第6話 彼女の復讐
森山宗景は救急車で病院に運ばれ緊急手術を受けた。
手術は成功し、宗景は一命を取り留めた。後数分処置が遅ければ危ないところだった。
さて、何故夜中一人暮らしの宗景の下へ救急車が駆けつけたかというと、
手術から三日後、意識を取り戻した宗景は白い死に神を見た。
紅倉美姫だった。
「こんにちは、森山さん。御気分は、よろしくないでしょうねえ?」
おほほほほ、と紅倉は手の甲を口に当てて笑った。
「せんせえ」
と弟子の芙蓉に叱られて紅倉はコホンと咳払いをして改まった。
「催促に行ったんですよ? いつまで待っても絵が届かないから」
宗景は無言でじいっと紅倉を見ていた。明らかにおかしい目つきなのだが、こちらもろくに目の見えない紅倉は気付かない。
「そうしたら灯りがついているのにいくら呼び鈴を押しても出てこないから、腹を立てて窓ガラスを叩き割りました」
紅倉の斜め後ろに控える芙蓉はよくもまあ白々しくと呆れている。窓ガラスを割らされたのは芙蓉である。五分もすると警備会社の警備員が駆けつけ、中を調べたら宗景が倒れていたのである。脳溢血だった。
宗景は無言で紅倉を見つめ続けている。宗景の様子にまるで気付かない紅倉はおしゃべりを続ける。
「楽しみにしていたんですよ?絵。ひどいですねえ、約束を違えるなんて、人間として最低です。まあ、画廊の方に訊きましたら、画家本人が売ってくださらないのですってねえ? まあ、ケチ。でもなんですか、彼女の方はあちらでずいぶん人気者になっていらっしゃるようで、ねえ? 羨ましいことですわねえ?」
紅倉はまたおほほと笑って、芙蓉に怒られる前に笑うのをやめた。
「ま、と言うわけですので窓ガラス代はそちらで持ってくださいね? わたし無駄なお金を払うのは嫌ですので。残念ながら絵は諦めますから、いいですよね?」
紅倉は丸椅子から立ち上がり、
「それでは、彼女によろしく」
と、芙蓉に手を引かれてドアに向かった。
紅倉が移動すると、宗景は目を剥いて、
「うう、ああ、うああ、」
と何事かうめいた。
紅倉はしかめっ面で振り返り、
「ええ? なんですかあ? 分かりませんよ?」
と言い、無慈悲に宗景の訴えを無視して、ドアを出た。
廊下を歩きながら芙蓉は訊いた。
「先生。いいんですか?あの影、放っておいて?」
紅倉はどうでもいいように言った。
「ああ、放っておきなさい。あれに森山を殺す気はないから」
「はあ、そうですか」
芙蓉は、あーあ、気の毒に、とさして同情もせずに思った。
宗景は
「うう、ああ、うああ、」
と不明瞭な声で訴えた。紅倉が立った後に、後ろに、黒い影が立っていたのだ。
しかしそれがなんなのか、今の宗景には分からない。ただ、良くない物だ、自分に憎しみを抱く物だと、本能的に感じ、怯えて、……訴えているだけだ。
「うう、ああ、うああ」
「はいはい、大丈夫ですよ。手術は成功しました。もう大丈夫ですから、安心してください」
女の看護士はわめく老患者を大人しくさせて肩を押さえて言った。
「今先生がいらっしゃって詳しい病状を説明いたしますからね」
宗景がドアの方を見てううああわめいていると白衣のドクターがやってきた。看護士と交代して目の様子を見て、取りあえず説明する。
「森山宗景さん。森山さん。ご自分が誰か分かりますか?」
うう、ああ、と宗景の目が泳ぐ。ドクターは頷き、患者を落ち着かせるようにゆっくり説明する。
「あなたは脳溢血を起こして倒れました。幸い発見が早く、迅速な処置を行うことが出来ましたので命を取り留めることが出来ました。もう大丈夫です、安心してください。ただ……
今、言葉が不自由ですね? 致し方ないです、時間が経てば徐々に回復してくると思います。ただ、残念ながら麻痺が残る可能性があります。左の脳をやられましたので、右半身に後遺症の残る恐れがあります。それもリハビリで快復の可能性がありますので、今は落ち着いて、ゆっくり体力を回復させるようにしてください」
ドクターは、まあ分かっていないだろうなと思いつつ、医者の義務として患者に安心感を与えるよう微笑んだ。
「それじゃあ、頼むよ」
と看護士に後を頼み、病室を出ていった。
宗景は相変わらずドアの方の壁を見てううああわめいている。
