第8話 展覧会の絵

 宗景はそれでもかなり頑張って回復してきた。さすがと誉めてやっていいだろう。

 三ヶ月が経とうとすると四本脚の歩行具を使ってなんとか自力で歩けるまでになっていた。その代わり、その容貌はずいぶん老けた。毎日生き続けることの苦しみがしわに深く刻み込まれている。自力で歩けると言って、体の使い方を覚えただけで、右半身が劇的に快復したわけではない。

 宗景は他のリハビリ患者と交わらず、意固地に一人で頑張った。

 その頑張りは鬼気迫るものがあったが、それは自分に復讐しようという『雨雲の中の太陽』に負けまいという反抗心からだった。

 彼があの大画家の森山宗景だというのはもう知れ渡っていたが、例えば絵手紙サークルの老人がうっかりそのことを口に出すと宗景はギロリと睨み、ものすごく不機嫌になり、黙って歩行具を頼りに立ち去った。

 リハビリのためと白い廊下を歩き回った宗景は、フーフーと額に汗を浮かべ、疲れて、途中の長椅子に腰掛けた。一度座ってしまうと立ち上がるのにずいぶん苦労しなければならないのだが、この時はずいぶん疲れていて先のことなどどうでもいい心境だった。

 目を閉じ、ハアーー、ハアーー、と疲れた息をつき、いつしか宗景はそのまま眠ってしまった。


 目を覚ました宗景は、誰もいない廊下を見渡し、仕方なく苦労しながら歩行具にしがみつき、乗り上げ、ハアーッとまた一息ついて、自分の病室向かって不自由に歩き出した。

 ガッタン、ズルズル、ガッタン、ズルズル、と歩きながら、宗景は白い廊下を、はて、こんなに長かったかな?と思った。

 歩いていくと、両方の壁に小さな絵がずらりと並べて貼られていた。老人たちの絵手紙だ。

 宗景はつまらんと思い、見向きもせずに歩き続けた。

 歩き続けると突き当たりに入り口が開いていた。

 はて、なんの部屋だったかなと入っていくと、

 広い、天井の高い部屋に、大きな絵が何枚も展示されていた。

 正面にパッと目に入った絵を見て宗景は

「ほお」

 と嬉しい驚きの声を上げた。

 酒井抱一の『夏秋草図屏風』である。部屋の中央でちゃんと畳の上に置かれている。琳派絵画の最高傑作の一つであるが、まあもちろん本物のわけはない。しかし宗景はいそいそと近づいていき、レプリカとはいえ、精緻な出来に感心し、喜んだ。それもレプリカなので新品同様で本物よりずっと色鮮やかで綺麗だ。

「いいなあ…」

 宗景はニタリとなんとも幸せそうな顔で眺めた。

「しかし、してみると……」

 宗景はよいしょよいしょと裏へ回ろうと横へ歩くと、屏風の向こうに更に屏風のあるのを見て、

「えっ、」

 と驚きの声を上げてしばし固まった。

 現れたのは『風神雷神図』だった。

 宗景は目を見開いて凝視した。

「これは俵屋宗達の『風神雷神図』ではないか!? してみるとやはり」

 宗景は急いで『夏秋草図屏風』の裏へ回った。その表を見て、宗景は、

「わはははははは」

 と思わず声を出して笑った。愉快愉快、これはやはり尾形光琳の『風神雷神図』だ!

「よいしょ、よいしょ、」

 宗景は額に汗し、子どものように笑顔を輝かせて二つの絵を見比べられる間に立った。

「ああ、すごい! 二つの『風神雷神』だ!」

 宗景は嬉しくて堪らなかった。一昨年であったかここに抱一の『風神雷神図』を足して三つの『風神雷神図』を並べて見る展覧会があって面白かったが、ここではレプリカとは言えガラス無しで生で見られる。抱一の『風神雷神図』は、まあ、二つに比べるとだいぶ落ちるので、代わりにオリジナル通りに光琳の『風神雷神図』の裏絵として最高傑作『夏秋草図屏風』があるのだから良い。本物のオリジナルは現在保存のため切り離して別々の絵になっている。

