ボーダーライン

江戸川ばた散歩

第1話

 ふわぁ、と横で大きなあくびの音がした。


「…眠いんですか、エベールさん」


 下手なフランス語で、日本人は問いかけた。


「ああ眠いね。…そう眠い。ワタシは寝るよ、アユム」


 いいんですか、という顔でアユムと呼ばれた青年はエベールを見た。彼はそんな相手の視線には構わず、丸い眼鏡を額の上にひょい、と挙げると、腕を頭の後ろで組んで寝そべった。長い足が少々邪魔そうに折り畳まれる。

 トラックの荷台の上、荷物の間に思い思いに座る彼らに、濃い緑の間の日差しは強い。


「ワタシの番が来たら、ミラでもアユムでもいいから、起こしてくれ…」


 そう、彼は疲れていた。睡眠を欲していた。そしてまた、この場では、そう簡単にものごとは動かないだろうことも、良く知っていた。


「予定では、もうラガサの町に着いているハズだものねえ。…まだヤノシュの番は終わんないのかしら…」


 全く、とばかりに褐色の女性の口から漏れたのはスペイン語だった。大柄な彼女が大きく首を振ると、後ろで束ねたざらりとした真っ黒な髪も大きく揺れた。


「…でもまあこないだよりは、マシかしらねぇ」

「そうなんですか? ミランダ」


 アユムは驚いた様に女性の方に顔を向けた。


「何あんた、スペイン語もいけたの」

「…少しだけ…」


 しかし口にしていたのは英語だった。話せはしないんだな、と彼女は了解した。


「全然喋らないから、英語とフランス語しか判らないと思ってたわよ。意外」

「…いえ、フランス語にしても少しだけだし… 言葉って難しい、ですね」

「は」


 ミランダは大きく手を広げた。


「あんたねえ、喋らない言葉なんて、覚えられる訳ないでしょ。下手でも何でも、身体使ってでも、とにかく喋ろうって気さえあれば、勝手に覚えるもんよ。…だから日本人ってやーなのよね」


 そう言って彼女は両手を広げた。

 荷台の上に居る三人、そして現在出入国管理局に出向いているもう一人、計四人のグループにとって、共通語は英語だった。しかもそれは皆母語ではないときた。


「日本人に、会ったことが」

「無い訳ないでしょ。アメリカにどれだけ日本人が居ると思ってるのよ」

「…そうですね…」


 全く。

 ミランダ・ハバードは苛立っていた。いや、このオカザキ・アユムと言う名の青年を見るたびに苛々していた、と言う方が正しい。

 そもそもどうしてこんなはっきりしない青年が、この地に来たのか、彼女には全くもって理解できなかった。

 彼らは医療関係の非政府組織「ボーダーレス」から派遣されたメンバーだった。

 今までにも日本人が参加しなかった訳ではない。ミランダも何度かチームを組んだことがある。いいひとも居れば、嫌な奴も居た。

 しかし彼らには皆、共通した面があった。良くも悪くも、強烈に積極的だったのだ。そして皆口を揃えて言った。「だから日本じゃあいまいち住み難くてねえ」

 けどこの青年は。

 歳は自分より四つも上、何と二十九歳だと言う。信じられなかった。まるで子供に見える。外見もだが、態度が、ハイスクールの生徒の様だ。そうでなければ、自分は行ってはいないが、大学生だ。とにかく自活した男の様にはまるで見えない。

 だがそんな男の性格など、いちいち構ってはいられない。これからは最前線なのだ。


「ミランダ?」


 ほらまただ、と彼女はアユムを横目で見る。そんな風に、人の顔色伺う目をするんじゃないわ。


「ねえドクター・オカザキ」


 はい、とアユムは肩をすくめた。腰に手を当てた彼女がそういう言い方をするのは、必ず釘をさす時なのだ。


「これから先は、何があっても、びっくりしない方がいいわよ」

「…判ってます」


 本当に判ってるんだろうか。ミランダは大きな胸の上で腕を組みながら、疑惑の目で青年を見た。何だって本部はこんな奴を送り込んだのだろう? 国境のこの町までの道の車中、彼女は何度思ったことか。


