第9話 信用
さて、この下が怪我人と病人の部屋、と。
隙間から覗く部屋は薄暗い。八人がゴザの上に横になっている。昨日両手を震わせていた人が見当たらない。なんだろう。嫌な感じがする。なんだか知りたくない。
さあ、下りる……か。
敷き詰められた板の一枚に手をかけ、ちょっとずらしてみる。天井の隅に、人ひとりが抜けられる穴が開いた。ちょうど部屋の隅の柱の場所だ。
いける。ここから下りられる。
掌が汗ばむ。上から覗いてる分にはいいが、ここに下りて大丈夫なんだろうか。一応モローの情報では、今日は工場長も産方医もいないようだ。けど、「警備員」はいるだろうし。
真下に人がいないのを確認し、柱につかまりながら下り……。
ひゃあ。
どすん。
大きな音を立ててしまった。部屋の中で横になっていた人達が起き上がり、一斉にこちらを見る。
「な、なんだ?」
「ご、ごめんなさい。怪しいものじゃ、いや、怪しいよね。でも大丈夫だから。お願い、静かにして……」
間近にいるおっさん一人を除いて、他の人達はまた横になってしまった。
「おい小僧、何者だ? 見かけねえ奴だ。なんて名だ?」
小僧ってなによ。まあでもそのほうが都合がいいかも。
「あ、葵といいます」
「あおい? 妙な名だな。俺は是付のマサってもんだ。何しに来た」
「えーと、その。ちょっと調べ物をしに……」
とまで喋って、息が詰まるのを感じた。
なんという臭いだ。鼻をつくような腐ったような臭い。昔、祖母の家の犬小屋の中に鳥の死骸があったことがあった。その臭いに近い。
「調べ物だあ?」
怪訝な顔をしている。マサの右腕を見ると、包帯に赤黒い色が滲んでいる。血か。怪我をしてるのか。
「あ、ちょっと、人を探してて。ジロさん……次郎右衛門さん、って、ご存じないですか?」
「次郎右衛門だと? どこのだ」
「えーと、別巣です。ハタチくらいだと思います」
「別巣か」
考えているようだ。顔が歪んでいる。腕が痛むのか。
「ああ、あいつか。昔一緒の班だったことはあるけど、最近見ねえな」
「そうですか……」
「おい、別巣の次郎右衛門だと。今どこにいるか知ってる奴、いるか?」
いつの間にか数人、上半身を起こしている。どの人間も首を横に振る。
「いねえようだな」
他の人を見る。横になって動かない人もいる。そっと近づくと……
「おい、そこのは、もうダメだ。運んでってくれねえか」
その言葉にびくっと飛び退く。
ダメって。それ、ひょっとして……
「こ、この人は」
「動かねえんだ。もう」
ひい。
「こ、ここの人達って……」
「工場で働いててな、使い物にならなくなったら、ここに集められるんだ。それで、自然に治ればまた工場に、治らなければそれまで」
「それまで、って。どうなるんですか、そうなったら」
マサは葵から目を逸し、先程葵が落ちてきた天井の穴を見つめた。
「知らねえ。どっかに運ばれて、あとは知らねえ」
そんな。
「そんなの変じゃないですか。警察……いや、なんだ。奉行所? 番所? とか、何やってんですか」
「番所だと?」
マサが鼻を鳴らした。わずかに笑みも浮かべているが、目は逆に怒りに満ちていた。
「番所の人間に、どうやったら伝わるんだ」
上半身を起こした男衆が、じっと聞き耳を立てている。
「でも、手紙とか」
「手紙だと?」
マサの声が大きくなる。
「手紙は何度も書いた。けどな、届いてねえんだ。家からも返事がねえ」
そうだ。モローも、手紙が急に減ったと言ってたっけ。途中で検閲されて止められてるんだった。