 『風神雷神図』は俵屋宗達がオリジナルで、尾形光琳がその写しである。精巧な写しであるが、ただの写しではない。光琳なりにもっと良くしてやろう!と言う工夫が微妙なところに利いている。

 宗景は、ああいいなあ、と浮き浮きした気分で両作を見比べた。

 見比べている内に妙な気がしてきた。両作ともやはり汚れや退色や金箔の剥落もない新品の仕様のレプリカなのだが、レプリカにしてはあまりに良く出来過ぎている。

 どうにも気になった宗景は宗達に向かい、光琳に向かい、忙しくあっちへこっちへ往復して間近で子細に絵を鑑識した。見れば見るほどううむとうなってしまう。宗景は実際に本物をこうして間近に見たこともあるが、その時の記憶とすり合わせても一つ一つの筆使いも色の塗り具合も、まったく本物と同じである。

 はてこれはいったいどういうことだろうと考えたが、はたと実に簡単な結論に達した。

 夢である。

 病院の中にこのようなギャラリーがあるはずもなく、このような素晴らしい出来のレプリカがあるわけもない。

 なんだ夢かと面はゆい思いがしたが、がっかりはしない。

 してみるとこれは自分の記憶と知識を総動員して自分自身で再構成した宗達、光琳、抱一の描かれた当時の真新しいレプリカだ。我が夢ながら実に良くできている。

 自分の夢であるならば誰に遠慮することなくじっくり鑑賞して楽しめばいい。

 宗景は宗達の『風神雷神図』を見、光琳の『風神雷神図』を見、抱一の『夏秋草図屏風』を見、実に満ち足りた気分になった。

 絵はぐるりと四方の壁にも置かれている。

 宗景は夢なんだから普通に歩ければいいのにと歩行具を使って不自由にゴトゴト歩きながら絵を見ていった。

 畳一枚分の飾り台が続き、そこにはまた宗達の『松島図屏風』とそれを模した光琳の『松島図屏風』が並んでいる。

 宗達の水墨画『蓮池水禽図(れんちすいきんず)』がある。

 光琳の『紅白梅図屏風』がある。これは宗景の画風が最も直接的に影響を受けた絵だ。宗景はその美しさに涙が出る思いがした。

 弟乾山の『花籠図』がある。

 渡辺始興の『四季花木図屏風』がある。なんと華麗で美しい色であろう。

 抱一の『十二か月花鳥図』がずらりと揃っている。抱一は現代に至る日本の自然の美の絵画表現を完成させたと言って過言ではあるまい。美しい。

 宗景は感激しながら一堂に会した日本美術の至宝たちを見ていったが、見れば見るほど不思議である。

 これは自分の夢であり、自分の記憶を見ているはずである。しかしどんなに近くで細部を子細に見ても、ぼやけたところがまるでない。さて自分の記憶はこんなに優秀であっただろうか? それに夢とは言え、試しに触れてみれば、それはまったく本物の質感を持っている。更に不思議なのは、例えば宗達、光琳の『松島図屏風』など、本物はアメリカの美術館に所蔵され、宗景は写真でしか見たことはない。にもかかわらずやはりどう見ても「そこにある本物」としか思えないのだ。

 どれをとっても描かれた当時の「新品」であり、現存する本物に共通する時を経た「褪せ」がまったくない。実にきれいで、ビビッドで、ピュアである。

 これが全て自分が頭の中で構成したものであろうか?

 もちろん平成の琳派を自認する宗景はどの絵も皆一生懸命勉強したけれど。

 宗景は感激しながらも首を傾げ、次の部屋へ入っていった。

 そこには見慣れた絵がずらりと飾られていた。森山宗景本人の作である。広ーい部屋に、三十点あまりの宗景の大きな代表作たちが堂々と飾られている。宗景個人にとっても夢の景色である。

