第十話 宰相は人質になります

「宰相は鳥のように自由になりたいって思ったことありますか?」


 私――二等書記官アンナ・ド・ヴァランタンは遠い空を見上げて尋ねた。空はどこまでも青く透き通っていて雲さえなければ海の青さと区別がつかないに違いない。鳥のようにこの真っ青な世界を飛んでいければどれだけ良いことだろう。私がそんな事を思っていると背後で宰相がごにょごにょとコンラッド・タルトタタンとバタール・カンパーニュという反逆中年と話している声が聞こえた。


 私の質問を無視して中年同士で盛り上がるとは何事だろう。私は少しふてくされた気持ちを込めてもう一度、宰相を呼んだ。


「宰相! 聞いてます? 空を自由に飛びたいって思いません?」

「そうだねぇ……。飛べればいいと思うけど」


 宰相は私の横にやってくると空ではなく眼下を見下ろした。私たちはいま、属州アーモッドの州都サンドラを取り囲む城壁のうえにいる。この都市で一番空に近いこの場所から見える景色はもしかすると天国に一番近いかも知れない。


「下を見てもダメですよ。それとも宰相は高い場所は苦手でしたっけ?」

「苦手ではないけど気になるよね、下がね」

「下になにかありましたか? こんなにいい天気なんですから上だけみましょうよ」

「人間は上ばかり見ていると転ける生き物なんだよ。ちゃんと下を見て地面を見据えないと」


 分別のある大人のように落ち着いた声で話す宰相に私は感心しながらゆっくりと視線を城壁の下へ向ける。そこには地平線まで続くような魔物と魔物と魔物がいた。いくら現実を直視しないようにしても見えてしまう。それは間違いなく魔王軍の攻勢であった。


「……しっかり囲まれてますね」

「蟻の這い出る隙もない、というのはこういう事を言うんだろうね」

「これって完全に狙われてましたよね、私たち」

「そうだねぇ。私とマジョリカが反乱を未然に防いで、君が来た翌日にこれだからねぇ」


 私たちはまんまとおびき出されたのだろう。考えてみれば宰相は魔王軍の四天王をすでに二人も倒しているのだ。魔王側とすればこの危険人物をどうにかしたいと考えるのは当たり前だ。コンラッドとバタールの反逆中年をたきつけたミケーレという謎の人物の目的はこれだったのかもしれない。


「宰相。もしかしたらこれが最後かも知れないからずっといえなかったことを言っていいですか?」


 私はずっと心の中にしまってきたことをぶちまけようと向き直ると、ひどく怪訝でこちらを警戒した様子で宰相が低い声を出した。


「嫌だよ。そのままずっと胸にしまっていてよ」

「なんでですか?」

「絶対にロクでもないことでしょ? 聞かないでも分かるよ」

「……ひどくないですか?」


 私は言葉と一緒に宰相の足首を蹴りつけた。頼りない悲鳴とともに宰相がしゃがみ込む。


「ひどいのは君だよね。蹴ることないじゃないか」

「そうですか。私はいまの宰相の言葉に深く傷つきました。これは死ぬやつです。損害賠償を求めます」

「大丈夫だよ。君の心はこの城壁より硬いから。それよりもこの城壁があとどれだけ持ちこたえられるか」


 いまのところ私たちや街の人々が無事なのは、州都をぐるりと取り囲む城壁のおかげである。魔物たちは壁に体当たりをしたり鋭い牙や爪を立てている。それはこの巨大な城壁にとってはわずかだが確実に崩壊への時を刻んでいる。


 属州にはそれぞれ常備軍がいるのだが魔王軍との戦いが始まって以来、兵の大半は東部戦線に移動しておりいま手元にいる兵力はごくわずかである。私はまた鳥になりたい気持ちになりつつも現実を見据えることにした。


「私の傷ついた心よりは耐えてくれそうですけど、それも数日と言ったところでしょう。なによりも州都の市民がこの状況に耐えられるかどうか」


 魔物に攻囲された初日から市民の中からは州都を放棄して逃げるべきだという声がある。確かに少ない兵力と市民が一丸となって囲みの一角を崩して撤退することは不可能ではない。だが、市民の中には女子供もいれば病人や老人もいる。それらの人が魔物の追撃から逃げ切れるかといえば難しい。市民の多くが殺されてしまえば、のちに州都を取り戻してもそこで暮らすものが居なくなってしまうのだ。


