第2話 嫌な影

 日本画の大家森山宗景が紅倉の家を訪れた。

 大家は自分の自宅よりはるかに広壮な庭屋敷に驚き、相対した小娘……芙蓉美貴にいささかむっとした表情を見せた。

 和風ホテルのロビーのような応接間で茶を出され、やがて主の紅倉美姫が芙蓉に手を取られて現れた。紅倉はひどく目が悪く、自分の家でも自由に歩けない。……学習能力がないからだ。

 宗景に向かい合って座った紅倉はぼうっとした目で宗景の顔を突き抜けて見て、言った。

「なんの用なんでしょう?」

 ツンとすまして控える芙蓉は、ああ、先生はこの人がお嫌いだな、と思った。

 大家はずっと不機嫌な顔をしていたが、それはどうやら豪華すぎる屋敷や無愛想な小娘や自分に会ってもミーハーに喜びもしない非文化的な外国人ハーフの美人に対してばかりでもないようだ。

 宗景の疲れたような顔に目を瞬かせて、紅倉は『くすっ』とちょっと機嫌が良くなった。ようやくまともに視線を合わせて言った。

「ずいぶんまいっておられるようですねえ?」

「あなたはそういうのが見える方だと窺って参ったのですが?」

「まあ、見えますよ」

 紅倉の自信満々の含み笑いを見て、宗景は苦い顔をしながら、自分の悩みを申告した。

「最近嫌なことが続いてね。わたし自身体の調子がおかしかったり、身内が車で事故を起こしたり、経理上の問題を指摘されたり、な。おまけに、気のせいだと思っていたんだが…、目の端に、何か影のような物がちょくちょく見えてね。これはどうやらその、何かに祟られているようだと……。たまたま占いの先生に会うことがあって、その人に非常に悪い卦が出ていると言われてね、誰か信用できる、力のある人に視てもらった方がよいと、さる方にあなたを紹介されてね、こうして相談に参ったわけです」

「なるほど。それで、祟られるような心当たりはあるんですか?」

「成功した人間なら誰でも妬みやそねみを受けるものだろう。だが俺は自分が成功するために誰かを足蹴にするような真似はしていない。そうした陰気なことをする奴は大嫌いだ」

「心当たりはない、と」

「ああ。ないね」

 と言いながら宗景は居心地の悪そうな顔をした。

 紅倉の目の色が変わった。赤く。宗景は思わず顔をしかめた。

「暗い絵、にお心当たりは?」

「暗い絵……」

 と復唱しながら、その実宗景は図星を指されて面白くない顔をした。

「どうやら心当たりがあるようですね?」

「分かった分かった」

 宗景は手を振って降参した。

「そうだろうな、と思っていたよ。やはり、そうなのかね?」

 宗景の心当たりとは自分の絵を展示した画廊に掛けられていたあの若手画家の絵である。紅倉は意地の悪い笑みを浮かべて言った。

「あなたその絵をずいぶんひどく言ったでしょう? すっかり怒らせてしまったようですね?」

「ああ、そうかい? まったく、だからあんな絵を描くような奴は嫌いなんだ。根暗にうじうじと人を恨みやがって。そいつが俺を祟っているんだな?」

「いえ。あなたを怒って祟っているのは、絵です」

「絵が?」

 宗景は顔をしかめて紅倉を見つめた。

「そうですよ。画家が魂込めて描いた絵ですもの、絵は生き物、と言うのは画家のあなたなら頷いていただけると思いますが?」

「まあ……な…」

「絵が生きていれば、自分をひどく悪く言った人間に悪い感情を持つのも当然でしょう? 人間の女性に『おまえはブスだから生きている価値がない』なーんて言ったら、そりゃあもう、ひどく恨まれるでしょう?」

