2 十一月のよく晴れた朝に その2

 動画作成者としてある程度名が売れてくると、横のつながりもできる。

 ぼくはMusa男としてのSNSのアカウントを持っており、動画サイトを通じて知り合った同業者たちが何人もフォロワーにいた。かれかのじよらとはリアルでのつきあいはいつさいないし顔も知らないことがほとんどだけれど、おたがいに音楽歴と音楽のしゆだけはよく知っていた。

 その中の一人、《グレ子》さんという人はげんえきの音大生で、アップロードする曲のアレンジもクラシック色が強かった。たぶんあちらの世界にくわしいのではないかと思い、かのじよにSNSのダイレクトメッセージでいてみる。

さえじまりんって知ってますか? ちょっと前まで中学生のピアノコンクールでけっこういところまでいってたやつらしいんですけど』

 すぐに返信があった。

『知ってるよ。コンクールらしで有名だったから。すっごい遠くの地方の大会にもえんせいしたりして、どこでも出るたびに一位とるからきらわれてたよ』

 それってきらわれるものなのか。コンクールらしっていったって、べつに暴力的な意味でらすわけじゃなくて出場しまくって優勝しまくるだけなのだから正当な実力の結果だろうに。ただのやっかみじゃないか。それでクラシック音楽の世界がいやになってピアニストの夢をあきらめたんだろうか。

さえじまりんがどうしたの?』とグレ子さんはいてきた。

 いつしゆん、正直に打ち明けてしまおうかと思った。同じ高校に通ってるんですよ、と。面と向かっての会話だったら言ってしまっていたかもしれない。文章でのやりとりだったので思いとどまることができた。個人特定につながる情報はネット上ではなるべくやりとりしないように心がけないと。

『コンクールの動画たまたま見つけて気に入ったんですけど今どうしてるのかなって思って』

 ぼくはそう返した。うそではないが完全に正直でもないのでちょっと申し訳ない。

『ぱったり名前聞かなくなったね。ピアノやめたのかも』

 グレ子さんはそう書き送ってきた。

『たしか何回か一位をのがしたんだよね。スランプかな。それでやめちゃったのかも。めんどくさい世界だからね、全部投げ出しちゃいたい気持ちになることはあるよ。私も経験ある』

 めんどくさい世界。

 うん、まあ、めんどくさいのだろうな。ピアノに人生のほとんどをささげてきたやつが何十人も集まって、よくわからん基準で順位付けされるのだ。親や教師の期待が指一本一本にまでみっしりからみついていて、ワンフレーズくだけでくたびれてしまうだろう。

 どうもありがとうございました、とグレ子さんに返信してスマホをせて置き、ベッドにごろりとあおけになる。

 そのめんどくさい世界で勝ち続けてきたかのじよ

 積み重ねられた順位の《1》は細い木の幹のようにくうへ向かってび続け、けれどあるときぽっきり折れ、そのままちてしまった──のだろうか。

 もったいないな、と正直思う。

 らないならその才能をぼくにくれよ。そしたら女装にたよらなくても再生数5000くらいはかせげるんじゃないか。

 ブックマークをクリックし、動画サイトのさえじまりんコンクール動画をまた再生する。動画とう稿こう者は他の情報を特にさいしていないので、この演奏が優勝したときのものなのか、それともグレ子さんが言っていた一位をのがしたときのものなのかはわからない。でも中学生の演奏なのだ。同年代でこれよりすごいピアノをけるやつが、二人も三人もいるなんて信じられない。日本各地のコンクールをらし回ったという話だから、同等以上の実力の持ち主とぶつかる可能性もそれだけ大きくなったというだけのことなのだろうか。

 でも。

 音楽に順位をつけるなんて、そもそもが鹿鹿しい。色んな人が言っているしぼくも心底同意するけれど、音楽には二種類しかないからだ。もう一度きたい音楽と、そうでない音楽、それだけだ。

