリカの中程にある国、と青年は付け足した。


「俺達、傭兵なんだ。外人部隊ってやつ。俺、あのひとの部下だったから。亡くなる時に、これを、奥さんに、って」

「兵隊? …で… でもご実家が千葉県にあるのでしょう? どうして、私の所へ?」


 さあ、と青年は首を横に振った。


「俺も知らない。でもあのひと、いつも言ってたから。日本で休暇とるならあそこのホテルがいいぞ、って。特別何もあるという訳じゃあないけれど、静かで、気が楽で…って」


 確かにそうだ。彼女は思う。自分は一ヶ月も滞在する常連の彼にも、何も格別なことをした訳ではない。

 それでは、やはり、あの時自分はルール違反をしたのだろうか。彼女はふと、その時の胸の痛みを思い出した。あの時、手の傷のことなど聞かなかったら、彼はこのホテルにやって来続けたのだろうか。

 しかし既に、それを答えてくれる者は居ない。


「…奥さん…? どうしたの?」

「…え?」


 ごそごそ、と青年は再びバックパックを探る。


「ああ困ったな、こんなものしかない」


 そう言いながら、タオルを取り出すと、はい、と差し出した。


「…何…」

「だって奥さん、泣いてるじゃない」

「泣いて?」


 洋子は頬に触れる。あ、と小さく声を立てた。気がついてしまうと、喉元からこみ上げるものもある。一体どうしたことだろう。


「…ご… ごめんなさい。後で洗濯して返すわ… 二階の端の部屋の鍵はこれ…」


 うん、と青年は受け取るとそのままエレベーターへと向かった。


 一体どうしたことなんだろう。

 父母が亡くなった時にも、夫の葬式の時にも、涙は一滴も出なかったというのに。

 前野が好きだった、という訳でもない。彼は確かに特別な客だったが、それでも客以上の何者でもないはずだ。


 じゃあ一体、この涙は。


 きらり、とカウンターの上の石が光った。

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