第7話 過去の大画家
画家森山宗景倒れる!
のニュースは、名前の大きさに比してそれほどの反響はなかった。
ああ、そうなんだ、もうお年だものねえ、
と、まだ六十三歳の若さにも関わらずすっかり過去の人を見るような感想を世間は持った。
それにはやはりニューヨークの展覧会での大不評と、才能ある若い芸術家を死に追いやったというダーティーなイメージの悪影響が強かっただろう。
さっそく、
森山の名を世に広めるきっかけとなった若い頃の代表作の一つと言って絵がオークションに出された。メジャーコンクールの大賞を取った絵だ。当時はまだ無名であったので個人に買われ、その後名が上がるのに連れ幻の傑作として再び世に出るのを渇望されていた絵だ。
ファン垂涎の幻の作品にさぞ高い値が付くと思いきや、オークション会場ではその傑作を目の前にしても、誰一人スタートの値に手を上げる者はなく、そのままオークションを流れてしまった。
たまたま偶然か因縁か、砂川夕陽のこれまた初期作品がオークションに登場したが、こちらは二十万円からのスタートが、予想をはるかに上回るなんと二千五百万円で競り落とされ、業界を驚かせた。競り落としたのは海外からの注文、おそらくは中国からの代理業者と思われる。
この二者の結果が時の流れを如実に表し、上り調子で勢いのある者と、流行が終わってすっかり誰の心も捉えられなくなった者との差だろう。
森山の絵は翌週のオークションにも登場して売れず、そのまた翌週、値を下げてようやく売れた。最初の値のわずか四分の一の値段だった。
これを皮切りに砂川、森山の絵は活発に取り引きされるようになった。
砂川の絵は軒並みものすごい値を付けて売れていった。オリジナル砂川夕陽の作品はもう全てで揃っているから、海外に全て持って行かれるのを恐れた日本のファンたちも共同基金を作って海外バイヤーに対抗して作品の確保に頑張った。
新生砂川夕陽である砂川美羽の新作も高い値が付いた。
砂川美羽の正式な第一作目のモチーフは意表を突く「時計」であった。アンティークな時計の内部のメカニズムが万物自然と人間の営みの組み合わせで構築され、これまでの砂川夕陽にはないユニークな試みであり、その完成度は非常に高く評価され、砂川美羽の才能が本物である証明となった。
美羽は訪問介護の職を辞め、プロとして画業に専念することを公表した。近い将来海外に活動拠点を移すことも検討しているという。
一方森山は、
その作品は見るも無惨にたたき売りの状態だった。
個人所有の作品がばんばんオークションに出展され、やはり二度三度に渡って値を下げ続け、ほとんど二束三文で買いたたかれる状態だった。森山の絵は有名になってからは大きな物ばかりだったから、そんな物を買っても置き場に困る。無用の長物と言うと意味は違うが、ともかく非常に不人気で、厄介者だった。
美術館所有の作品まで「才能ある若手芸術家の作品を多く購入するため」との理由で放出されたが、果たしてその思惑通りの金額を得ることが出来るか、大いに疑問である。
画家森山宗景の名は地に落ちたと言っていい。
そして生身の森山宗景は。
宗景はリハビリに努めていた。
自分の体がどうしてここまで思い通りに動かせないのか? やればやるほど宗景は惨めな心持ちになっていった。リハビリの療法士は焦りは禁物です、ほんの少しの前進を喜びながら気楽に気長に頑張りましょう、と励ましたが、画家である宗景の目指すゴールはフルマラソンを百度も走らねばならぬほどはるか先の高みにあるのだった。
その宗景の心根をくじくように、
一番弟子とも言うべき中堅の画家が見舞いに来た。
彼は親切にも宗景の絵が活発に取り引きされていることを報告し、口では励ましながら、若手の台頭を皮肉に持ち上げ、己の心情を言った。
「先生。我々は現代アートの世界に住んでいるのですよ。現代の芸術は、いかに新鮮なプレゼンテーションをし、大衆の好む『新しい』価値観を提示できるかに掛かっています。それは表面的には斬新でも、その実大衆の安心できる流れの中の予想範囲の新しさでなくてはならないのです。実は、新しさは既に大衆の中に用意されていたのですよ。これまでは、先生、森山宗景がその本流の中心にあって流れを引っぱっていたが、