 そうしてぼくは起き上がり、PCの前にすわってブラウザを開く。関連動画リンクをたどり、またりんのピアノをあさり始める。

 その夜に新しく見つけた中でいちばんのお気に入りは、シューベルトのピアノソナタ第二十一番だった。

 ぼくはそれまでシューベルトという作曲家とちゃんと向き合ったことがなかった。小さいころにちょろっと耳にした未完成こうきようきよくは良さが全然わからなかったし、音楽の授業で出てくる『野ばら』とか『おう』といった有名な歌曲もさっぱり興味が持てないままだった。

 だからりんく二十一番の第一楽章はしようげき的だった。

 微笑ほほえみを絶やさないおだやかな青年の、けれどんだ弱々しい心臓がれに脈動を続けているような、そして時折の重たい痛みに声を殺してえているような、そんな切々とした曲だ。どう考えてもコンクール向きの曲じゃない。テクニックをろうするためのわかりやすいかせどころが全然ない。しかも、たぶん地味に難しい。おまけに長い。第一楽章だけで二十分くらいある。よくこんな曲を選んだな。

 関連動画に、同じコンクールのものらしき別の女の子がいているモーツァルトの第八番があり、こちらの動画説明に「優勝した」と書いてあった。

 するとりんのシューベルトは負けたわけだ。

 何度き比べてみても、敗因はわからなかった。りんの方が百倍い。選曲が中学生らしくないから? 演奏が情熱的すぎていててつかれるから? どちらも、むしろ美点だ。

 そういえば、とぼくかばんからがくを取り出す。

 はなぞの先生にしつけられた次の合唱曲、たしかシューベルトだったっけ。

『サルヴェ・レジーナ』。

 聖母マリアをたたえる四部合唱だ。例によって、ピアノばんそうをつけるようにと言われている。この曲、ピアノソナタ第二十一番と同じく変ロ長調じゃないか。これなら、第一楽章のモルト・モデラートのおだやかな主題をばんそうにそのままめそうだ。

 シーケンサにんで鳴らしてみる。もうこの時点でふるえるほど美しい。自分が天才だとかんちがいしそうになるが天才なのは作曲者だ。ピアノソナタ第二十一番だけではなく、『サルヴェ・レジーナ』の方も無しの名曲だった。シューベルト先生ほんとうに今までごめんなさい。これからは正座してきます。

 てつで編曲したばんそうをプリンタで出力したぼくは、ぼんやりしたまぶたをこすりながら学校に向かった。


  *


 そのばんそうを目にしたりんの反応たるや、すさまじかった。いきなり両手をピアノのけんばんたたきつけたのだ。世界中のマグカップがいっぺんにくだけたみたいな、不協和でどこかこつけいな音がふたりきりの音楽室にひびいた。

「……Dマイナー11thオンA」とぼくはおそるおそる言った。

「和音当てクイズなんてしてない」りんはにべもなかった。

「……ええと、なんでそんなにおこってんの」

おこってるように見えるの?」

「ううん、まあ」

 りんはいつもの、ちょっとねつを帯びた無表情だ。出てくる言葉が毒気どっぷりなのも毎度のことだ。おこってなくてもこの調子だろう。

 でも──やっぱりそのときはおこって見えた。

おこってないけれど」とりんくちびるとがらせた。「あなたが死ねばいいのにとは思ってる」

おこってんじゃん……」

「シューベルトの四倍くらい長生きしてだれも面会に来ない老人ホームのかたすみで毎日毎日シーケンサにマイナーコードだけでできた曲をみながらどくに暮らして十一月のよく晴れた朝にふと我に返ったみたいな顔で心不全起こして死ねばいいと思ってる」

