第9話 さまよう影

 皮肉屋の一番弟子が久しぶりに見舞いに来ると、宗景は老人たちに混じって喜々として絵手紙なんぞを描いていた。

 皮肉屋は、

「おや先生、新しい絵画分野に目覚めましたか?」

 と声をかけ、「作品」を眺めた。あああのシャープな線の森山宗景が、こんなよれよれの線を描いて、と、弟子は哀れに思った。

「ふん。まあ、よく来た。あっちで話そうか」

 宗景は、皆さんちょっと失礼、と仲間の老人たちにお辞儀して、立てかけた一本杖を取るとよいしょと力を込めて立ち上がった。まだ不格好ながらしっかり両足を使って歩く宗景に弟子は皮肉でなく感心した。

「先生、ずいぶん回復なさいましたねえ!」

「そうだろう?」

 宗景は得意になって歩き、庭の見渡せる窓辺のお茶飲み場の長椅子に腰掛けた。弟子も向かいに座る。

 宗景は、

「おい、俺は宗達と光琳の『風神雷神図』を並んで見たぞ」

 と突然言った。弟子は、

「ああ、三年前でしたか、ありましたね。わたしも見に行きましたよ?」

 と言ったが、宗景は得意な笑顔で違う違うと首を振った。

「俺はな、新品を見たんだ。抱一の『夏秋草図屏風』が裏に描かれた本物のだ」

「新品の本物とは、どういうことです?」

 弟子は病気の先生の頭を疑ったが、

「馬鹿野郎。呆けちゃいないよ。夢でだよ」

「ああ、なるほど。夢ね」

 弟子は納得し、夢の話を喜々としてする師をやはり哀れに思った。宗景はお構いなしに

「まったく俺の夢だってえのになあ、宗達、光琳、抱一、揃って俺の『黄金の黄昏』を馬鹿にしやがる。まったくけしからん奴らだ」

 と真面目に怒った。弟子はニヤニヤして言った。

「ほう、三巨頭に意見するとは、先生も偉くなったものですね?」

「ああ。もうあんな奴らは知らん! 琳派なんざクソ食らえだ」

「おやおや」

 弟子は呆れた。あれほど心酔しきっていたのに、いったいどういう心境の変化だろう? 宗景は腕を組んで言う。

「確かに俺も型にこだわっていたところがある。今、もっと自由に次のテーマを模索しているところだ」

「それで、絵手紙、ですか?」

「ああ。見てろよ? 森山宗景復帰第一作は世間の連中をあっと言わせる傑作にしてみせるぞ」

「ほおーー……。それは、楽しみですね」

 弟子は静かに微笑んだ。大病を経た老画家が、いったいどこまでの復活を果たせるのか、正直怪しむ気持ちが強かったが、それでも嬉しく、頼もしく思った。

 看護士に付き添われて患者たちが散歩するのどかな庭を眺める画家の横顔は、以前と同じように意欲的に引き締まっていた。




 砂川美羽。

 彼女はニューヨーク移住を決め、久しぶりに自分たちのアトリエ、兄が住んでいた借家を訪れた。

 この家は砂川夕陽を愛する熱心なファンたちが、美羽のインタビュー記事で事情を知り、是非美術館として使わせてほしいと有志を募って美羽たち家族に働きかけてきた。もともと借家であったので、家族三人相談し、借用の権利をそのまま彼らに引き継いだ。美羽自身は彼らや世間の砂川夕陽を愛する熱意がどこまで続くか懐疑的だが、盛り上がっている運動にわざわざ水を差すこともあるまい。

 美羽は久しぶりにそのイーゼルの前に立った。そこには兄の絶筆となったテレピンオイルの青やオレンジの、意味不明の線が塗り重ねられた二十号のキャンバスが掛けられている。

 その隅には兄の血がどす黒く染みついている。

 兄がここにどんな絵を完成させようとしていたのか、妹の美羽にも分からない。砂川夕陽の絵は、やはり兄の絵だったのだ。

 レースのカーテンから差す白い光が陰った。

 美羽はふと背後に人の気配を感じ、意識とは別のところで本能的にぞうっと背筋が寒くなった。

 部屋の隅から、人がじっと見つめているのを感じる。

 兄……なのだろうか………。

 美羽は森山宗景との会見を思い出して自分の意識としてぞうっとした。

 美羽はつばを飲み込み、後ろを振り向けないまま言った。

「兄さん……なの?

 どうしたの? まだ苦しいの?

 兄さんはもう解放されたはずでしょう?

 だったら何故まだこんなところにいるの?

