第10話 遁走

「大丈夫かな。なんか警備の人、だれかを呼びにいったみたいだけど」

「警備……目付でやんすか。ちょっと時間無いでやんすね。この部屋だけざっと探して、あの窓から出ていったん撤収でやんすよ」


 モローが指すほうを見る。広い障子窓がある。やはりここは他の部屋とは違う。


「このあたり、この棚でやんすね。この箱をざっと開けてみて、書類を探すでやんす。紙の束か巻物でやんすね。特に、出納帳……帳簿が要るでやんすよ。売上やら経費やらの数字は毎月お城に報告されてるんでやんすが、裏で蓄財してたら、その数字にズレが出るわけでやんす。その証拠があれば、工場長は捕まるんでやんすよ」

「工場長を証拠で捕まえて……でも、そこまでやらないとダメ? もっとほら、男衆の待遇改善っていうか。そういうのを説得してやってもらうとか……」


 モローの顔が曇った。


「それと、さっきの。ゲンさんだっけ? どうやって納得させたの? あんなに反発してたのに」

 葵はさっきの、モローがゲンをまるで「じゃじゃ馬」を簡単に手なづけたようにおとなしくさせた様子を思い出していた。


「ああ、あれでやんすか。いやその」

 モローが頭をかく。

「いえね、あんまり葵ちゃんに言うのも何でやんすが」

「なによ。気になる。言いなさいよ!」

「それが……」


 葵の勢いに観念したのか、モローが口を開いた。


「実は、葵ちゃんが、南蛮人のフリをした京都のお公家様のお忍びだ、って」

「え!? 私、公家じゃないってば」

「だ、だからそれ、それはなんていうか、口から出任せでやんすが」

「デマカセって。なんでそんなこと」


 ムッとするのが自分でもわかる。


「いや、そのでやんす。葵ちゃんは姿とか雰囲気がこの辺の人と違うでやんすから、お公家のお忍びってことにして、この人に恩を売っとくと後でいいことがあるでやんすよ、って」

「なんだそれ。よくそんなこと信じ……あ、そういえば、怪我人の部屋にいたマサさんて人が、モローのことを『詐話師』って言ってた。ウソついてお金儲けをする人だって」


 それを聞いてモローの顔が青くなった。

「い、いえ、それ誤解でやんすよ。拙はそんな、ワザとじゃないんでやんす」

「じゃあ、なんでそんなウソ八百ですぐに相手が納得したのよ。いつもやってるから上手いんじゃないの!?」


 だんだん腹が立ってきた。


「そ、それは簡単でやんすよ。最後に『絶対に内緒』って耳打ちしただけでやんす」


 え? それだけ?


「人間、秘密を共有すると、急に『仲間』っていう意識が強くなるんでやんす。あの場では急いで場を収めたかったでやんすから、咄嗟にやって、うまくいっただけなんでやんす」