「そ、そうですか。わかりました。あ、あと南蛮人、ご存知ないですか?」
「知らねえ」
にべもない。
明らかに苛立ってきている。
そりゃそうだろう。閉じ込められて絶望しているところに一方的に質問攻めだ。
「で、俺たちをどうするんだ?」
「え?」
「ここに来たのは何のためだ? 質問するだけか?」
葵は黙ってしまった。
そうだ。私やモローの問題を解決することばかり考えていた。この人たちもまた大変な問題の当事者だ。
かといって今すぐ私にどうこう出来るものでもない。
「この工場を調べて、改善……良い工場にするために、えーと、病気や怪我はちゃんと治せるように……」
「病気や怪我を治す? 何言ってんだ。病気や怪我を治すだと?」
マサの表情が変わった。先ほどの笑みは消え失せている。
「バカじゃねえのか? 治す? バカ言うな。そもそも、この工場で働かなかったら、こんな怪我や病気にならなかったんだぞ。周りを見てみろ。野良仕事でも何でも、こんな病気になる仕事、聞いたこたねえよ。こんな怪我も、ありえねえ。他に仕事が無いから仕方ねえけどな、これ、たまたまの事故とかってんじゃねえ。やれって言われてることやっただけで怪我したんだぞ。俺の前の人間も、その後の人間も。もともと危ないこと、危ないやり方、危ない工場、なんだ、ここ。治すだと? 違うだろ。治すじゃなくて、そういうことが起こらないようにします、じゃねえのか!?」
声がだんだん大きくなる。
「わ、わかりました。伝えておきます!」
「伝える? 誰に、いつ、どうやって」
「い、いや、これ実は、調べてお城の人に」
「お城……役人にか」
「そうです。役人に伝えて、お城か奉行所に」
マサがちょっと考えている。納得したのか?
「おめえ、役人とどういう繋がりだ?」
どういうって。
「い、いや、私じゃなくて、モローって人が役人に知り合い居るって」
もうヤケだ。
「モロー……。モローってひょっとして、行商の、モローか?」
「そ、そうです。その人が調べてて、私はそれを手伝ってるんです」
マサがガックリした。
なんだ、どうした。
そして目をつぶって天井を仰ぎ、ふうとため息をつくと葵のほうを見て話し始めた。
「あのモローか。そうか。モローが、役人に伝えるって、か。そうか。そう言ってたのか。で、それを信じたってのか」
やれやれ、といった表情だ。聞き耳を立てていたほかの男衆もソッポを向いた。
「おい小僧、おめえ、この辺の奴じゃねえみたいだから教えといてやる。モローってのは、あいつは、
「さ、さわ?」
「詐話師。嘘の話もちかけて、それで言葉巧みに誘導してカネを稼いでる奴だ」
え、それって、詐欺師みたいな!? ウソつきってこと!?
「そんな奴の話に乗って、こんなとこに忍びこんだのか。こりゃ傑作だ」
「傑作って。でも、番所に連絡したら何とかなるんじゃ」
「じゃあ、番所に連絡してくれ。怪我人が放ったらかしだ、ってな」
葵はそれ以上の質問は断念した。だんだん雰囲気が悪くなっている。
「わかりました。何とかします!」
とにかく廊下に出よう。
しかしこの部屋のみんな、生きてるのか?
いや、みんな生きてる、生きてることにしとかないと、耐えられない!
廊下側の扉に向かい、そっと外の様子を伺う。
さっき上から覗いた時には、誰もいなかった。
そうっと扉に手をかける。
「ひッ!」
誰かが足首を掴んでいた。
「あ、やめて! やめて!」
足を振ろうとするも、凄い力で握られて離れない。
「助けてえ…… 助けてえ……」
足元で人が呻いてる!