「女性にそんな失礼なことは言わんよ」

「とにかくですねえ、あなたを恨んで祟っているのは絵です。その目の端に見える影、人のような雰囲気はあっても人の形には見えないのでしょう?」

「うむ……、確かに……」

「描いた本人の方は…、あなたの仰るとおり、部屋に引きこもって陰陰鬱鬱とひたすら落ち込んでいます」

「なんだ嫌な奴め……。それで、先生。どうしたらいいのかね?」

 宗景はすっかり困り切った顔で紅倉に助けを求めた。

「そうですねえー。あなた、その絵を買いなさい」

「あの絵を、か?……」

 宗景はすごく嫌そうな顔をした。

「絵はどうなっているんです?」

「さあ……。ま、画廊に問い合わせれば分かるだろうが………」

「探し出して買い取りなさい。そうしたらここへ持ってきなさい」

「お祓いしてくれるのかね?」

「いえ。飾るんですよ」

「飾る?」

 宗景は紅倉を胡散臭く見た。

「よしなさい、悪趣味な。あんな絵を見てるとあんたまで心が腐ってしまうぞ?」

 紅倉はちょっと機嫌を損ねてむっつりした目になった。

「どうせわたしは根暗で悪趣味ですう〜。わたしみたいな暗〜い女にはそういうじめっとした暗い絵が心地いいんですう〜」

 子どもみたいに口を尖らせて言う紅倉を大人の宗景はナメクジみたいな娘だなと思った。

「ああ、分かった分かった。じゃあ絵を買ってここへ送らせよう。それで祟りは収まるのかい?」

「ええ。わたしみたいにフィーリングぴったりの根暗女が見てあげれば絵も喜んでつまらない悪口を言われたことなんて忘れるでしょう」

 宗景は、蛇みたいにしつこい女だな、と思った。

「よし。ではよろしくお願いします」

「保管料二百万円」

「…………その絵を差し上げると言うことでは駄目かね?」

「絵なんてすぐ飽きるからいりません。レンタルで十分。あなた、お金持ちなんでしょ?」

「あんたほど稼いじゃいないよ。絵を買ってその上保管料というのはちと辛い。もうちっと負からんかね?」

「しょうがないですねえ。じゃあ、月五万円」

「ずうっと払い続けなくちゃならんのかね?」

「いいええ。保管料ですから、あなたが絵を取りに来ればそこまでで。絵はお返ししますよ?」

「うーーーーん……」

 宗景は、このアマ、とんだ守銭奴だな、と苦々しく思った。これでおかしなことが収まっても、金が惜しくて絵を引き取った途端にまたおかしなことが始まったら、また預け直さねばならず、そうしたらもうずうっと金を払い続けなければならない。二度目の保管料はもっと値段をふっかけてくるかもしれない。

 忌々しく考えている宗景に紅倉は上機嫌に明るく笑って言った。

「商売は信用第一。わたし、自分の評判を落とすようなことはしませんよ? あなたは、いろいろあちこちコネをお持ちなんでしょう?」

「まあな」

 宗景はいぶかしく紅倉を眺め、仕方がないと思い切った。

「分かった。それでは月五万円の保管料で頼む。それで、大丈夫なんだね?」

「はい。毎度ありがとうございます」

 紅倉はにっこり笑って頭を下げた。

 が。

 紅倉はふと宗景の背後に目をやって首を傾げた。

「あなた……」

「なんですかな?」

 宗景は紅倉にじいっと心配そうに見つめられて、なんだやっぱりこうして相談者の不安を煽ってあれもこれもと薦めてくる、そうしなければ不幸になりますよ?と言う霊感商法の類か、やれやれとんだ女に捕まってしまったな、と思った。果たして。

「あなた、女難の相が出てますねえ」

「女難の相ですか? そうですか」

 思わずしゃれてしまったが、そりゃあんただろうと思った。それが伝わったのか紅倉はむっとした様子で。

「ま、いいです。勝手になさるがいい。後で泣きつかれても、わたしは知ったことじゃありませんからね」

「なんだ、脅すだけ脅して放ったらかしかね?」

「じゃ、サービスで教えておいてあげますけどね」

 紅倉はぐっと身を乗り出して脅すように言った。

「あなたを慕って一人の女性が近づいてきますが、その人をどう扱うかで、あなたの未来は大きく変わるでしょう」

「それは…」

 宗景は面食らった。

「良くしてやったらいいのかね? それとも突き放した方がいいのかね?」

 紅倉はニヤッといやらしく笑った。

「サービスはここまでです。わたしの相談料はものすご〜く、高いんですよ?」

「分かった分かった」

 宗景は手を振って紅倉を追い払った。

「自分で考えるとするよ。ご忠告ありがとう」

 紅倉もニコッと笑った。

「はい。どうぞご健闘を」

 宗景は軽くお辞儀して立ち上がった。

「それでは、よろしく頼みますよ、先生」

「はい。絵、楽しみに待ってます」

 紅倉も立ち上がり、ふと首を傾げた。宗景はまたかと思って尋ねた。

「何か?」

「いえ…。あなたの女難の相、思った以上に強そうですね。もしかしたら、わたしじゃお役に立てないかも知れません」

 宗景は困った。

「おいおい先生。今さらそれじゃ困るじゃないか? 絵と金と取られて、わたしには女難の相だけって、そりゃひどいよ?」

「いえ」

 紅倉は手を上げて宗景を抑え、首を傾げて言った。

「多分、そうはなりません」

「そうかい? 頼みますよ、先生?」

 宗景は芙蓉に送られて玄関へ向かった。

 宗景を送って帰ってきた芙蓉は、ソファーにちょこんと座った紅倉に訊いた。

「どうしました先生? 今回はやけに迷っているみたいですね?」

 紅倉は自分自身腑に落ちないように首を傾げながら言った。

「芸術って分っかんないわねー。あの人の未来は一か八か。当たりが出れば良し、外れの目が出れば……」

 紅倉は芙蓉の見慣れた酷薄な目つきになってそれを見据え、言った。

「死ぬわね、あの人」

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