「へえ。じゃあ、モローはいつもそういうテク……いや、会話術を使ってるってことね。それで騙して人からお金を取ったりはしてないの?」

「ま、まあ、その話は後で。今は急いで帳簿を探すんでやんすよ」


 納得できないが、仕方ない。確かに時間がない。


 モローと葵は手分けして室内のほうぼうを探す。広くていい環境とはいえ、質素だ。棚から机の下、押入れに至るまで探したものの、それらしきものが……あ、あった。


「これじゃない?」


 モローが駆け寄ってくる。

「これは最初のころの奴でやんすね。前の産方医の天村先生がいた頃のでやんす。しかしおかしいでやんすね。それ以降のがすっぱり無くなってるでやんすよ」

「隠してるんじゃない? やっぱり後ろ暗いから」

「隠すっていっても、あとは思い当たるところは無いでやんす。それにちょっとこれ以上、ここに居ると拙もまずいでやんす。そろそろ……」

「あ、ちょっと待って」


 昔の帳簿の間から、何か紙がはみ出していた。

 出して広げてみる。


 うわ、これは読めない。


「モロー、これ、わかる?」

 周囲を警戒していたモローが、葵が持つ紙を覗き込む。

「ああ、これ。この工場を作ったときの覚書でやんすね。ああ、ここに、南蛮人のことも書いてあるでやんすよ」

「え、南蛮人!」

 にわかに廊下のほうが騒がしくなった。

「や、やばいでやんす!」

「じゃ、私やっぱ姶鼻先生の部屋も見てみる! 屋根裏に戻して!」

「え、大丈夫でやんすか!?」

「わかんないけど、このままで引けない!」

「じゃ、上に戻して、拙は窓からいったん逃げるでやんすよ! 外に出るときは注意するでやんす!」

「任せて!」


 足元がふらつくモローの肩に乗り、また天井裏に戻って板を閉じる。

 モローは素早く窓から出て障子を閉めた。

 その直後、ドンドンと音がして工場長の部屋の扉が叩かれた。


「追蛇様! 工場長、いらっしゃいませんか!」


 先程の「目付」のようだ。工場長がいないと入れないのか。目付でも外からはカギがないと入れないのか。


「いらっしゃらないようだ」

「今日は外用の予定だ。しばらくは戻られないだろう」

 何人か来ているようだ。じっと息をひそめる。

「しかし、さっきの小僧はどこに行ったんだ」


 やべえ。


「ほかを探そう」


 ふう。


「いやまて」


 げっ。

 バレた?


 掌が汗ばむ。天井板に当たる膝が痛くなってくるが、動かすわけにはいかない。

 向こうは無言のままだ。

 こちらも無言。息をするのも気を使う。心臓の音がまるで伝わってしまいそうだ。

 こんなときにお腹が鳴る。体が凍りつく。

 扉の向こうに居るのか居ないのか、よくわからない。ヒソヒソ話をしているようにも、他の雑音のようにも聴こえ、判別つかない。


 手足が震えてきた。同じ姿勢じゃ、やっぱ無理。

 じわり、じわりと扉のほうから離れる。


 と、そこに、反対側からバーンと大きな音がした。

 ビクっと体が硬直する。


 障子窓が開け放たれ、外から中を覗き込む男。先程の目付のうちの一人か。眉間にシワをよせてしばらく中を覗き込んだ後、障子を閉めた。立ち去ったようだ。


 障子にはカギが無いのか。どういうセキュリティだ。


 ホッとしながら、すこし体を動かす。天井板がきしむ。そのたびにヒヤヒヤしながら動きを止める。そして警戒する猫のように、そろり、そろりと産方医の部屋の上に向かった。


 産方医の部屋には、昨日と違って誰もいなかった。

 しかし……今は、工場内が「警戒態勢」になっている。急いで済ませないと。


 天井裏から、部屋の中をじっと観察する。目星をつけるためだ。下りてからウロウロ探し回ってる間に人が来たら一貫の終わり。

 帳簿みたいなのはこの産方医のほうじゃなく、工場長のところだろう。だから過去の分はそこにあったのだ。こちらで探すのは、「南蛮人」の情報だ。時間があればジロさんの情報も探したいけど……お繭、ごめん。今回、同時に二つは、ちょっと難しいよ。


 一応、廊下のほうに移動する。人の気配が無いことを確認し、押入れの中にするりと下りた。中には何もない。静かに押入れの戸を開き、部屋に入った。


 ふう。昨日見た感じだと、書類は部屋の真ん中にある小さな座り机の下と、壁にある棚のところ。棚には黒い箱が三つほどと、本のようなものが二十冊ほど積んである。この中かあ。見てわかるかな。普通の漢字なら分りやすいんだけど、さっきのみたいなグネグネ文字だと、ちょっとね。


 さ、手早く。


 まず机の下を見る。何もない。クリア。じゃあ棚だ。

 棚の箱を一つずつ開けてみる。一つ目は筆と墨のようなもののセット。ぷんと墨汁の匂いがする。次の箱は、さらに小さい引き出しがたくさんついている。粉のようなものが入っており、大きめの引き出しにはスプーンのようなもの、天秤のようなものがある。これは薬箱だろうか。というか、医療器具みたいなのは見回してもこれだけだ。おい、こんなで大丈夫なのか? 三つ目の箱を開けると、そこにも細かい器具のようなものがあった。が、どれもよく分らない。やっぱ、この時代の知識とか無いと難しいのかな。