そのうち、起き上がった病人や怪我人たちが、じわじわと這い寄ってくる。
「く、ちょっと!」
その場に倒れてしまった。
「助けてくれぇ、後生だ。家に返してくれぇ」
「わ、わかった! 大丈夫だから! 警察に言ったげるから! 離して!」
もうわけがわからない。手足をむちゃくちゃに振り回してしまった。
マサの方を見ると、我関せずといった風に向こうを向いてゴザの上に横になっている。
スニーカーが脱げる。
げっ。
「ちょっと! いい加減にして!」
一人の手をもう片方のスニーカーで踏んでしまった。ぐえっと声がして手が引っ込んだ。急いで落ちてるスニーカーを拾って扉を開け……開かない!?
扉をガタガタさせるが、押しても引いても、横に動かしても開かない。
「おい、そこ、中からは開かないぜ」
マサが声を上げる。
「あ、開かないって!?」
「外からしか開かないんだ。だから俺たち、こっから出られないんだよ」
げげっ! そ、そんな! 迂闊!
よく考えたら、そりゃそうだ。工場長は、ここの人達のことは秘密にしときたいはず。だから逃げられないようにしてるんだ。
そうこうしているうちに、また足首を掴もうとする人がいる。
「ち、ちょっと、ごめん、やめて!」
両足を掴まれてしまった!
「やめて、って言ってるでしょ!」
振りほどこうにも全く動じない。
思わずその手の甲をきつくつねってしまった。
「ぐえっ!」
また男の声が聴こえて片方が離れた。よし、もう片方。
もう片方の手の甲も強くつねると一瞬離れたが、すぐに今度は左手首をつかまれてしまった。
「もう、やーめーーてーーー!!」
急いで右手でスニーカーを履くと、手首をつかまれたまま男をずるずる引きずって扉の方へと向かった。その間にも他の「病人」たちが寄ってきている。やばい!
「開けて、ここ、開けて!」
思わず扉をドンドン叩き、足でガンガン蹴った。
すると、
「静かにしろ! 何事だ!」
ガタリと何かが外れる音がして、扉が勢いよく開いた。
男が立っていた。
あ、工場の現場監督? 警備?
片手に長い棒を持って「怪我人部屋」の中を覗き込んでいる。
やばい。目が合った。
「ん? お前、なんだ?」
「い、いやあ、そのう」
思わず後ずさる。目は合ったままだ。男は怖い顔でじっと見ながらにじり寄ってきた。
すると、葵の手を握っていた病人の手が離れ、警備人の棒を握った。
警備人の手から棒が離れ、ゴザの隙間に転がった。
視線を戻すと、警備人の周囲には病人がわらわらと集まっていた。
「こ、こら、お前ら、何をする!」
四方八方から次々と伸びる手に絡めとられ、警備人は「人の海」に沈んでいく。
うひい……。
葵は必死の思いで廊下に出るとすぐに扉を閉め、大きなカンヌキを掛けた。
ごめんね。ちょっと、警備人が出てきちゃうから。
しばらくごめん。後でなんとか……なるといいんだけど。
隣の部屋は「腰縄」の部屋のうちの一つだ。やはり外からカンヌキがかかっている。外そうとすると、さらに隣の部屋の扉が開いた。
やばい。また警備人!?
逃げないと、ってどこに!?