「でも、十人で五時間…で、普通、ですか」


 直接的な医療スタッフの四人。そしてその他のスタッフの六人。計十人。現地人から始めて、彼らが最後だった。


「あんた、今から何処にあたし達が行こうとしているのか、本当に判ってるの?」

「…判ってますよ、ホベン共和国でしょう… 戦争中の…」

「内戦中、よ。言葉はちゃんと使いなさいよ」


 判りました、と彼はうなづいた。その間にも、エベールの口からは大きないびきが続いていた。


「…けど良くまあ、こんな昼間の野外で堂々と眠れますね」

「何言ってんのよあんた、昼間でも外でも何でも、眠れる時に眠らなきゃ、あたし達みたいなよそ者はこんな場所じゃやっていけないわよ」


 出遅れた、と思ったくらいなのだ。ミランダにしてみれば。まずこの日本から「お初に」来た青年は、何処に居ても、疲れていても緊張して良く眠れないだろう。

 だったらその間にこっちが休息を取りたい。番をしてもらおう。どうせこんな対応の仕方じゃいずれこの日本人はぶっ倒れる。その時に埋め合わせをするとして。

 そう、寝ていた方がましだ、とミランダは思う。体力の温存だけでない。どうもこの日本人とは話が続かないのだ。もっとも彼女は日本人や日系人が苦手という訳ではない。結局単にこのオカザキ・アユムが苦手なだけなのだ。


「おーい」


 出入国管理局の扉から、背の高い青年が手を振った。ミランダはぽん、とアユムの背を叩いた。


「あんたの番よ、行ってらっしゃい」


 わかった、と彼は立ち上がり、トラックの荷台から飛び降りた。


「長かったね、ヤノシュ」

「まー、オレは仕方ないって。お前さんこそさくさく答えろよ、アユム」


 彼は肩をすくめ、ぱん、と交代の手を叩いた。


「お帰んなさい、ヤノシュ、ひどい顔ねえ」

「あー全く。こっちの答えにくい、ずばずば聞きやがって」

「そりゃあ仕方ないでしょ、あんたは」


 へっ、とヤノシュは濃い眉を寄せ、下唇を突き出した。


「そういう意味では、アユムなんてすぐ終わるはずだけどよ。そしたらあんただぜ、ミランダ」

「そぉかしらねえ。あの子じゃあかなりボラれると思うわよ」

「…ああ」


 それは有りだな、とばかりにヤノシュはうなづくと、荷台に上がり、腰を下ろした。

 木々の影が次第に動いて行く。先程まで全身陰になっていたエベールのふわふわした焦げ茶のすね毛だらけの足が、陽に当たり始めていた。


「それにしてもヤノシュ、あんたってハンガリー人のくせにどうしてそんな、口が悪い訳? 何処で覚えたのよそんなスラングだらけの英語」

「んなことどうだっていいだろ。オレの勝手じゃーん」


 ふう、とミランダはため息をつく。彼女はまた、このハンガリー人も苦手だった。噂によると、母国が「民主化」した時、彼の勤めていた病院全体が「まずくなった」らしい。

 その「まずくなった」内容に関しては彼は口を濁した。周囲も下手に聞こうとはしなかった。


「どーせ隠れなくちゃならないんだったらさぁ、いっそ危険なとこの方が面白いじゃん。何処だって危険ならできるだけ楽しくいかなきゃあ」


 だがいくら「まずい」と言っても、この「民主化」の世の中である。まさか死刑になる訳でもなし。前線だったら生命の危険もあるというのに。

 へらへらと笑うこの青年の気持ちもさっぱり彼女には理解できなかった。

 したがって、唯一このグループの中で、彼女が安心できるのは、フランス人のエベール・モドだけだった。彼はもう何度もこのブラック・アフリカの各地に、様々な団体の様々な形で治療に携わってきたという。看護婦であるミランダは、前回の派遣からの知り合いだった。


「それにしても、あの日本人は、わっかんないねー」


 へへへ、とヤノシュは荷台の枠に片肘をついて、管理局の方をみやった。


「でもまあ、ほれ、時々出てくる『死にたがり』には見えねーけどさ」

「はん、そんな奴だったら、この場で叩き出してやるわよ。あたし達はできるだけたくさんの人を生かすために行くのよ。死にたい奴連れてったら、引きずられかねないじゃない」