 一番奥の壁に最新作である、あの呪われた『黄金の黄昏』が飾られているが、その前に三人の客がいた。

 彼らは宗景の絵を見てしきりと批評し合っているようで、宗景は彼らの会話が気になり、他はさておきまっすぐ彼らに向かってゴトゴト歩いていった。

 彼らは三人とも着物袴を着ていて、頭にはなんと髷を結っていた。

 少年のような憧れを持って近づいていく宗景に、彼らの会話が聞こえてきた。


「なんだかずいぶんごちゃごちゃうるさい絵だねえ。もうちょっとこう、ほうきで掃いちまったらどうだい?」

「そうですなあ、見た風景をあれもこれもと無理に絵の形に当てはめている感じがする。どうも不自然な感じがするねえ」

「南蛮の絵の影響でしょう。あちらはなんでもかんでも描かないでは気が収まらないようですからな」

「これが当世風なんでしょうよ。ちなみに、先生、あんたならどう描くね?」

「そうさね、わたしなら、思い切って上から見て描きましょうかね」

「上というと、火の見櫓にでも登ってですか?」

「ああ、そりゃいいね。よく見える。田圃しか見えなくてそりゃすっきりするよ」

「田圃を描いて面白いですかね?」

「さあて面白いか面白くないか、そいつあ絵師の腕の見せ所じゃあないか?」

「おやこっちの先生もニヤニヤしてやがるな? 先生も田圃の口ですかね?」

「ああ。まっ赤な田圃ってえのも変わっていて面白いじゃないか? おまえさんならどう描くね?」

「わたしはそのまんまですがな。見たまんまですよ。これだけの大きさを描くのは大分骨が折れそうですがね」

「おまえさんは写実だからねえ。さぞや見事な風景ができあがるだろうねえ」

「いやいや両先生とも、どんな絵で驚かせてくれるか、胸が躍りますよ」


 彼らの後ろに迫った宗景は、なんだもう少し誉めてくれてもいいじゃないか、とがっかりした。

 すると、三人は物音に気付いたようにこちらを振り返り、おっといけないと舌を出し、パッとかき消えた。

 宗景は、まあどうせ夢なのだから、驚きもせず一人自分の絵を眺めた。

 三人にさんざん言われたせいか、我ながらつまらない絵に思えて困ったものだ。自分はずいぶん得意になっていたが、どこかのレビューじゃないが、コンピューターで描いたような絵だ。宗景はそれを現代の感覚と思っていたが、今となってみるといかにも幼稚に思える。その現代の感覚も今やすっかり自分から離れてしまったようだ。

 白い部屋が薄暗くなってきて、赤く染まった。夕暮れ時らしい。

 宗景の心のように絵も陰に暗く沈んでいき、

 と思ったら金箔銀箔が目に痛いほど輝いて、宗景は思わず目を細めた。

 再びしっかり目を開けると、宗景は風景の中にいた。目の前に夕日に染まる田圃が広がっている。遠くの空をカアカアと絵に描いたようなカラスの鳴き声が飛んでいき、澄んだ空気の中に草と水と泥の匂いを嗅いだ。


 絵のモデルとした風景の中に宗景は立っている。まさにここに立ち、何枚もスケッチを重ねた。ああ懐かしいなと思う。三年前か。なんだかずいぶん遠い過去に思える。それだけ隔世の経験をバタバタと過ごしてしまった。

 まだ絵の構想も固まらず、ただひたすら心の動くまま様々なスタイルでスケッチした。これだ!と思えるスタイルを探り当てたときの胸の高揚ときたら、絵を描く上であの瞬間が最も楽しい時だろう。後はひたすら画布と絵の具との格闘が続くのだ。これだ!と思ったときのピュアな思いをどれだけ新鮮に揺るぎなく持ち続けることが出来るか。迷いと苦悩は常につきまとう。時にそのアイデアが実につまらないものに思えるときもある。そんなときはスケッチの束をめくり、この風景に立ち返る。自分はこの風景の、自然の、何に感動したのか、それを思い出す。そうしてその感動と喜びが甦ってきたならば、再び絵との格闘に戻れる。

 絵を描き上げたとき、実は完成の喜びはそれほどない。終わった、とほっとする気持ちが大きい。完成の喜びを感じるのは時間が経ち、思い通りの絵が描けたことを客観的に確認できてからだ。

 最初から間違っていたのかなあ……、と宗景は再び立った風景の中で思う。

 雲に重層的に映える茜色と、背後から徐々に差す夜の暗さが空に、遠くの山影に、田圃に、足元の用水路に、紫や群青色に不思議に混じり合い、美しい。

 例えばこの美しい景色を、写真に撮り、絵の大きさに引き伸ばしてプリントしたら、どうだろう?