 まあ、ちょうどよかったわ。ここね、兄さんの美術館になるのよ? 兄さんのファンの人たちがね、兄さんの絵を集めて、ここを美術館にするんですって。ずいぶん小さなみすぼらしい美術館だけど、兄さんの個人美術館なんだから光栄よね?

 じゃあ、ここにいて訪れるファンの人たちを迎えてあげるといいわ」

 美羽はじっと背後の気配に集中したが、美羽をじいっと射るように見る視線は消えなかった。

「怒ってるの?わたしを?

 兄さんを追いつめて殺した森山宗景に取り入ったから?

 知ってる? あの人、脳溢血で倒れて、右半身に麻痺が残っているのよ? ずいぶん苦しんでいるようよ?

 あれ、兄さんの仕業じゃないの?

 だったら、いい気味でしょう? もう、気が済んだんじゃない?

 ……ねえ、

 兄さんが死んだのは本当にあの人のせいなの?

 本当は、わたしのせいなんじゃないの?

 わたしが、兄さんの絵の代筆ばかりじゃなく、たまには自分の絵を描きたいわ、って言ったから。

 いいじゃないの? 砂川夕陽として賞賛されているのは兄さんなのよ? 砂川夕陽の名誉は全て兄さんのものよ。わたしは砂川夕陽でいる限り、ずうっと、兄さんの影でしかなかったのよ?

 わたしの方こそ、

 解放してくれたっていいじゃない?

 わたしが砂川夕陽じゃない、石川美羽になって、どうして悪いのよ!?

 ねえ、兄さん、

 わたしを、恨んでいる?

 砂川夕陽の半身を引き裂いたわたしを、

 許せない?」

 美羽は、息を吸うと、思い切って振り返った。

 雲が流れて再び白い光が射し込んだ。

 そこには誰も、何もなかった。

 美羽はぼうっとした顔になり、息をつき、

 寂しそうな顔で言った。

「ごめんね、兄さん。

 ありがとう」

 美羽は部屋を出、家を出た。

 振り返らずに歩き、たぶん、二度とここを訪れることはないだろうと思った。




 森山宗景。

 宗景は自分の部屋に帰っても熱心に絵手紙を描き続けていた。完成した一枚を腕を伸ばして眺め、これはこれで画集にまとめたら売れるんじゃないか?とご満悦だ。

 巡回に来た看護士にあんまり根を詰めては駄目ですよと叱られたが、もはや医者など何するものぞだ。

 フンフンと上機嫌の宗景の前に、久しぶりに黒い影が立った。

 宗景は目をぱちくりさせて眺め、旧友に会ったように

「やあ」

 と声を掛けた。

「俺の新作だ。どうだ?」

 宗景は絵手紙を影に見せ、ベッド用のテーブルに置くと、言った。

「俺はここまで来た。もう一度地獄に突き落とすかね? それはさすがに地獄の閻魔様も許しちゃくれないと思うがねえ?

 俺は傲慢な嫌な奴だったかも知れん。無知な大馬鹿野郎だったかも知れん。

 だが、根はそんなに悪人でもないぜ?

 あんたにはずいぶん悪いことをしてしまったかも知れんが、どうだろうな?、もう、許しちゃくれんかね?

 俺もあんたと同じ地獄を味わった。

 だが、あんたと同じ場所で同じ景色を眺めても、やっぱり俺はあんたのような絵は描かんよ。あんたがいくら気に入らなくてもね、こればっかりは俺も譲れない。

 いいじゃないか?、今や画家としてあんたの方がずっと上にいる。俺なんか悪役としてけちょんけちょんにけなされて、今や地べたを這いずり回る哀れな老人だ。お互いここらで妥協しようじゃないか? なあ?」

 宗景は影のとなり、小タンスの上に立てられた『雨雲の中の太陽』を指さし、言った。

「あんたのその絵には救われたよ。ありがとう。お礼を言わせてもらうよ。悪く言って、本当に済まなかった。あんたが描いていたのは、本当に希望だったんだなあ」

 影は絵を見た。

 宗景は、もう一度、

「ありがとう」

 と頭を下げた。

 顔を上げたとき、影はもう消えていた。

 宗景は少し寂しく思って、はて?と思った。

 前の奴はもやもやして、大きな一つ目だったが、

 今現れた奴はもっとはっきり人間の形をして、なんとなく陰の中に、しっかり二つの目があったように感じたが?

 まあいいか、と思った。

 今、心が晴れ晴れしている。

 砂川夕陽が謝罪を受け入れてくれた証ではないかと思う。

「ありがとう」

 宗景は今一度絵に感謝の言葉を述べ、さて、もう一頑張り絵手紙を書こうと準備した。

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