中腰のまま何となく両手を前に出して顔を隠すようにしながら固まってしまった。
「あ、葵ちゃんでやんすか」
モローの声だ。
「モロー! びっくりした、もう! 死ぬかと思った」
力が抜ける。一気に三年くらい年とっちゃった気分だ。
「葵ちゃん、大丈夫でやんすか。って……その臭いは」
改めて着衣を見る。なんだか薄汚れて、そして、臭い。あのゴザの中で転んだりしたからか。
「怪我人の部屋、やっぱすごい状態だった。もう、動けないような人までいて、中からは開けられなくなってて、放っとかれてるの」
「そうでやんすか……。拙は『腰縄』部屋を一つ見てきたでやんすが、同じように、外からカンヌキが掛かってるでやんす。仕事の時間が来たらカンヌキが外されるみたいでやんすね。もう、牢獄でやんすよ」
周囲を伺いながら、声をひそめる。
そうだ。ここは「敵地」だった。
「で、ジロさんの情報は、あった?」
「それが、ひと月ほど前から見当たらない、ってとこだけでやんすよ。腰縄で工場に出てきてた姿を見た人は居たんでやんすが」
そうか……。
「じゃ、ここ、入ってみよう」
そっとカンヌキを外し、静かに扉を開ける。
薄暗い部屋の壁際にぐるりと座る十人の男の目が、一斉にこちらを見た。モローとともに部屋に入り、静かに扉を閉める。
大丈夫かな。さっきのこともあるし、一応、扉からあまり離れないでいよう。
「すみません。ちょっと、人探しをしてるんです。別巣の次郎右衛門、通称ジロさん、ハタチくらいの人、知りませんか?」
男たちは周囲を見回している。なんだか不思議な空気だ。数人の男が隣の男とひそひそ話を始めた。
よく見ると皆は腰縄がついたままで、それが部屋の隅のほうに括り付けられているようだ。
ひどい。なんてこと。
そうこうしているうちに、皆の目がある一人の男に向いた。
その男の目は力があった。四十歳くらいだろうか。
「ああ、知ってるよ。別巣のジロだろ。若いあんちゃんだ」
「そ、そうです。ご存知なんですか!」
思わずその男に近づく。
モローは後ろの扉を警戒しているようだ。
「……知ってるっちゃ知ってるが、お前さん、何者だ?」
「あ、えーと、別巣の宿屋『お常』さんで間借りしてる、葵という者です。そこのお繭っていう娘のお兄さんが、次郎右衛門さん、なんです」
「葵って、おめえさん、女だな?」
ぎく。
他の男たちも、葵をジロジロとみている。や、やばいか? も、モロー、助け……。
「あ、わけがあって、男の恰好してるんでやんすよ。大丈夫でやんす」
モローが前に出てきた。
「なんだ。モローじゃねえか」
「お久しぶりでやんす」
え、知り合いか。
「ちょっと、番所の仕事でこの工場を調べてるんでやんすが、その手伝いをしてるのがこの葵ちゃんでやんすよ。南蛮人でやんす」
不可思議といった顔でまたジロジロ見られる。まあ、そうだろなあ。男装の南蛮人がお手伝いって、そら何者だ、だよ。
「番所の仕事だってえ? またそら、お大変なこってすなあ」
なんだか嫌味っぽい響きだ。
その反応に一瞬怯んだように見えたモローが、言葉を続ける。
「いや、ゲンさん、もうちょっとでやんす。もうちょっとでこの工場、もっとマトモになるでやんすよ。その仕事でやんすから」
「マトモ? なんだか信用ならねえなあ。だって、モローだもんなあ。なあ?」
ゲンが周りに問いかける。
他の人たちは、黙ったままだ。
葵は、マサの言葉を思い出していた。「詐話師」。ウソつき、だ。自分の利益のために人を騙す。モローはそういう人間だと。
これまでの付き合いから半信半疑だったが、この「腰縄」部屋での他の人たちの反応を見ると、どうもその話が本当のように思えてきた。
「ゲンさん、モローのことが信用ならない、ってことですか?」
「おめえ、何だ。モローのスケか。スケ小僧か」
ゲラゲラ笑い出した。
「おめー、ほんとにモローのこと、知らねえのか?」
モローを見る。葵とは目を合わせず、じっと堪えているようだ。
「ゲンさん、済まないでやんす。ほんと、でもこれで、こんなしんどい事、終わりにするでやんす。だから、ちょっと教えてほしいんでやんすよ」
「お、わ、り、だとお?」
大げさな身振りでまた周囲を眺めるゲン。周囲からは失笑が漏れている。
「おらあ!」
いきなりゲンが殴りかかってきた。と思ったら……こない。「腰縄」がピンと張っている。それ以上、近づけないのだ。
「おめーのせいで、この体たらくよ。何が『終わりにする』だ。始めたのはおめーだろうが!」
え? 始めた? モローが?