先生、潮目が変わりましたな。
どうやら大衆は新しい流れに乗り換えたようです。その前兆は、とっくに大衆側から提示されていたのですよ。我々が気づけなかっただけでね。
大衆の好みは毎年のファッションの流行のようにコロコロ変わる。しかしそれとて同じ流れの中でクルクル車輪を回しているようなものです。しかし、
先生、我々はどうやらその流れから外れてしまったようですね。流れを失った我々は大海に散って有象無象となり果て、自らは当てもなくうろうろ泳ぎ回るだけで、偶然漁師の網にすくってもらうのをじっと待つしかないのですよ」
弟子の饒舌を、宗景はむっつり批評した。
「おまえの話はつまらん。さっぱり分からんわい」
弟子は嫌な笑いを浮かべて肩をすくめた。
「じゃあわたしはこれで。我々ももう一花咲かせたいものですな」
弟子は部屋を出ようとして、小タンスに裏返しで立てかけられた額を取り上げ、
「おお、これは噂の砂川夕陽の絵ではないですか!」
と腕を伸ばして感心して眺め、
「これは高いですよ?」
と叱られるのを分かっていて笑い、小タンスの上に表を向けて置いた。
「それでは先生、お元気で」
パタンとドアが閉められ、宗景は
「なあにがもう一花咲かせたいだよ?」
とむっつり言い、
『俺の描いているのはそんな流行に流される陳腐なものではないわ』
と心の中で反論した。
真の芸術とは芸術家本人がどうであろうとその存在を越えて長く世にあり、人々の心に訴え続けるものだ。
宗景はむっつり不機嫌に考える。
おまえがそうだと言いたいか?『雨雲の中の太陽』?
宗景は赤く濡れた目と睨み合う。
俺がこんな有様になって思うつぼか? 復讐は大成功か?
分かっているぞ、おまえの復讐は始まったばかりなのだろう? 俺をおまえを描いた砂川夕陽の境遇に突き落とし、そこで苦しみのたうち回る様を見物する気だろうが?
ああ、いいさ、おまえのその計画に乗ってやろうじゃないか?
見てろよ、森山宗景の底力を、舐めんじゃねえぞ!
宗景はスケッチブックとコンテを買ってきてもらい、見舞いの花瓶の花をデッサンした。
目を剥き、顎をひねり、脂汗を噴き出させながら腕を突っ張らせてゆっくりゆっくり線を引いていったが、ハアと息をついた拍子にポロリと手からコンテを取り落としてしまった。
仕方なくそこまで引いた線を眺めた宗景は、泣きそうになってスケッチブックを閉じた。
何故俺がこれほどひどい目に遭わねばならぬ?
砂川の絵の目玉を恨めしく睨み、衝動的に左手でスケッチブックを投げつけた。スケッチブックはまったく別の場所に飛んでいって、絵は平気な顔でいた。
宗景は打ちのめされ、打ちひしがれた。
宗景はリハビリルームに車椅子で連れていかれ、手足の曲げ伸ばしや物を握ったりというリハビリの基本的なエクササイズを受ける。退屈きわまりない運動だが、それさえ自分の体のままならなさに焦りと怒りと惨めさをたっぷり味わわねばならぬ。時間はとてつもなく長く感じる。
車椅子で送り迎えされる宗景は、療法士から机で作業している他のリハビリ仲間を紹介された。枯れた爺さん婆さん連中だ。
彼らは絵の具で絵手紙を描いていて、宗景に笑顔を向けて
「あなたも絵が描けるくらいになるといいですねえ? わたしも辛かったが、こうしてずいぶん回復しましたよ」
と、励ますつもりで下手くそな絵を見せて自慢した。
宗景はむっつりと、つまらん絵だ、と思った。
絵を自慢した老人は宗景の無愛想な顔に仕方なく苦笑いし、楽しそうに次の絵に取りかかった。
宗景はますます惨めになった。頑張ってリハビリに励んで、ようやくたどり着けるのがこの程度か?
俺の絵は、俺の芸術は、こんな小さな紙切れに収まる物じゃあないんだぞ!
宗景は、絵手紙の老人から見れば、ずいぶん偏屈な頑固爺であっただろう。
この頃の宗景が、一番心が荒れていた。
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