「大丈夫よお、お爺ちゃん、怖い事なんて何もありませんからねえ?」
看護士は優しく宗景の肩を押さえつけ、宗景はハッと黙り、じいっと壁を見つめた。
看護士は宗景の見ている壁を見たが、首を傾げて肩をすくめた。何か見えるのだろうなと思ったが、それは脳を損傷した「影」だろうと想像した。
宗景は黙り込み、怯えたように、じいっと壁を見つめ続けた。
二週間もすると宗景の言葉は徐々に戻ってきた。
言葉が戻ってくると同時に思考も戻ってきて、そうすると不思議と自分をじっと見ていたもやもやした黒い影は見えなくなった。
医者が改めて病状を説明し、右半身に麻痺が残るかも知れないと聞かされて宗景は衝撃を受けた。
くっそお、これがおまえの復讐かっ!、といきり立った。
医者は
「落ち着いて。怒ってはいけません。弱った血管がまた破裂する危険があります。あなたの脳溢血の原因は高血圧と糖尿病です。これから食事療法も受けてもらいます。お酒は、厳禁です」
「うう…」
と宗景はうめいた。これは心が上げた悲鳴である。
「入院は一応三ヶ月を見ています。その後様子を見て、通院で、リハビリを続けてもらいます」
「せんせい」
宗景はまだ麻痺の残る口で入れ歯を外した老人のような輪郭のぼやけた口調で言った。
「手は、動くようになるだろうか? 絵は、かけるようになるだろうか?」
医者は痛ましそうに宗景を見て言った。
「それはあなたの頑張り次第、としか申し上げられません。リハビリを頑張れば、必ず良くはなります。ただ、どこまで回復するかは、お約束は出来ません。全てはあなた次第です」
宗景は、
「どうせ……」
と、後は口の中でごにょごにょ言った。
宗景の快復を聞いて数多くの弟子たちや画廊の人間や新聞美術雑誌の人間たちが続々と見舞いに駆けつけ、医者から面会制限を受けた。
宗景は誰にも会いたくなどなかった。こんなみっともない姿を人に晒すなど真っ平だった。だが慕われれば、親分肌で気のいい宗景は見舞いを断ることもできなかった。医者の面会制限はありがたい。後は世話役の弟子たちに任せて、宗景はベッドの中で無為な疲労感にひたすらぐったりした。
突然怒りがこみ上げてくる。
ちくしょう、あの女、いけ図々しく命の恩人を気取りやがって!
分かったぞ、おまえは最初からあの女とグルだったのだ!
最初っからこうして俺を苦しめるつもりだったのだ!
ええい、殺せ! 殺しやがれ!
なんで、
なんで助けたりした!?
なんで、あのまま死なせてくれなかった?
この俺に、
こうして生き地獄を生きろと言うのか?……………
カアッとした宗景は、医者の忠告を思い出して怒りを抑えるよう努力する。やはり、死にたくはない。もうあんな苦しい思いはこりごりだ。
左手を胸の上に持ってくる。だるいが、ちゃんと動く。
右手を上げようとして、動かない。力が入らないも何も、ちゃんと目に見ている肉体が、まるで感じぬ。見ているそれが幻のようだ。
これで、こんなので、少しでも動くようになるのだろうか?
宗景は暗澹たる未来を思って悲しくなった。
ああ、俺が悪かった。頼むから、許してくれよ……………
砂川夕陽が来た。
いや、今は砂川美羽だ。その名でこれからも絵を描いていくという。
「先生。大丈夫ですか? とにかく命が助かってほっといたしました」
「ああ。どうもね。ありがとう」
宗景は憮然と言った。顔の麻痺はだいぶ取れて言葉もはっきりしてきた。徐々にリハビリの準備をして、右手も痛覚は感じるようになった。
砂川はほっとしたように微笑んだ。白々しいと宗景は思う。
砂川はあちらで買ってきたのかおしゃれでアートな感じのジャケットに緑のベレー帽を被っていた。
宗景は砂川が抱える薄くて大きな箱状の風呂敷包みを気にしながら訊いた。
「お兄さんがいたのだね? お兄さんが、砂川夕陽だったのだね?」
砂川の妹はこっくり頷いた。
宗景は泣きそうな顔で言った。
「君も、さぞかし俺を恨んでいるだろうねえ?…」
砂川美羽は驚いた顔をして、さすがに白々しいかと静かな顔になると、首を振った。
「いいえ。わたしは別に先生を恨んでなんかいませんよ」
「やめてくれ」
宗景は左手を怠惰に振って言った。
「兄を殺されて恨んでないわけないだろう? 君は、俺に復讐するために近づいてきたのだろう?」
美羽は静かに首を振った。