「あの物知りの……桶屋の具伍さんでも手伝ってくれればいいのに」

 思わず独り言が出てしまった。


「はいな」

「おわっ!」


 思わず飛び退いてしまった。心臓が口から飛び出るかと思った。


「お、え、具伍さん! ど、どうして! ここに」

「あ、外でたまたまモローさんに逢いまして、葵さんを手伝ってほしいというので、窓から入りました」


 ひい。驚かせやがって。


「窓からって、誰もいなかったの?」

「いませんね。工場の中で誰かを探しているようです」

 涼しい顔をしている。

「それにしても具伍さんって、結構自由に工場出入り出来るんですね」

「それは私、前も言いましたように、この工場には桶屋……業者の一人として参加してますんで。他の男衆とはちょっと許可された行動範囲が違うんですよ」


 分かるような、分らないような。


「でも普段は、ここは入りませんけどね。今回はまあモローさんの要請に応じて需要がありそうだと判断したわけです」


 なんだか相変わらず機械的な言い方だ。


「じゃあちょっと手伝ってください。探したいのは南蛮人の情報。あと」

「あと?」

「あと、もしジロさんの情報があったらおしえて」

「ああ、別巣の次郎右衛門ですね。先程モローさんから話を聞きまして、ここにはもう居ないんじゃないかと思うんですが」

「ここには居ないかもしれないけど、どこか行く場所があるかもしれないでしょ!」

「それはそうですが」


 具伍はしばし目を斜め上に向け、そしてまた葵をじっと見た。


「まあやってみましょう。ところで葵さん」

「なんですか」

「葵さんは、どこから来たのですか」


 ぎく。


「ど、どこ、って。な、南蛮……だけど」

 しどろもどろになる。


「そうですか。南蛮といっても、ポルトガル、スペインとありますよね」

「え、そ、そうですが、なんでそれを知りたいんです?」

 ドギマギしてしまった。

「いや単に私の知識欲です。お気になさらないように」


 具伍は、表情一つ変えずにテキパキと本の中身をあさっていく。凄いスピードだ。葵も反対の端から本の表紙や中身をパラパラとめくる。漢字で判る部分を拾うだけだが、どこにも「南蛮」の字も、次郎右衛門の字も見当たらなかった。


「名簿みたいなのも無いですね」

 具伍がつぶやく。

「あ、これ、どうですか」

 具伍が一冊の本を取り出した。表紙には「笠羽芋覚書」と書いてある。

「これ、笠羽芋の本?」

「そうですね。そして、ここ」

 具伍が、指を挟んでいたところを開く。

 面白い。笠羽芋を育てるところから加工するところまで、簡単なイラストとともに手順が書いてある。

「面白いけど、笠羽芋のことじゃなくて……」

「ここですよ」

 無表情で指差すところを見る。そこに、「南蛮」の字が。

「あ、あった! 見せて」

 奪うようにして手に取る。具伍はちょっと戸惑った様子の後、すぐに別の本を探し始めた。


 南蛮の文字の周囲を丹念に読む……が、やはりきつい。

「具伍さん、お願い」本を具伍に返す。

 具伍はやはり無表情で本を受け取った。


「この部分は、笠羽芋の由来の説明です。南蛮の芋なんですね。モローさんがそれをお城に献上したんですよ。しかし、誰も育て方や加工の仕方を知らない。そこで、南蛮の芋だから南蛮人なら知ってんじゃないか、と、お城にいた南蛮人に尋ねたとあります」

「南蛮人! それよ! なんでお城に?」

「ちょっと待ってくださいね……」

 具伍の目が素早く動き、文字を追っている。

「南蛮人は、どこかから放浪してきて、この辺で行き倒れていたようです。お城に連れて行かれた時にたまたま笠羽芋の種芋を見せられて、畑を作ってその側に住み、笠羽芋の育て方や作り方を指導した、と書いてありますね」