「んー、そーだよなー。だからオレにもわかんないのよ。アユムくんはどーもそういう感じじゃないしー」

「まあ、そう詮索しないことだな」


 低い声が背後からしたので、二人はゆっくりと振り向いた。


「起きたの、モド」


 にやり、とヤノシュは笑う。エベールは眼鏡をかけ直すと、額に掛かったもじゃもじゃした髪の毛をゆっくりとかき上げた。


「ああ。君がずいぶん長かったから、実に有意義な時間を過ごさせてもらったよ」

「それはどーも。でもアユムも長くなりそうだぜ。いくら英語は聞ける喋れるって言ったって、あのなまりの強い奴、あのにーちゃん、理解できるのかよ」

「まあ… 何とかできるのではないかな」

「そぉかしら?」


 信用できないわ、とばかりにミランダは眉を大きく上げた。


「彼は確かにあまり喋ろうとはしないが、だからと言って、理解できないとは限るまい。…問題は、彼がここの慣習を良しとするか、だがな… ヤノシュ、君、結局幾ら取られた?」

「痛いとこ突くねえ、あんた。オレで100ドルってとこかなー」

「…あんたでそれだったら、彼だったらもっとひどいわよ」


 案の定、数十分後、オカザキ・アユムは200ドルを巻き上げられて戻って来た。

 ミランダは50ドルで済ませた、という。


「それじゃあワタシも行ってくるよ」


 エベールはそう言って後ろ手を振った。早く帰って来いよ、とヤノシュは口でメガホンを作って声を投げた。


「いい加減にしなくちゃ、日が暮れちまうぜ」


 「今日中に」入りたい。それは皆の共通した認識だった。


「…一体何ですだよ、ここの管理局は」


 中身がかなり減った財布を見ながら、アユムはぶつぶつとつぶやいた。日本語だったので、残された二人には言葉はまるで判らなかったが、動作から意味は想像ができた。


「だから言ったでしょ、ここはそういうところだ、って」

「…そういうところ? だって僕らは、この国の人々の治療に来たんでしょう? 何で彼らにチップみたいなもの、渡さないといけないんですか」

「って言っても、あそこでふんばってるのは、たぶんマダ族だし。あたし達が今から向かうソンガリンガは、連中と戦って、連中にやられたクシュ族の難民キャンプ地じゃない。クシュ族のために行こうとするあたし達にいい顔する訳ないでしょ」

「…マダ族って… すぐに判るんですか?」

「判らないあんたの方がバカじゃない? 勉強不足」


 あっさりとミランダは言い放った。

 確かに現在、彼らが入ろうとしているアフリカ中央部、赤道直下付近の小国のホベン共和国では、民族間の抗争をベースとした、少しややこしい図式の内戦が行われている。


「あー、そーいや、さっきの職員、両耳に白い輪っかしてたもんなあ」

「そ。それにそもそも体型が違うでしょうが。クシュ族はだいたいもっと小柄よ。そうアユム、あんたより小柄」


 ミランダはそう言うと、アユムに真っ直ぐ指を突き付けた。


「…僕より」

「日本人も最近はでかくなってきたって言うけどさー、あんたは小柄な方だね、うんうん、可愛い」


 げっ、とアユムは思わずヤノシュから飛び退いた。退かれた方はあはは、と笑った。

 やがておーい、と大きく腕を振り回して、エベールが戻って来た。ヤノシュは腰に手を当てると、おっさん早いじゃーん、と声を張り上げた。


「…っと、早く乗りなさいよ…っと」


 彼女の手をすっと掴むと、エベールはにっこり笑って荷台に乗り込んだ。


「で、モド、あんたはどんだけ取られたんだ?」

「ワタシですか?」


 するとエベールは胸ポケットから数枚の札を出し、ほら、とその中から100ドル分をアユムに渡した。彼ははっとして五つ年上のフランス人を見上げた。


「…これ」

「幾ら何でも君、200ドルは取られ過ぎです。悪い奴にはお灸を据えておきましょうね」


 ちょっと待てえ! とヤノシュは手を垂直に出した。


「…ってことはあんたまさか」

「こんなところで取られるものですか。別に君の様に後ろ暗い所があるでなし」


 ぐっ、とヤノシュは詰まる。


「ワタシはワタシの国の言葉を理解できる子の方が好きなだけですよ。ねえ」


 そう言ってくしゃくしゃ、とエベールはアユムの頭をかき回した。やめろやめろ、と赤面しつつ逃げ回るアユムと、それを面白がってまたじゃれつくエベールの様子を見て、本当に大人と子供だわ、とミランダは思う。

 フランス語でぽんぽんと受け答えする二人を見ながら、あ、そうか、と二人は気付いた。


 フランス人ってのは、自分達の言葉が大好きなのだ…

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