「東部戦線からの援軍をもとめようにもこの包囲網だからね。とてもじゃないけど使者を出すことはできない」

「どうです。宰相が使者としてこの攻囲を突破して見るという勇者的作戦は?」

「ここに帰ってくる頃には使者は死者になってるよ」


 宰相がくだらないことを言った。私はやれやれと苦笑いをした。


「それ笑うところですか? 冗談は置いといて現実的な話をしましょう」


 私が切り返すと宰相はしょんぼりしたような顔でうん、と小さく頷いた。もしかするとあれは彼にとって渾身の冗談だったのかもしれない。だとすれば、最高に才能がないとしかいいようがない。


「……現実的といっても州都側ができるとこは三つしかないよ。一つはこのまま援軍が来るまで防衛を続けること。次は市民の被害には目をつぶって逃亡すること。最後は玉砕覚悟で攻勢にでること。どれにしたってロクな未来が見えないけどね」


 自嘲気味に宰相が力のない笑みを浮かべる。


「宰相が言うとおり、どの方策もロクなものではありません。いま、私たちが辛うじてこうやって生きているのは州都の城壁と私たちの最大戦力である獄炎帝竜マジョリカがいてくれたおかげです」


 彼女が破れかけた部所を救援に行くことでなんとか防戦ができている。彼女の生み出す炎はまさに地獄の業火であり、城壁に取り付いた魔物を一気に灰へと変えてゆく。しかし、マジョリカの力で生まれた魔物の空白地帯は、あっというまに魔物で埋め尽くされてしまう。一騎当千といえど敵が万やその上になればなす術がないのだ。


「彼女には頭が上がらないね。でも、彼女だって疲れもする。いまは無理にでも頑張ってくれているけどいずれは限界が来る」


 宰相は実の娘を心配するかのように重い声をだした。


「そこで話は元に戻ります。陥落まで時間の猶予はなく、逃走や反撃は絶望的。あとは援軍に期待するしかありませんがそれもいつになるかわからない。ならば、こちらから呼びに行くほかありません。そうです! 勇者のように敵中を駆け抜けるのです!」


 私は拳に力を込めて空に向かって振り上げる。普通ならここで奮い立って「うぉー」と叫ぶ場面だというのに宰相はいままでにない低音で「うわぁー」としまらない音を漏らした。


「さっきも言ったけどこの魔物の大群の中を抜けるなんて無理だよ」

「いえ、穴は開けます。マジョリカによって地獄の片道通路を穿ち、走り抜けましょう。これこそ勇者的発想による状況打破です!」


 州都を取り囲む魔物は超大ではあるが、地形的に囲みが薄い地点も存在する。州都の東側は小高い丘が連続しており、斜面が続くせいで魔物とはいえ多くは入り込めていない。この場所に穴を開ければ強引に走破することができるかも知れない。


「地獄の片道通路とか言ってる時点で勇者的じゃなくって悪魔的だよ!」

「私はいまを打破できるなら勇者にでも悪魔にでも魂を売りますよ。宰相はどうですか?」


 宰相は少し押し黙って口を開いた。


「そうだね。それで民が救われるならやるべきだろう」


 私はその声を心のどこかで握りつぶした。


「では、準備を――」


 マジョリカを呼んで準備を始めようとした瞬間であった。地方官吏がひどく慌てた様子で私たちの前に駆け込んできた。彼は乱れた息のまま口を開いた。


「市民たちが州都からの脱出を求めて東門に集まっています。このままでは門を突破する可能性があります!」


 東側の敵の薄さは市民にも分かっていた。それゆえに彼らはそこからの逃走を望んでいるのであるが、丘と斜面が続くこの場所を子供や老人が魔物から逃げ切れるはずがない。若く体力があり、幸運の女神に愛された者だけが生き残れる。それはあまりにもひどい。


「バタールは?」


 反逆者になったとは言え彼はいまだにこの地の総督である。総督の地位は皇帝の専任事項であり、皇帝が新たな総督を選出しない限り彼は総督のままなのである。彼が死ねば代理総督を臨時に立てることはできるが、残念なことに彼は生きている。


「書記官様。あんなろくでなしの言うことなど市民の誰も言うことを聞きませんよ。市民の中にはあいつが反帝国の反乱を起こそうとしたから魔物が攻めてきたのだ、というものも多くあの人が出たところで私刑にあって市民の気勢が上がるだけです」