 みように幸せそうな死に様だったのではんげきの言葉がすぐに出てこなかった。ちなみにシューベルトは三十一さいで死んでいる。りんきゆうだんを続けた。

「それで、どういうつもりでばんそうにシューベルトのソナタなんて使ったわけ」

「あー、わかる? やっぱり」

「当たり前でしょう。二十一番はもう何百時間かけたかわからないくらい苦労した曲だし」

「そりゃそうか。コンクール用の勝負曲だもんな」

 りんまゆをつり上げた。

「コンクールの曲だって知ってて使ったわけ? なんで知ってるの?」

「動画でたんだよ。だれかがネットにあげてて」

 ふうぅ、とわざとらしいかのじよのため息がけんばんの上をいた。

「みんな消えちゃえばいいのに」

 動画について言ったのだろうけれど、もっと広い意味のように聞こえてぼくはぞわりとさせられた。

「いや、でも、動画のおかげでぼくもシューベルトの良さがわかったし。あんなすごい曲書いてたなんて知らなかった。ありがとう」

「あなたのためにいたんじゃないし動画をわたしがあげたわけでもない」

「そりゃそうなんだけど……」

「あなたのためならベートーヴェンの十二番とかショパンの二番をいてあげる」

 どちらもそうそう行進曲つきのピアノソナタである。ありがたくて泣けてくる。

 どうせとっくにうとましく思われているのだ。もうこの際だから自分のもやもやを解消するためにもストレートにいてしまおう。

「なんであんだけけるのにピアノやめちゃったの?」

 かのじよは目をしばたたき、それからまつげをせてけんばんふたを閉じた。

「やめてないでしょ」

 自分の指先を見つめて素っ気なく言う。

「ああ、うん」ぼくはしばらく言葉を口の中で転がした。「つまり、コンクールに出たりとかそういう本気のピアノを──って意味で」

「そんなにコンクールが大事なの? うちの親みたいなことを、なんで赤の他人のあなたにも言われなきゃいけないの」

 視線も返答も痛かった。親にも言われてたのか。そりゃそうか。ぼくは首をすくめる。

 なんで赤の他人に──。

 まったくの正論だった。だいたいぼくだって音楽に順位付けなんて鹿鹿しいとか考えてたじゃないか。コンクールなんてどうでもいいはずじゃなかったのか。

 ちら、と目を上げる。

 ピアノの黒くわたったふたの上に置かれた、りんの指先が目に入る。

 もったいない。理由はそれだけだ。つばさがあるなら飛ぶべきだ。地面にいつくばって空をあこがれの目であおぐことしかできない人間にとって、それは自然な感情だろう?

 りんはぽつりと言う。

「前にも言ったでしょ。むらくんはピアノにくわしくないから買いかぶってるだけ。わたしのピアノは大したものじゃない。よく指が回ってミスが少ないだけ。せいぜい都道府県しゆさいレベルのコンクールで優勝できるかできないかくらいの」

 かのじよぼくの方を見ていなかった。あしもとにある弱音ペダルに向かって語り続けていた。だからぼくが首をって否定してもなんの意味もなかった。

「よく言われた。わたしの演奏にはゆうさがないんだって。品がない。音色がきたない。雑音が多い。ひびきがひんそう。……わたしも自分でそう思う」

「……音色?」

 ぼくは思わず口をはさんでいた。

「ピアノの音色? ……それって、あの、ピアノだいじゃないの? いてる人は関係ないんじゃ……だってけんばんたたけば音が出るんだし……雑音ってどういうこと?」

 ようやくりんは顔を上げた。その口元にかんだみはひどくこくはくそうに見えてぼくはぞっとした。

 それからかのじよは立ち上がり、白々しいくうに向かってつぶやく。

「べつにいいじゃない。たたけば音が出る程度の演奏でも、合唱のばんそうには困らないんだから。それ以上わたしになにをさせたいわけ?」

 りんが音楽室を出ていってしまった後も、ぼくはピアノ前の机にべったりとし、かのじよの言葉をはんすうしていた。

 なにをさせたいって?

 きまってるだろ。もっといてほしいんだよ。かせてほしいんだ。

 だいたい、さっき自分で「やめてない」って言ってたよな? あそこでさらにいてやればよかった。なんでやめてないんだ? って。技術も全然落ちてないってことはいまだに家で毎日かなり練習してるってことだろ? 厳しいコンクールめぐりからドロップアウトしたのにどうしてまだ続けてるんだ?

 ぼくは身を起こし、弱々しく手をばし、グランドピアノの側面をなでる。黒の中に映りんだぼくの姿はゆるやかな曲面によってみじめに細くつぶされている。

 この中に、まだ心を置き忘れているからじゃないのか。

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