第十八話 宰相は留守です
軍隊というものは基本的には金食い虫だ。
兵士が持つ武器に行軍中の食料、寝泊りするための簡易宿舎。それに加えて彼らの給料まで支払わなくてはならない。つまり、何をしても金がかかるのが軍隊というものなのだ。だが、国や人を守るためには純粋に力というものが必要なことも事実なのである。
血塗られた剣を握り締めた野盗を目の前に話し合いだけで解決できるほど、世界は飴細工で出来ていない。刃に刃を持って訴えることしかできないことも多いのである。つまり、私――一等書記官アンナ・ド・ヴァランタンの仕事はこの金食い虫が喰らう金を減らしながらも最短最速で東部戦線を押し上げることにある。
執務室の前に『東部戦線統合兵站補給作戦事務局』と書かれた紙を貼り付けた。
目の前に並ぶのはうずたかく積まれた人事名簿と各属州から拠出可能な穀物や肉類、その他の物資が書かれた明細。さらに東部地域での街道を描いた地図が所狭しと並べられている。人や物資の移動にとって最上は船、次に牛馬、最後が人になる。これはそのまま一度に運べる量と言い換えることもできるし、移動中にかかる損失の過多とも言える。
前者の場合は、単純に船舶での輸送量がその他の方法と比べてはるかに多く効率がいい。
後者の場合。一万人の兵士がいて彼ら一ヶ月分の食料を送るとき、単純に一ヶ月分を送ると間違いなく食糧不足が起こる。なぜかといえばその食料を運ぶ人足や牛馬にも食料が必要だからである。船舶でも船員の食料が必要となるが、そこで消費される食料は船舶の輸送量の多さで補完することが可能である。
補給担当者がそのあたりを理解していなければ確実に兵站は崩壊する。
そんなことを考えながら、机に向かっていると執務室の扉をたたく音がした。私は声だけで反応を返すと小さな影が室内に入ってきた。その小さな影は背丈よりも大きなローブに無駄にきらびやかな杖を手にした幼女であった。
「勤勉なものじゃな。じゃが、一人で作業をしていてははかどるものもはかどらんのではないか?」
幼女特有の甲高い声に似合わない語調でそれが誰か、私には直ぐにわかった。
「これはこれは
幼女はまるでヒゲでもあるかのように何もないあごをなぜると、背伸びをして机の上に広げられた地図を覗き込んでうんうんとわかったような顔をした。大人びたふりをする幼女に見えるが、この人は本物の大賢者である。何をこじらせたのか。何か特殊な性癖なのかかつての老賢者は幼女として私の目の前にいる。
「忙しいのならわしが手伝ってやろうか? こう見えても書類仕事は得意なのじゃ」
「それはありがたいですけど、フォン・ダン・ショコラ様には東部戦線でのお仕事がありますからお断りしておきます。そもそも、どうして帝宮にいるのです?」
「ふむ、多重結界術式の開発が終わったので報告に来たのじゃが主様がもう出たあとだったのでお主のもとに寄ったのじゃよ」
幼女は褒めてくれとばかりに大きな瞳で私を見上げてくる。その愛らしさに頭を撫で回したい衝動に襲われるが騙されてはいけない。あれは幼女の皮をかぶった老賢者なのである。
「そういえば、前にお会いしたときにも多重結界がどうとかいっておられましたけどそれはどんなものなのです?」
「よくぞ、聞いてくれたのう。多重結界はわしがかつて作った広域結界の反対、ごく限られた地点に何層にもなる結界をつくる術なのじゃ。その防御は伝説の勇者の盾にも匹敵する、といっても良い」
胸を張って満足げに鼻を鳴らす幼女は大変可愛らしかった。
「それはすごいですね」
私が淡白な返事をすると幼女はぷぅーと頬を膨らませて「お主はつまらんのう」と不貞腐れた顔をする。
「魔王の攻撃さえも防ぐ防御魔法じゃぞ。もっと驚いてみせよ」
「そう言われてもフォン・ダン・ショコラ様は魔王と戦うことはないでしょうから……。まぁ、分かりました。人事名簿には付け加えておきます。強力な防御魔法あり、と」
「強力ではない! 最高のじゃ!」
まったく幼女でも老人でも頑固なのは同じだ。私は人事名簿を開くとフォン・ダン・ショコラの項目に備考を付け加えた。それを見て幼女は「よし」と笑った。
「はいはい、これでいいでしょう。私は忙しいんです。フォン・ダン・ショコラ様もはやく持ち場に戻ってください」
「わかったわかった。どいつもこいつもわしを幼女扱いしおって。もっといろいろできるというておろうに」
フォン・ダン・ショコラはほかにも小言を言いたそうな顔をしながらも杖を振って部屋から出ていった。まったくこの忙しいときに困ったものである。夜までにはもう少し資料をまとめたいというのに時間がかかってしまった。窓の外に目をやると太陽がかなり傾いている。夕闇が迫るのも近い。私は少し焦って資料の精査に取り掛かった。