「え、畑のそばに! 笠羽芋の畑だよね! 近いじゃん。畑のどの辺だろう?」

 頭がシャキっとする。

「そうですね。えーとここによると」

 また本に戻る。

「具体的には書いてありません」


 がくっ。


「じゃあ……。そ、そう、これ見て」

 葵は、先ほど工場長の部屋から持ってきた紙を具伍に見せた。具伍は一瞥すると、やや表情が明るくなる。

「そうですね。当たり、です。畑の……工場とは反対側にも小さな丘があるのですが、その辺に住んでいるようです。最初のうちは、そこの小屋に一時的に畑で働く人を住まわせてもいたようです」

「え、マジ! あ、ありがとう!」

「いえいえこちらこそ。情報が増えるというのは、素晴らしい。情報は私の血と肉ですよ。こちらこそお礼を」

「じゃ、あとはジロさんのことが分かれば……」

「それはこれには書いてないですね」


 具伍は、また棚の本に戻った。

 しかしドライだ。


 葵は本のあった棚以外のところを探してみようと、先程下りた押入れの襖を開けてみる。上の段には何もない。下の段には着物を畳んだものが置いてあるが、他には何もないようだ。

 本当に簡素で、ここに常駐して仕事してるわけでもないようだ。きっと、たまにふらりと来てちょっと仕事をしてすぐ帰る、ということなのだろう。

 内科健診のときにだけ学校に来る近所の医者みたいなものか。


 ん?


 葵は、畳まれた着物が妙に膨らんでいるのに違和感を覚えた。何気なく上から触ってみる。何か箱のようなものを触れた。


 何かある!


 着物を崩さないようにソッと持ち上げてみると、笠羽餅の箱。

 あれ、これ昨日の。


「具伍さん、これ」

 具伍が振り向いた。笑みを浮かべながら開けるよう目で促してくる。蓋を開けてみる。


 ああ、いやん。やっぱり中には、紙の帯でくくられた小判の束が、二つ。

 周りの隙間には丸めた紙が詰め込んである。

 時代劇みたい。


「ああ、いけませんね。これは。この形になっているものは、九割九分は『わるいもの』です」

「ビンゴ!」

「備後がどうかしましたか。それともまた別の話ですか」

 真顔で問う具伍を無視して葵は話を続ける。

「これ、警察……いや、番所? に持っていけば、取り締まってくれるかな」

「うーんどうでしょう。帳簿などと照らし合わせて、あとは証人と、状況証拠次第ですね」


 帳簿か……。それが無いから困ってんのよね。


「帳簿が見つからないんだよね……」

「まあ、無いと絶対にダメってことはないです。あった方が良いですが。これまでの経験では、奉行所と関係者の力関係で決まる、というところでもありまして」

 急に具伍が口をつぐんだ。まあ、言いにくいだろうね、さすがに。この時代じゃ「公正な裁判」とかもどの程度できるのか分らない。

「じゃあ、なんとか説得してやってみる感じね。ところでこれ、どのくらいの価値なの?」

「価値といいますと?」

「えーと、これ一つで、どのくらい生活できるか、って感じでいうと」

「そうですねえ」具伍の目が下を向いた。「まあ、質素な一人暮しなら一年くらいですか」


 一年! じゃ、これだけで百万ちょいくらいかな?