 憎々しく官吏は冷たい声を出すと上司を非難した。

 彼の言うことは正しい。私はやはりあのときさっさと処分しておくべきだった、と後悔した。


「とにかく東門へ行こう。もし門が開いてしまえばすべてが終わってしまう!」


 宰相は言葉よりも早く駆け出したので、私と官吏は慌ててあとに続いた。

 東門の前では多くの市民と兵士たちがいまにも衝突しそうな距離でにらみ合っていた。


「待ってくれ! いま門を開ければいくらかの人間は生き残れるだろう。だが、多くの人が犠牲になる。その中には君たちの友や家族、恋人も含まれるかもしれないんだ。どうか門を開くことを思いとどまって欲しい」


 宰相の声が響き渡ると、市民の一部が持っていた棒や剣をおろした。だが、まだ半数近い人々が敵意を持ってこちらを睨みつけている。彼らはしばらく宰相とにらみ合っていたが、一人の若者が前に出てくると叫ぶように言った。


「このまま篭っていたとしてもいずれは壁を破られて俺たちは死ぬ! そうなるくらいなら自ら門を開け放って逃げるべきだ。皆が生き残れる。それはきっと素晴らしいことだろうさ! しかし、現実はそうじゃない。大を生かすために小を殺す。それがこの世の理だろう」


 若者が言うことは正しい。私なら間違いなく大を生かすために小を殺す。だけど、彼は分かっていない。宰相は本気で願い行動するのだ。


「君が言うことは確かに一つの理屈だ。だが、それはここでただ篭っていた場合だ。私はいまから敵中を走破して東部戦線にいる軍団を連れて戻ってくる。どうかそれまで待ってくれないか?」


 人びとは「そんなことできるのか」とか「宰相はこれまでに多くの奇跡をおこしている」などというやりとりがあったが、先頭に立つ若者は怒りの表情を崩さなかった。


「そんなこと言ってあんただけが逃げるんじゃないのか? 城壁を守っている竜人の女はあんたの護衛なんだろ。なら、あんたがこの街を出ていけばあの女も一緒についていくに違いない。そうなりゃ俺たちはおしまいだ」


 若者の言葉に感化されたいく人かの男たちが宰相に向かって石を投げつける。その中のひとつが彼に当たりかけたが、寸前のところで石は火球にぶつかって粉々になった。火球の出元を見れば目を真っ赤に怒らせたマジョリカが城壁の上から男たちを睨みつけていた。


「お父様がこの町を守れといった、だから私は守っている。なのにお前たちはお父様に牙をむくのか?」


 マジョリカの声は石を握り締めていた人々を縛り付けるには十分であった。だが、それでも人びとは門の前から動かない。そこに震えてかすれた声が響いた。


「私が代わりに行こう。宰相は人々を守ってあげてください」


 それは反逆二人衆の一人であるバタールであった。

 人々は激怒した。目の前に立った中年を邪智暴虐の王であるかのように罵倒した。彼らは理屈を抜いて総督であるこの男が嫌いであった。中央から派遣されて偉そうに振るまい、税金をちょろまかし、帝国にまで反旗を掲げようとした。人びとは邪悪に対しては人一倍に敏感で過激だった。


「こんなことになったのはお前のせいじゃないか!」

「今更、総督みたいなことを言いやがって!」


 バタールはそれらの言葉を一身に受けてもひるまなかった。


 ただ「町を魔物の手から救うのだ。」とバタールは悪びれずに答えた。


「おまえがか?」


 若者は憫笑した。


「そうだ!」とバタールはいきり立って反駁した。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。お前たちは、宰相の仁愛さえ疑っている」


「疑うのが、正当の心構えなのだと教えてくれたのはお前ではないか! 総督として数々の悪行に手を染めながらいうことか」


 若者は怒りを吐き出して少し落着いたのか、溜息をついた。


「俺たちだって皆が助かればいい、とは思っているさ」

「ならば今回だけは私を信じてくれ。私は確かに良い総督ではなかった。だが、必ずここへ援軍を連れて帰ってくる」


 バタールはしっかりとした声で断言した。


「馬鹿な。逃がした小鳥が帰って来るというのか」

「そうだ。帰って来るのだ」


 バタールは必死で言い張った。

 人びとは未だに信じられないという様子でざわざわとささやきあう。私はその人々に聞こえるように大きな声を上げた。


「私はバタールを信じます。だが、私が信じるといってもここにいる皆は信じることはできないでしょう。故に私は提案します。そこに宰相がいます。あれを、人質としてここに置いていきます。もし、バタールが逃げ去ってしまって、三日後までにここに帰って来なかったら、あの宰相を絞め殺します」


