第5話 恍惚サブミッション
魔界。
魔王軍の支配する魔物の領域。
混沌と悪の瘴気が渦巻く次元界。
そこに魔王城と呼ばれる、岩と黒鉄と荊棘に覆われた巨城がある。
玉座があるが、誰も腰掛けていない。
代わりに、何本もの太い鎖に絡まれた、大きな鏡がひとつ。
鏡から、一本の腕が伸びている。
その肌は雪より白く、しかし光を宿さない。
その爪は夜より黒く、しかも新月のように底知れない。
腕は二の腕のあたりで途切れており、鏡の中には燃えるような揺らめく闇。
闇の向こうに薄っすらと、横顔のシルエットが見える。
男とも女とも知れないが、絵画のような美しい鼻筋だ。
そんな玉座の鏡の前で跪き、深々と首を垂れる、魔王軍幹部がふたり。
獣将ゴルファン、空将ビークマン。
白銀の乙女奪還のためにディートサム王国を襲撃したが、騎士団長の駆る神機に返り討ちに遭ってしまったふたりだった。
「申し訳ありません、魔王様。まさか奴らが、天空人の遺産を所持していようとは……」
「さらに白銀の巫女を乗せることにより、奴らの神機はさらなる力を……」
言葉半ばで、魔王と呼ばれた鏡の手が動く。
指先から、黒い稲妻が走る。
幹部ふたりの声にならない絶叫。
その絶叫は、声帯が焼け焦げ数秒持たずに掻き消える。
稲妻が収まったあとには、石畳に這いつくばるのはふたつの死体。
ぶすぶすと焦げた音と、血肉の焼けるにおいが辺りに漂う。
その様を見届けてから、魔王の指が宙を撫でる。
指先から発せられた黒い光がふたつの死体を包み込み。
それらを何事もなかったかのように蘇生させた。
死の淵から蘇った幹部ふたり。
しばし惚けていたが、自分の身に起こった痛みと恐怖、辺りに漂う焼死体のにおいに、やがてがたがたと体を震わせる。
「気にすることはないよ。失敗は、誰にでもあることだからね」
何事もなかったかのように、部下を労う魔王。
その声は、暴風のようにも、豪雨のようにも聞こえる。
生物が己が無力を思い知る、圧倒的な容赦のなさを持っていた。
ゴルファンも、ビークマンも、何も言わない。否、恐怖に支配されて言葉を発することができない。
「大切なのは反省し、次の成功のために努力することだ。きみたちならそれができる。そう、わたしは信じているよ」
そのとき。
「ああ……魔王様、なんと寛大な……」
ぴちゃりぴちゃり。
湿っぽい音を立てて、人影が玉座に近づいてくる。
艶めかしくくびれた体のライン。縦長に切れた臍を出し、胸元はチューブトップ状のスケイルアーマーで覆われている。
しかし、人型なのは上半身だけ。
腰から下は、ぬめりを帯びててらつく八本の蛸脚。
「ウルスラか」
海将ウルスラ。
魚人部隊を率いる、魔王軍の海軍大将であった。
「次はどうか、わたくしめに出撃の許可を……。必ずや白銀の乙女を捕らえてご覧に入れます」
「もちろんいいとも。わたしは部下に平等に機会を与えてやりたいと考えているよ。なにより仕事は意欲のある者がやるべきだ。だが……」
そこで魔王は考え込む。
「わたしにも、与えられる魔力には限りがある。敵が持っている神機の数もわからない以上、戦力を投じ続けるわけにはいかないな。
それに……きみの主戦場は海だろう?」
「お任せください。わたしはこの無能共とは違いますゆえ」
ウルスラは、無数の吸盤を湛えた蛸脚で、ふたりの将を虫けらのように踏みつける。
死の恐怖に苛まれたふたりは、抵抗する気も失せている。
そんな情けない姿に、優越感たっぷりの笑みを浮かべるウルスラ。
「白銀の乙女を手に入れればよいのでしょう? なら、真正面から戦いを挑む必要がどこにありましょう。
すでに奴らの貿易網に、手下を潜ませております。情報によれば、近く港町ギーベントを訪れるはず……。そこで拉致します。
海はこのウルスラの領域。例え抵抗されようと、水中で息のできない地上人の兵など恐るるに足りません」
「……それは楽しみだ」
魔王の手が、ウルスラを招く。
ウルスラは恭しく鏡に近づき、跪いて顔を差し出す。
そして魔王はウルスラの顎を指で支え、薄く愛撫する。
「彼女を取り戻せば、この封印から逃れられる日も近い。期待しているよ、ウルスラ」
ウルスラは恍惚の表情を浮かべ、熱っぽい吐息を漏らす。
「……はい、魔王カラミティア様」
美男子幻想転生おじさん 虹野ゆう @sugurugus
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