「モロー……」
「葵ちゃん、その話は、また後でするでやんす」
「……」
いつものヘラヘラしたモローとは違う。眉間に皺がより、目は真っ直ぐこちらを見据えている。真剣な表情だ。
「わ、わかった。後で説明してもらう」
葵は、ゲンのほうに向き直った。
ゲンは身振りで威嚇してくる。が、腰縄があるので怖くはない。
「ゲンさん、ごめんなさい。モローとは最近出会ったので、昔のことは知らない。だから、どう言っていいのか分らないけど、私はこの状態を解決したいんです。実は私、別の世界……南蛮から来て迷子になってるんです。そこで助けてくれたのが、このモローと、『お常』の女将さん、そしてそこで働くお繭さんなんです。そのお繭さんのお兄さんが、探しているジロさんです。どうしてもお兄さん、ジロさんを見つけて安心させたい。それには、ゲンさんの協力が必要なんです」
「なんだあ? 南蛮のことなんて、知らねえぞ?」
訝しげな顔で葵を見つめるゲン。
「南蛮のことはいいんです。今は、お繭のお兄さん、ジロさんのこと教えてもらえれば……」
「なんだ、義理がてえじゃねえか。モローとは違うな」
ゲラゲラ笑うゲン。周囲はまた失笑が漏れる。
真剣な表情で堪えている様子のモロー。
「じゃあ南蛮の娘さんよ。もし、ジロのこと教えたら、何してくれる、ってんだ? もうこの『腰縄』で一ヶ月以上なんだ。俺らを出してくれる、ってのか?」
「そ、それは……」
ぐっと詰まる。
「ほらみろ。結局口先だけじゃねえか。モローと何が違うってんだ」
「いや、葵ちゃんは真剣でやんす」
モローが前に出てくる。
「なんだモロー。威勢だけはいいじゃねえか。じゃあおめえに訊く。さっきおめえ、ここが『マトモになる』って言ってたよなあ。どうやってここをマトモにするってんだ? あ?」
モローは表情を変えずにしばし黙るが、ゆっくりと口を開いた。
「これがあるんでやんす」
懐から紙を取り出して広げ、ゲンの前に見せた。
葵も覗き込んでみるが、ぐねぐねした文字で、全然読めない。
ゲンは無言でその紙を読んでいる。横から覗き込む顔もあった。
「……顔本様の手紙じゃねえか。なんでこんなモン、持ってんだ?」
「行商で笠羽芋の種芋をここに持ってきたとき、顔本様に謁見させて頂いたんでやんす。そのつながりで、薪やなんかの納品を任せていただいたんでやんすね。その流れで今もこの工場に出入りさせて頂いてるんでやんすが、最近の笠羽団子の品質とか男衆の扱いにいろいろ不審な点があって、内部事情を知ってるんじゃないかってんで調査を依頼されたんでやんす」
ち、ちょっと待って。前はこの工場とか笠羽芋について、後から頼まれて、とか、もっと他人事みたいに言ってた。モロー、最初から絡んでんじゃん!