 この時の人々の驚きの表情と宰相のやや絶望に満ちた顔はひどいものでした。

 どうして宰相が死刑になるのか理解できないという人々の疑問が収まらぬうちに私は話を進めた。


「さぁ、バタールよ。行くがいい」


 私が声をかけると彼はやや意味がわからない、というような表情を浮かべたまま門の前に立った。


「マジョリカ! お願い東門から直線上にいる魔物という魔物を燃やし尽くしてちょうだい!」


 マジョリカは私の言葉を聞くべきか否か悩んで、宰相に視線を送った。宰相はその返答に小さく頷いた。そしてバタールに向かって言った。


「かならず、三日のうちに帰ってきてくれ。少しも遅れてはいけない。あの書記官はやるといえばやるのだ。そこに公私が混ざることはない」


 バタールは宰相よりも悲壮な青い顔で門前に立つと片手をあげてマジョリカに合図を送った。マジョリカはおそらく私への怒りを込めた炎撃を魔物へと向けた。激しい轟音と熱波が城壁をとおしても伝わる。そして、城門は開かれた。


 扉の先には真っ黒に焦げた魔物の死骸といまだに炎をちらつかせる大地が広がっていた。バタールはその黒と赤だけが支配する平原へとやけくそのように駆け出した。私たちはその背中が消えるよりも早く城門を閉ざして貝のように閉じこもった。


 怒りに満ちていた民衆は、一度始まってしまったこの事体をどうしていいのかわからぬ様子でそれぞれの家へと消えていった。私はようやく安堵の息をついた。


「これであと三日はなんとかなりますね」

「……縛り首になるのかね?」

「彼が帰ってこない場合はそうなりますね」


 私は爽やかな笑みを宰相に向けた。


「本気?」

「はい、本気です。そもそも宰相がバタールたちが心を入れ替えて忠実な帝国の臣民になる、とおっしゃったのですよ。だから、私も彼を信じてみよう、となったのです。だから、彼が逃げた場合は宰相ご自身の責任をとるということでここは一つ。お願いします」


 私は可愛らしく片目を閉じて、人差し指を一本立てて見せた。


「君ね。命は一つしかないって知ってる?」

「ええ、そういう説もあるそうですね」

「いや、学説の違いみたいな感じで流さないでよ。もし、彼が帰ってこないと私、死んじゃうよ」

「宰相。たくましく頑張りましょう」


 私は両手を胸の前で握り締めて宰相を励ましたが、うまく意図が伝わらなかったのかぐったりとうなだれてしまった。


 それから一日が経った。

 いまのところ大きな被害もないが、そろそろマジョリカの体力が厳しい。なんとか残存兵力と交代で休めるように調整しているが敵の動きがそれを許してくれない。宰相の方は自分に語りかけるように「バタールは必ず帰ってくる。帰ってくる」とぶつぶつと呟いている。正直、怖いのでやめてほしい。


 バタールが出て行ってから二日が過ぎた。

 市民の一部が防衛へ協力を申し出てきた。戦力としてはあまり当てにはならないが補給や陽動には活用できる。人間である属州兵の疲労が激しい。マジョリカと相談してなんとか兵士たちの休みを作ったが、彼女の消耗も激しい。おそらく広域破壊はあと一度できるかどうかに違いない。

 宰相は城壁から東を眺めているが、地平線の彼方から流れてくる雲と鳥がいるだけで援軍の兆しはない。それでも彼はバタールを信じているのか。黙ったまま耐えている。私は、東門の前に十字架を立てるように命じた。市民たちは本気なのか、という目を向けるものが多い。先日、東門に押しかけた若者もそんな一人である。私は彼に言った。


「明日が楽しみですね」


 彼はぽかん、と口を開けて「あ、ええ」とだけ答えた。


 期日である三日目が来た。今日の夕日が落ちるまでにバタールが帰ってこなければ宰相の命は十字架に消え去ることになる。私は一抹の寂しさを胸に宰相に声をかけた。


「バタールは帰ってきますかね?」

「帰ってくるさ……。っていうか彼が帰ってこないと私、本当に殺されるよね」

「どうしてこんなことに!」


 私は悔しい気持ちに拳を握り締める。


「どうしてって君が私を殺そうとしてるんだけどね」

「まぁ、でも期日を区切ることで市民の暴発をここまで引っ張ることができたじゃないですか」

「それが目的にしてもこの仕打ちはひどくないかな」


 宰相は十字架に縛り付けられたまま、大きなため息をついた。


「……バタールは今どこにいるんでしょうね。それはそうといよいよ城壁が破られそうでして今夜には陥落ということになりそうです」

「大丈夫だよ。彼は来るさ」


 強い信念を抱いているかのように断言した。


 陽がゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も消えようとしたときだった。魔物の不気味な鳴き声や爪音に混じって馬のいななきと剣戟が揺れる音がした。州都の人びとは我さきにと城壁に登ると歓声を上げた。