 うん……、その方がその巨大な写真の前に立った人はこの自然の美を素直に感じて感動するかも知れない………。

 自分は何が描きたかったのだろう?と再び自問する。

 この風景に見られる自然の、内包する美の本質を取り出して、絵に表現したかったのだと思う。

 本質を、美そのものとして描きたかったのだと思う。

 しかし、宗景本人が見てもあの絵には宗景が捉えたと思い上がっていた美はまるで感じられない。ゴテゴテとした人工的な装飾があるばかりだ。

 壁紙とは、まさに言い得て妙である。

 これほどの心境の変化はいったいなんだろう? 

 最初から全部勘違いしていただけなのだろうか?

「分からない………」

 悲しい傷ついた心でしゃがみ込みたくなった宗景は、自分の不自由な体を思い出す。ああ、夢の中でまでこれほど俺を苛めなくたっていいじゃないかと泣きたくなる。

 暗くなった用水路にオタマジャクシの群れが右に、左に、揃って向きを変えながら泳いでいる。

 大きなオタマジャクシだ、牛ガエルにでもなるのかな?と見ていると、泳ぎ回る背に白い円がどのオタマジャクシにも付いている。そういう模様の種類なのかなと思っていると、その円は立体的になってきて、縁の肌をえぐって、内包される白い球になった。なんだか気持ち悪いなと思っていると、オタマジャクシたちに足が生え、ぐんぐん伸びて、手が生え、しっぽが短くなって胴が膨らんできた。暗い黄緑色に黒い模様が浮き上がってきて、顔を水上に出すと大きな口を開き、

「ブオー」

 と鳴いた。

 宗景はひっと腰が引けた。

 水上に顔を出した大ガエルには目がなく、代わりに頭の上にある大きな白いガラス球に、黒い点が開き、グリッと動いて宗景を見上げた。

「ブオー」

「ブオー」

「ブオー」

 一つ目牛ガエルたちはびっくりするような大きな声で鳴きながら、宗景の足元に寄ってきて、ピョンとジャンプして斜面に取り付いた。次から次に水からジャンプして上がってくる。

「うわ、嫌だ」

 宗景は別にカエルが嫌いではないが、こんな大きな気味の悪い奴らに寄ってこられては堪らない。後ずさり、道を左右どちらかに逃げようとするが、

 ペタン、ペタン、

 右からも左からも湿った弾む足音が聞こえてきて、

「ブオー」

「ブオー」

「ブオー」

「ブオー」

 右からも左からも牛の鳴き声の合唱が押し寄せてきた。

「い、ひい〜〜〜」

 宗景は鳥肌立てて、逃げ道を捜した。

 後ろの田圃を見れば、

 ベタン、

 と、振り向きざま顔に湿った重たい腹が飛びついてきて、

「うぎゃあああーーーっ」

 宗景は顔からカエルを叩き落とし、

「ひいい〜〜」

 あっちへ行け!と必死に左手を振り回した。左手の支えを失って宗景は胸を歩行具に乗り上げてバランスを取った。

 ドンッ、ドンッ、とカエルどもが柔らかく重たい腹で宗景の体に脚に飛びついてくる。

「ひゃあっ、うぎゃああっ」

 その気持ち悪さに宗景は必死に手を振り立て、カエルたちを振り落とそうとするが、カエルは裸の脚に潜り込んできて、首筋にベタンと乗り、胸に潜り込み、頭に乗って、腹を震わし大きな声で