「こんなの毎月二つも貰ってたら、もうウハウハじゃないですか」

「毎月かどうかは分らないですけどね」


 まあそうだけど。


「とにかく具伍さん、これ持っていくから、もしものときには証人になってね!」

「もしも?」

「そう。だって、これ持ち出しただけじゃ私が単なる泥棒になっちゃう」

「ああ、それなら大丈夫です。いつでも『桶屋の具伍!』とお呼びください」


 葵は箱の蓋を閉じると、障子を細く開けて外を覗いた。


「今は誰もいない。じゃ、出よう!」

「あ、その前に」

 具伍が懐から藍色の風呂敷を取り出した。

「それ、これで包みましょう」言いながら手早く綺麗に包んでくれた。

「ナイスフォロー!」なんか素敵。まるで私の行動を先回りしてるみたい。

「ポルトガル語ですか」

「英語! イングリッシュよ!」

「ああ、それがイギリス語ですか。とすると葵さんは、イギリス人なのではないですか」

「えーと私の国はイギリスではないけど、子供のうちから英語――イギリス語をみんな勉強するの」説明が面倒くさい。

「それは面白い。オランダ語のほうが将来性ありそうですが」


 二人でそっと窓から外に出る。具伍の言うように「目付」は建物内に居るのだろうが、いつまた外を探しにくるか分らない。


「じゃあ、ここで。具伍さん、ありがとう」

「こちらこそ。いろんな話をありがとうございました。では」

 あっという間に見えなくなった。なんという素早さ。忍者か。


 周囲を見回しながら丘の上へと向かう。急がないと。ちょっと空がオレンジ色になってきた。この調子じゃ、明るいうちに宿屋に着けるかどうか。


 風呂敷包みをしっかり持って、丘のジグザグ道を駆け上が……


「そこの者!」

 後ろから大声がした。

 振り向くと、棒を持って鬼の形相をした男。目付か!

 やばい! 見つかった!


「待て! 止まれ!」


 走ってこちらに来る。とっさに逃げる。


「待て! 待ちやがれ! く、曲者だー! 出会え! 出会えー!」


 ひい。仲間を呼ばれた!

 大急ぎで道を駆け上る。


「曲者! 待ちやがれ!」


 凄い勢いで追いかけてくる。工場からも数人出てきた。これはまずい!

 必死で丘の頂上を目指す。モロー、居るかな!? 居てくれたらいい……んだろうか。巻き込んでしまうかも。でも、ちょっとこの状況じゃ……。


 丘の頂上についた。後ろを振り返る。男たちは思ったより後ろのほうにいた。倒木の上に立ち辺りを見回すも、モローは居ないようだ。だよねー。っていうか、モローのこと、あまり信用できない感じもする。さっきの工場での男衆の話、気になる。


 急いで丘の向こう側に下り……ようとしたが、なんか変。

 右のほうを見ると、目付の格好をした男が馬に乗って是付のほうに走っていく。モローが言ってた道か。左のほうからは、また別の男が……。なんだ、あんなとこに道あるのか! 丘の上越えるより、別巣にはそっちのが近かったんじゃ? ってか、前に周りこまれてんじゃん。後ろの男もじわじわ追ってきてる! こ、これは! 袋の鼠状態!?


 道は、前後の他には無い。横はしばらく深いヤブで、ちょっと危なっかしくていけない。イチかバチか。


 葵は前方の道を見定め、全力で駆け下りた。左から回り込んで来た男「こら、待てー」とか言いながら距離を詰めてくる。

 この道は工場側のジグザグ道と違って真っ直ぐだ。そして下りのほうがスピードも乗る。

 

 ちょうどヤブが切れて男との距離が詰まってきた頃合いを見計らって、進路をぐいっと右にずらした。道を外れて足場の悪い荒れ地を横切っていく。

 正面から来た男もそれに追随しようとするが、もたもたして追いついてこない。


 やった! 大成功!


 この辺りは道以外は小石や瓦礫のような小岩が多く飛び出ている。

 足の裏にゴロゴロ刺さる柔らかい草履と、硬質ゴム底クッションつきスニーカーじゃ、差がついて当たり前だ。


 葵は追手の男とぐんぐんと距離を広げ、是付と別巣を結ぶ道に向かって全力で走って行った。


 さて、この道をどちらに行くか。別巣にはモローが待ってるか。こうなったら仕方ない、助けてほしい。しかし、今は追われている。宿屋の人を巻き込むのは躊躇する。だとすると、いったん是付に行って番所を探してそこに飛び込むか。


 その瞬間、左足首に何かが刺さったような痛みが走った。


 しまった! また足首を!


 必死で左足を引きずりながら走る。が、うまく走れない!

 あたりを見回す。この道には何もない。こ、こんな所で。

 後ろから追ってきている男との距離はまだある。


 けど、是付の方からも数人がこっちに走ってくる!

 なに? あれ!