 東方から来た軍勢は、ぱっと三つの集団に分かれると東門、北門、南門の三ヶ所に集まっていた魔物へと突っ込んでいった。そのなかに妙に強い者がいる。


 目を凝らしてみるとどこかで見たことがある。日に焼けた小麦色の肌に手に持った農機具であるはずの大鎌を振るうそれは勇者決定戦に参加していた農夫ベンであった。どうやら、彼は勇者候補生として東部戦線に派兵されていたらしい。


 彼の強さは決定戦でもみたが並ではない。

 次々と魔物を切り殺し、血路を拓いてゆく。その背後をよろよろとした影が追いかけている。全身から吹き出した汗を拭うこともなく、ただ前へ前へと足を動かしているのは間違いなくバタールだった。城壁では近づいてくるバタールに大きな声が上がった。


 そして、彼が門前に近づくと東門は誰の命令もなく開いた。彼は十字架にかけられた宰相を見ると「私だ、書記官! 彼を人質にした私はここにいる!」と、かすれた声で精一杯に叫びながら、私の足元までたどり着いた。


 人々は口々に叫んだ。


「宰相をおろしてあげてください」

「間に合ったんだ!」


 宰相の縄はほどかれた。自由を手にした宰相は安堵の表情をついたあと、バタールの前に立った。バタールももつれる足を引きずって宰相の前に立つとしゃがれた声で叫んだ。


「宰相。私を殴れ。私は途中で、このまま逃げ去ろうと考えた。あと二度ほど大地に寝転がり惰眠を貪った! 君がもし私を殴ってくれなかったら、私はあなたと生還の喜びを共にする資格さえ無いのだ。殴れ」


 宰相はすべてを理解した様子でうなずき、人々に聞こえるほど音高くバタールの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑んで言った。


「バタール、私を殴れ。私はこの三日の間、ずっと君が戻らないのではないかと君を疑い続けていた」


 バタールの腕が唸りを上げて宰相の頬を殴った。


「生きていて良かった!」


 二人同時に言い、生があることを喜んだ。

 人々の中からも、歓声が聞えた。私は背後から二人の様子を眺めていたが、やがて静かに二人に近づき、馬鹿みたいに喜び合う中年の顔を見た。


「望みが叶いましたね。宰相たちは、疑心に勝ったのです。そしてそれはこの州都に住まう人々すべての心がこの長く厳しい籠城に耐える糧になったのです。いまこそ、皆でこの勝利を祝いましょう!」


 どっと人々の間に、歓声が起った。


「万歳、帝国万歳!」


 完璧な遁辞であったが人々は喜んでいるし、街も救われたこれでいいじゃないかと私が舌を出していると、横からものすごい表情で二人の中年男性がこちらを見ていた。私は彼らの悪意から逃れようと視線をうえにずらした。


 ちょうどそこには州都を防衛するために奮戦してくれたマジョリカがいた。彼女はひどく慌てたようすで手を振り回して私に何かを言っているようだった。どうせ、「お父様を危険に合わせて!」とか「やはり、お前はお父様の敵だ」とか言っているのだろうと無視しようとしたがどうにも様子がおかしい。


 私は慌てて城壁を駆け上がるとマジョリカの横に立った。

 外周の魔物の多くは駆逐され、勝利は揺るぎないように見えた。だが、一点だけ動きがおかしい場所があった。散り散りになった魔物の追撃に出ていた部隊の一部が急反転してこちらに戻ってきている。彼らの背後には王冠のような鶏冠に蛇の尾を持った異形の龍種がいた。それは体のいたる場所から赤紫色の煙を吹き出し、その煙に触れた植物は大樹、草花に関わらず腐り落ちている。


「バジリスクだ」


 マジョリカは落ち着いた様子でいったが、伝説の毒龍の登場であった。

 私は城壁内で喜び合っている宰相に向かって叫んだ。


「宰相! 次の職場を説明します。至急、バジリスクを倒してください!」

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