「それは誤解です。………そうですね、正直最初は恨みましたよ。おっしゃるとおりです、兄を殺されたんですから。でも………
正直に言いますと、わたしは兄が死んでくれてほっとした気持ちもあるんです」
宗景は驚いてぎょっと目を剥いた。
「君、そんなことを言うものじゃない。それは、本心ではなかろう?」
美羽は首を振った。
「いいえ。もちろん兄が死んで良かったなんて思っていません。悲しいです。けれど、
これで解放された、と言う気持ちも、正直あるんです。
わたしは子どもの頃からずうっと、兄の面倒を見させられてきましたから……」
「うむ、それはそうなんだろうねえ。けれど……」
「兄は自分で死んだんです」
思いがけず強い語気に宗景はビクッと背中を震わせた。美羽は静かな口調に戻って話す。
「兄の苦しみはずっと分かっていました。兄は病気に負けまい、苦しみに負けまいと頑張っていましたが、その先に、さらなる苦しみがずうっと続いているのは分かっていました。乗り越えても乗り越えても、苦しみの壁はどんどん高くなる一方なんです。兄が、弱音を吐いて、もういいよと諦めても、いったい、誰に、それが責められます? 頑張れなんて、生き続けろ、生きていればいいこともあるよ、なんて、そんなのは健康な普通の人間に言えることです。兄に拷問に等しい人生を生き続けろなんて、そんなこと、誰に言えます?」
美羽の静かな口調は、その内容の重さすさまじさで宗景に鬼気迫る物を感じさせた。美羽は言う。
「わたしたち家族は兄を愛していました。少しでも兄に幸せを感じさせてあげたいと願っていました。ですから兄が絵を描くことをずっと応援してきました。その絵が人に感動を与え喜んでもらえていることを、わたしたちは兄と一緒に我が事のように喜びました」
宗景は胸を鋭く突かれた。
「やはり……、恨んでいるのじゃないか………」
美羽はふっと疲れたようにたそがれた笑みを漏らした。
「やっぱり恨んでいるでしょうかしらねえ?……
でも、それは兄の言い訳だったと思います。
兄は先生の絵を、こんな絵を描ける人は羨ましいなと言ってました」
宗景はまたも胸を突かれた。
「兄にはああいう絵は決して描けません。それは自分の人生に対する諦めの気持ちといっしょだったでしょう。
先生は兄とはまるで別の人間なんです。
ですからその先生に自分の絵をなんと言われようと、全然、まるっきり、なんとも思わないはずなんです」
と、ここは美羽もいささか恨みを込めて言った。
「ですが、理屈でそう思っても、弱った心にはやはりかなり応えたと思います。
兄の心はもう限界だったんです。先生の批判で、ああ、もう頑張らなくていいんだ、と、そう自分を解放する気持ちになったのでしょう」
言いたいことを言ったようで、無言を続ける美羽に、宗景はいたたまれない気持ちで言った。
「だが、だが、
そんな最期でなくたっていいじゃないか?
頑張れなくなったら頑張らなければいい、
病気に負けるなら負けるがいい、
だが、だが、
自ら命を絶つなど、
そんな悲しい最期を、
選ばなくたっていいじゃないか?」
美羽はふっと諦めきった笑みを浮かべた。
「いいんですよ、もう。兄の苦しみは、もう、終わったんですから」
「いや、良くない、良くないよ」
宗景の方が諦めきれずに言った。
「そんな終わり方じゃお兄さんの魂はきっと救われない」
美羽は何を言っているのだろう?と言うようにじっと宗景の顔を見つめ、まるであざ笑うように言った。
「魂ですか。あったらいいですね。でも、
わたしそういう自己満足は嫌いです」
「自己満足……かね?」
「そうです」
美羽は頷いて言う。
「生前何もしてやれなかった者に魂を慰めるなんて、そんなの、生き残った者たちの単なる自己満足です。死んでしまった者に、いったい今さらなんだって言うんです?
人にあるのは心です。
魂なんか、ありません」
宗景は美羽の意外に頑固な顔を見てううむとうなった。
「砂川君、美羽君、それは違うのだよ。人に魂はあるのだよ。人どころか、絵にも魂は宿っているのだよ」
美羽は目を丸くして、フフッとおかしそうな笑いを浮かべて首を振った。
「そんな物はありませんよ。
魂なんて物があるなら、不自由な体に縛り付けられて苦しみ続けた兄の人生はなんだったって言うんです?