「ブオー」


 と鳴き、

「う、う、う〜〜〜〜〜ん………」

 宗景は失神しかけ、バランスを崩すと歩行具から転がり落ち、ドッボーン、と水を張った田圃に落下した。

 冷たさに心臓をぎゅうと締め上げられ、

「うわっ、はあっ、はっ、」

 宗景は息が止まりそうになって必死にバタバタ喘いだ。

 日が沈み、辺りは真っ暗になっていく。

 暗い景色の中、

「ブオー」

「ブオー」

「ブオー」

 背中の一つ目を白く光らせながら牛ガエルたちが泳ぎ、バチャンと跳ねながら、宗景に迫ってきた。

 宗景は重い泥に脚と体を巻かれながら、手でバチャバチャ暴れ回り、迫ってくるカエルたちに怯えながら、

「た、た、た、

 助けてくれええーーーーーっ!!!」

 必死に悲鳴を上げた。

 バチャン、

 牛ガエルが顔に飛びついてくる。

「ひいい〜〜〜〜」

 おぞましさに宗景は悲鳴を上げる。

 バチャン、バチャン、バチャン。

「うわあっ! やめろおおおっ!!」

 次々顔に飛び乗ってくるカエルどもをひっ掴んで放り投げた。しかしカエルどもは次から次に、宗景を泥に埋め込もうと、飛びついてくる。「ブオオーー」と耳元でものすごい声で鳴く。

「ひい……、うむむむむ………」

 顔面カエルの腹まみれになり、泥を飲み込んだ宗景は、俺はこんな馬鹿な死に方をするのか、と悲しくなった。

 ああ、真っ暗で、カエルの鳴き声しかしない。

 宗景が惨めな人生の終わりを思ったとき、

 夜の空の雲間から、眩しい銀色の光が射し、輝く満月が顔を出した。

「…………………」

 宗景は神にすがる思いで月に手を伸ばした。

 と、さーーっと辺り一面を照らし出した満月は、白銀の面をくるりと反転させ、黒い瞳を開いた。

 ギョロリと宗景を睨んだ天の目は、宗景と辺りの景色をまっ赤に染めた。



「うぎゃああああああ〜〜〜〜〜〜〜っっっ」



 バタバタバタと暴れる宗景は、

「森山さん、森山さん!、しっかりしてください!」

 肩を揺すぶられて、

「えっ、え? ええっ??」

 目を覚ました。

「森山さん。大丈夫ですか? 居眠りして、悪い夢を見ていたようですね?」

 男性看護士が心配そうな顔にほっとした笑いを浮かべ、宗景を覗き込んでいた。

「あっ、ああーー………、夢か………………」

 宗景はすっかりほうけたように言って、視線を動かし、はあーと息を吐いた。他にも看護士たちがいて心配そうに様子を窺い、廊下のあちこちで患者たちも何事かと不安そうに見ていた。

 宗景は、自分の取り乱した様子にひどく恥ずかしくなった。

 看護士が優しく言った。

「ひどい汗ですね。まるで走ってきたみたいですよ? 部屋に帰って着替えましょう。あの、手、」

「え? 手?……」

 気が付くと宗景は両手で看護士の胸ぐらをぎゅうっと握りしめているのだった。

 看護士は苦笑して言った。

「すごい力ですね。痛いですよ?」

「あ、ああ…、すまん……」

 宗景が力を抜くと、手はすんなり開いて看護士の服を放した。宗景は不思議な顔で手を見つめ、閉じたり開いたりした。

「手が、動くぞ?…」

「ええ」

 看護士はにっこり笑った。

「リハビリの効果が出てきたみたいですね。あまり軽々しくも言えませんが、この調子なら絵も描けるようになるんじゃないですか?」

「絵。俺が、絵を描けるようになる……」

「ええ。森山さん、ずいぶん頑張ってますものねえ。やはり絵を描きたいという執念ですか?」

 ニコニコする看護士に、

「………………………」

 宗景は手を握りしめて、顔をしわくちゃにして、声もなく泣いた。般若の面のような顔になりながら、宗景はぼろぼろ涙をこぼした。

「森山さん?」

「…………………

 うおおおおおおーーーーん………」

 一度声が上がると、宗景はため込んだ感情が抑えられず、いつまでもいつまでもおんおんと泣き続けた。

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