地図と名簿に印を刻んで顔を上げると太陽が地平線へ沈むところだった。どうりで手元が暗くなったはずだと蝋燭に火をつけて回る。部屋の中が淡い光に照らされたとき、扉を叩く音がした。私が「どうぞ」と答えると一人の剣士が陰鬱な表情で入ってきた。
「しばし暇を頂きたい」
顔を合わせた途端に剣士は切り出した。
「ルシエンテさん、それはできません。いまのあなたは傭兵として帝国のために戦う契約になっています。それを勝手に休むなど許すことはできません」
「しかし、それでは宰相のお命が危ない。俺にとってあの方は恩人。助けに行きたいのだ」
率直な彼の物言いは私を不快にさせるのに十分であった。
「却下です。あなたは東部での作戦でも戦力の一つとして大きな役割を求められています」
「だが、君は宰相が心配ではないのか?」
本当に腹が立つ人である。私は手にしていた書類を机に叩きつけると彼を睨みつけた。
「あの人を心配することと自分に与えられた仕事を果たすことは全く別のことです。仕事をするのなら
結局はそうなのである。宰相も仕事を選んで私も仕事選んだ。ならば公私にこだわるべきではない。そうであるべきなのだ。
「俺が見た限りでは君はそういう区別が曖昧な人間だと思っていたのだが……」
「私が? それは勘違いですね。私ほど厳しい人間はいません。くれぐれも軽挙を起こさぬように。宰相からもそのように釘くらいは刺されていたのでしょう?」
勘であったがそれは正しかったらしくルシエンテは顔を背けた。
「それでも!」
「下がってください。私は忙しいのです」
私は彼から視線をずらして、卓上の書類に移す。拒絶を示すと彼はもう少しだけ何か言いたそうに体を震わせていたが、最後には何も言わずに部屋から出ていった。私は彼が出て行ったことを確認すると執務室の入口に貼り付けた『東部戦線統合兵站補給作戦事務局』の紙の端に『作業中入室を禁ず』と書き加えた。
それから食料や武器の輸送日程と各属州から借り受ける船舶や人足などの計算をしていると手元が再び暗くなった。顔を上げると数本の蝋燭が燃え尽きていた。棚から新しい蝋燭を取り出して、古いものと交換する。燭台に新たな明かりが灯ると執務室の扉が急に開いた。
見ると燃え盛る炎のような髪と瞳をした女性が立っていた。彼女はどこで手に入れたのか分からないが非常に高価なドレスに身を包んでいたが、間違いなく獄炎帝竜マジョリカであった。彼女が帝都にいる理由が分からず私はひどく驚いた。
「ようやく見つけた」
彼女は私を指さすと怒りの色を宿した鋭い瞳を向けた。
「帝宮によく入れましたね」
「お前を探していたら知らない女が、帝宮に入るにはちゃんとした服を着なきゃいけないわ、と言ってこれを着せて部屋の近くまで案内してくれた」
世の中にはずいぶんとおせっかいな人間がいるものである。よりにもよってこの娘を連れてくるのかと私は頭が痛くなった。
「それはよかったわね。で、属州にいるはずのあなたがなんのようで来たの?」
「私はお父様を助けに行く」
「……私に言ったらダメって言われると思わなかったの?」
「思った」
なら来なければいいのに、彼女はどうしてそこまで正直なのだろう。
「正直ね。だけど、私はその正直さに心打たれて許可するような優しい人間じゃないのよ」
「それも知っている」
いや、そこは否定して欲しいところだ。むしろ、嘘でも優しい人間というのが交渉というものではないのか。きっとこの娘はずっとそうだったのだろう。だからあんな変な男に好かれたのだ。そう思うと可哀想な話である。
「来なければ良かったのに」
「それは思った。……だけど」
彼女はそこで言葉を打ち切ると少し黙り込んだ。
「だけど?」
「……お前は私のお姉さんなのだろう? ならお前も連れて行くべきだ」
考えたことのない答えに私の頭が真っ白になった。
違うというのは簡単だ。だが、なぜかそれを言えない。私は片手を自分の顔に押し当てる。
「私たちが行っても……」
「勝てなくてもいいじゃないか」
「宰相は勝てなくてもいい、とは思っていない。勝つ可能性がわずかでもあるならそれを果たすべきと思っているのよ」
宰相が皇帝の命令を受けたのは、その可能性を感じたからだ。歴代勇者の伝説の中で繰り返し語られてきた魔王の魔術や攻撃。勇者がどうやって対抗してきたのかは、歴代八人の勇者の物語として語られている。ならば勇者と近い力を持つことができれば魔王にも勝つことができるのではないか。そう考えても不思議はないのである。
「お前はどうしたいんだ?」
「私は……。私は」
助けたいに決まっている。だけど、私は拒絶されたのだ。その私がどの面を下げて助けに行けばいいのか私はわからない。