兄ばかりじゃありません、ヘルパーの仕事をしていてここの」
と自分の頭を指さし。
「故障してしまった人たちを多く見てきました。それは肉体です。心は肉体から発動するんです。魂なんて言うあやふやな物じゃありません」
美羽は何を思ってかズカズカ近づいてきて、
「いいですか」
怖い顔で宗景の頭に指を突きつけ、
「心はここにあるんです。ここです、分かりますか?」
宗景は美羽の顔に恐怖した。
「ここが壊れたら、心もなくなってしまうんです。分かりますか? 死んだ兄の心はもう、どこにも残ってなんかいないんですよお」
美羽は宗景の頭から指を離し、二歩三歩下がった。
美羽は笑いながら言った。
「ですからわたし、別に先生をお恨みしてなんかいません。わたしをご指導くださる大切な先生ですものねえ。早く良くなっていただかなくては」
そうして宗景がずっと気にしていた箱状の包みを胸に掲げて悪戯っぽい目で宗景を見つめて言った。
「わたしも兄も恨んでないという証拠に、入院生活の慰みにプレゼントをお持ちしたんですよ?」
そうして風呂敷包みを解き、中身を取りだした。
宗景は、恐怖した。
「この絵をご所望でしたよね? 差し上げます。兄の心のこもった絵ですからね、大切にしてくださいよ?
砂川夕陽の正体を明かしましたのでね、改めてきちんとした形で、竹林さんの画廊でまとめて扱っていただくことにしました。ちょうどよく広いスペースが空きましたのでね。
絵が売れましたら両親にものんびり温泉旅行でも楽しんでもらおうと思います。兄の魂も、きっと喜んでくれるでしょう」
美羽はニコニコ笑い、さあてこの絵をどこに飾ろうかしら?と見回して、ドアのとなりにある小タンスの上に額を置いた。
「それでは先生、失礼します。
早く、よくなってくださいましね?」
美羽はドアのところで笑顔でお辞儀し、ちらっと絵を見て、また笑い、失礼しますと出ていった。
宗景は待ってくれと目で追いながら、絵に視線を引き寄せられ、ブルッと震え上がった。
『雨雲の中の太陽』だ。
幾重にも複雑に重なった黒い雲の中に、まるで赤く濡れた目玉のように太陽が覗いている。
宗景は身をのけ反らせ、うう、ああ、とうめいた。こめかみに浮き上がった赤い血管がドクドクと脈打つ。
ううと絵の赤い視線から逃れようとして、逃れられないと、宗景は意を決してベッドから起き上がろうとした。
左半身を起こして手を伸ばし、なんとか両足を下に下ろしてまっ赤に汗を流して立とうとすると、重い右半身に引っぱられてドスンと床に倒れた。
惨めに倒れた宗景を絵が見下ろしている。
宗景は必死にごろごろ転がってタンスの前に行き、左腕を伸ばしてなんとか絵を引き下ろそうとした。ハアッハアッと息をつき、手を伸ばすと、ガタンと音がして四角い影が頭の上に振ってきた。わあと宗景は顔を背けて守り、目を開くと、赤い目玉が間近に自分を見ていた。
宗景の目には、赤い目玉が瞳孔を開いて自分を見ているのがはっきり見えた。
ひゃあと悲鳴を上げる。
過去の視界がフラッシュバックする。
視界の隅にもやもやうごめいていた黒い影、
脳溢血にやられて言葉も思考もままならぬ宗景をドアの前でじっと見ていた、人のように立った黒い影。
その顔の辺りに、この赤い一つ目が開いて、じっと宗景を見つめていた。
睨んでいた。
宗景は、
「うわああっ、ぎゃあああっ」
と悲鳴を上げた。近くのナースセンターから悲鳴を聞きつけて看護士が飛んできた。
「森山さん! どうなさったんです?」
女の看護士に抱き起こされながら、
「そそそ、え、え、その、え、絵を、片づけてくれ、うう、裏返して、俺を見させないでくれ!」
看護士は顔をしかめ、ともかく患者の言うように絵を裏返しにしてタンスに立てかけた。
「これでいいですか?」
宗景はうんうんと頷いた。
「それでいい。ああ、いいよ……」
そうして看護士に脇を取られてよいしょとベッドの上に持ち上げられ、タオルケットの掛け布団をきれいにかけ直してもらった。
看護士は無理をしてはいけません、何かして欲しいことがあるときはナースコールを押して、と注意したが、宗景はべっとり汗をかいた顔に不健康な笑みを浮かべ、
「ああ、それでいい、それでいい……」
と、疲れた目を閉じ、スースー、ガーガーといびきをかいて眠ってしまった。
その眠りが安らかなものであればよいのだが。
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