 慌てて反対の別巣の方へ向かうが、是付から走って来ている男たちは葵にぐんぐん迫ってくる。もうダメだ。足も限界だ。気持ちが、切れた。


 葵は膝を着いた。


 別巣と是付をつなぐ道の真ん中に風呂敷包みを置き、その場に座り込んでしまった。


 息が上がってしまって止まらない。


 く、くっそー!! もう少しだったのに!


 肩を大きく上下させながら、左の足首を手で握りしめる。ズキリと強い痛みが走る。涙が次々と流れて頬を伝う。身体の力が抜ける。


 是付の方から来た三人の男たちが葵を取り囲んだ。いずれもきちんとした着物を着て刀を差している。一人は刀の柄を握り、今にも抜こうとしていた。


「そこの者、立ちなさい」


 仕方ない。風呂敷包みを持って、左足をかばいながらゆるりと立ち上がる。

 ほぼ同時に、後ろから工場の目付が追いついた。

「おい、お前、この野郎!」

 風呂敷包みを取ろうとする。

「まて! 誰だ、お前は!」

 取り囲んだ男の一人に見とがめられた目付の男が、きょとんとする。

「あ、この小僧、工場に入った盗人ですよ」

「盗人だと?」

「あの丘の裏にある、笠羽団子の工場ですよ。この小僧、工場の中で何やらゴソゴソ動き回って、さっき逃げ出したんで、そこを追いかけてきたってとこなんでさ……」

 目付はちらりと男たちの格好を見た。その途端に表情が変わり、風呂敷から手を引っ込めた。

「あ、ば、番所の!」


「是付の番所から来た。町奉行所の同心だ」


 どうしん? なんだそりゃ。


「す、は、同心様でしたか。こ、こりゃ失礼をば」

 目付が地面に膝をついて座った。


 この同心ってのは、工場の目付なんかよりも偉いんだろう。


「この小僧が盗人だ、と、言ってたな?」

「い、は、いえ、そ、そうなんです。工場から逃げ出して、これ、きっとこれを盗み出したんでさ。捕まえてくださいまし!」


 目付が風呂敷包みを指す。

 同心の一人がそれを一瞥すると、ジロリとこちらを見る。思わず目を逸してしまう。三十歳くらいか。眼光が鋭い。


 話の流れからすると、この武士達は番所から来た警官というか犯罪を取り締まるというか、そういう「係」だろうか。だとすればむしろ都合がいいかもしれない。


「この小僧がこれを盗んたところを見たのか?」

「え? いや……」

 同心の問いに目付が焦った顔をする。

「見たところ、まだ子供ではないか。盗んだところを見ていないなら、ここで引き下がれ。中身はこちらであらためる」

「え、いや、しかし……」

「不服と申すか!」

 横に居た別の同心が刀の柄を握りながら工場の目付に近づく。

「は、い、いえ、大丈夫で……」

「問題があれば番所に来るがよい!」


 強い語勢に慌てた目付は姿勢を崩して四つん這いになり、持っていた棒もその場に残し、ほうほうの体で工場の方へと駆けていった。


 気が抜ける葵。


「小僧、さっきの奴はおぬしを盗人だと言っておったが」

 同心達のうちリーダーと思しき男が低い声を掛けて寄越した。

「え、い、いえ、その」

 身体に緊張が戻る。


 どう説明したらいいのか。悪事の証拠とはいえ、産方医の部屋にこっそり忍び込んで勝手にモノを持ち出したのは本当だから、工場の人に盗人と言われればそうかもしれない。しかも中身は小判だし。これはうまく説明しないとやばい。


「見るとこの辺の者ではないな。どこから来た」

 さらに困る質問だ。

「その、えーと、南蛮から」

 そう言うしかないではないか。

「南蛮? 南蛮人か。拙者が聞いた名は『あおい』という名前だが、そちの事か?」


 脳の奥がジンとして、目が一瞬霞む。


 なぜ知ってる!?


「そう怖がるな。一緒に来い」

 葵はコクリと頷くと、左足をかばいながらユルユルと立ち上がった。

「大丈夫か?」

 咄嗟にうなずく。


 なんだ。優しいじゃない。

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