「相変わらず、はっきりしない子ねぇ」
よく聴き慣れた甘ったるい声に顔を上げると扉にもたれかかるシルビア・ド・ヴァランタンがいた。マジョリカは彼女を見ると「さっきの親切な人」と微笑んだ。私はその言葉を聞いてどうして彼女がこの場に来れたのか理解した。
「シルビア様はずいぶんとお優しいですね」
「そうなのよ。私ほど優しい人はいないもの。迷子がいれば助けちゃうし、ロクでもない顔で仕事をしている木っ端役人がいれば声もかけてしまうわ」
私は今どんな顔をしているのか。そんなもの考えるまでもない。
「どうして、あなたはそんなに平然としているのですか?」
そうねぇ、と首をかしげると彼女は微笑んだ。
「私が助けに行くわって言えばあなたは満足かしら?」
「満足とかそういう意味では」
「でも、無理なのよねぇ。私ってどこをどうみてもお姫様でしょ。お姫様は助けられるものであって助けに行くものじゃないの。だから、私はいけないわ。むしろ、私が困ったらあの人が助けに来るべきじゃなくて?」
シルビアはいかにもお姫様というようにくるりと回ってみせると無駄に美しく衣装の裾がふわりと広がった。
「え? いや? 何の話ですか?」
「私はお姫様。あなたは何っていうお話よ」
「私は……」
なんだろう。いや、分かりきったことだ。
私は帝国最大の貴族にして文官最高位の一等書記官。そして、お父様の娘である。
「ああ、こんなに暗くなってしまって。早く帰らなきゃ。そこのドラゴンちゃんも今日はウチに泊まっていきなさい。あなたはどうするのかしら?」
「もう少しだけ働いてから帰ります。やるべきことがありますから」
「そう、ならひとついいことを教えてあげるわ。昔、私はあの人をこっぴどく怒ったことがあります」
それはいつものことではないか、と思ったがぐっとこらえる。
「あの時は私の誕生日で、珍しくあの人もちゃんと帰ってきたの。で、楽しく晩餐をしてゆっくりお話でもしようとしたら、あの人ったら書類仕事を始めるの。それで、どうして仕事なんてなさるの? って尋ねたら君の晩餐に遅れないように仕事をもって帰ってきたというのよ。だから、私は怒ったの。
仕事を終わらせずに私の誕生日を祝うとかありえない。そういう半端なことが一番嫌いなのよって」
「それは、シルビア様のことを思ってのことでは?」
「いえ、私の事を思うなら仕事を終わらせて私のことだけを想えるようになってから帰ってくるべきなのです」
ひどいノロケだ。私が呆れた顔をするとシルビアはマジョリカを引きずるようにして部屋から出て行った。
私は大きな計画の変更が必要になったことに頭を痛めたが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。それからしばらく新たな計画を描いていると、再び扉をたたく音がした。
返事をすると甲冑を身にまとった若い男性と女性が立っていた。
どこかで見たような顔な気もするが記憶にはない。彼らも私に宰相のことを言いたいのか、と身構えると男性の騎士が申し訳なさそうに頭を下げた。
「僕は近衛騎士のアンソニー。隣にいるのがソニアです」
ソニアと呼ばれた騎士は深く頭を下げると気まずそうに口を開いた。
「私たちの二つ名のことなのですが……」
二つ名といえば騎士や戦士が戦功や特徴をあだ名された第二の名前である。有名なものだと海竜リァヴァイアンを討伐した海竜殺しのプディングやたった一人で千の兵士を足止めした千人止めのココナッツがいる。それらは自然と人々が呼び出したもので本人が決めることはほとんどない。
「二つ名がどうかしましたか?」
「はい、先日の帝宮防衛戦から私たちは姫騎士のアンソニー。男色のソニアと呼ばれているのです」
思い出した。近衛副団長に卑猥な書籍を持っていることをばらされた二人だ。それにしても可哀想な二つ名と言わざるを得ないが、あまり擁護できそうにない。そもそも、この二人と私にいかなる関係があるというのか。
「それは大変ですね」
「大変なんです。私が若い騎士達の近くを通るだけで彼らはケツを押さえて後ろに下がり」
「僕が良家出身の女騎士に声をかけると泣いて逃げられる始末。どうにかしてもらえないでしょうか?」
二人は深々と頭を下げるのだが、私にはどうしようもない。
「それは私の仕事ですか?」
「……え、しかし、執務室の前に一等書記官のよろず相談室と紙がかかっていたのですが……」
私は慌てて執務室の外に出ると見慣れた筆跡で『一等書記官のよろず相談室』と可愛らしく書かれていた。私はそれを怒りに任せて破り捨てると「お母様!」と叫んだ。
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