「内部事情って、そんなもん工場長を城に呼びつけりゃいい話だろ。あの追蛇って奴をな」
ゲンはまだムッとした表情だ。
「それがでやんす。工場長と、あと後から来た産方医の姶鼻先生でやんすね、それが結託していて、しかもその産方医が、どうも江戸の息が掛かってるみたいでやんすよ」
「江戸の?」
「そうでやんす。なので、工場長呼びつけて直接質したりすると、産方医を伝わって江戸にちょっと変な情報が……」
「変な情報、って、なんだよ」
「これは……ここでは言いにくいんでやんすがね」
モローは辺りを見回しながら、ゲンの耳元に口を近づけて何やらヒソヒソと話をした。おそらく、前に聞いた経緯――顔本城としてはあまり江戸で波風を立てたくない、っていう事情のことだろう。
「そうか。モロー。信用できるんだな?」
「もちろんでやんすよ。だたし、さっき言ったこと、秘密でやんすよ。これ、漏れちまったら計画がブチ壊しでやんすから」
ゲンの顔が打って変わって柔らかくなった。
なんだ急に。
「で、ジロの事をこの葵ちゃんに教えてやってほしいでやんす」
「お、おう、そうだな」
なんて素直な。何があった。
場がザワザワする。が、ゲンが見回すと静かになった。
ボスの権威か。
「葵ちゃん、だっけ。南蛮人の」
「はい」
なんだか気持ち悪い。さっきとは別人みたいだ。
「別巣のジロな。奴ぁ、実は逃げたんだ」
「に、逃げた!?」
驚いてモローの顔を見る。モローも驚いた顔をしている。
「い、いつでやんすか?」
「そうだなあ。ひと月ほど前、俺が『腰縄』になった時な、すでにジロはここで腰縄になっていた。工場で仕事を怠けてたとかそんなだ。まあ若い奴はみな似たような感じだけどな、目を付けられたんだろな。若くて頭の切れるアンちゃんだったからな。で、ここで何だか手紙を書いたとか言ってた。それを
「相談?」
ゲンが周囲を見回す。皆がじっと聞き入っている。入り口のあたりを気にしているようだ。声が小さくなった。
「そう。なんだかな、工場長の部屋に忍び込んで、この工場の酷い状態の証拠を掴んで、逃げる、って言ってたんだ」
「証拠?」
「そう。それまでにもなんだかこの辺りをウロウロしてたらしい。調べてたんだな。工場長の部屋なんかをな。で、何か目星がついたときに腰縄になっちまって」
「で、逃げる手伝いを頼まれたんでやんすか」
「しっ」
またゲンが警戒する顔になった。モローも頭をすくめる。
「……そうなんだ。腰縄、ってのは連帯責任だからな。一人が逃げたりしたら他のもブン殴られるってんで、みんな反対したんだよ」
ゲンが周囲を見回す。男衆はウンウンと頷いている。
「そしたら、いきなりフンドシの中に隠してた、笠羽芋の、あれ、水にさらす前の奴を喰い出してな。何やってんだ、やめろ、病気になるぞ、って言ったんだけどやめなくて、そのうちゲーゲー吐き始めてな。なんだかなあ、ってんで目付を呼んで、病人部屋に運んでもらったんだよ」
「病人部屋……怪我の人とかもいる」
「そう。まあ、そこに入れられたら放ったらかしだけどな。だけど抜け出すのは、腰縄よりやりやすかったんだろな。次の日の昼前に、ここの天井裏から声がしてな。ふと見たら板が開いててな、ジロの顔があったんだよ。オレはこれから工場長の部屋に行って証拠を奪ってから逃げる、うまくいきゃみんな助かるぞ、ってんだ」
なんだ。あの部屋からまた天井裏に戻れたのか……。怖い想いして損した。
「まあ半信半疑だよな。で、結局ひと月経っても何も変わんねえ。っていうかむしろ、見回りが厳しくなったみたいでな。あのジロってのが工場長の部屋から何か盗んだのかね。そのせいかもな」
「でも、工場の外に出てったの、見た人いるでやんすか?」
「ああ、それはこいつが見たって言ってた。ひと月前の昼過ぎかな。ジロが外に駆け出して遠くに行くのを見たってな」
ゲンが顎で指した先には、おどおどした中年の痩せた男がいた。
「ジロさん、見たんですか!」
「そんだ。そっごの窓から外見でだら、逃げでく男見かげで。確かに別巣のジロだったで。手に何だが持ってだよな気ぃしだけんど、何だったが判んね」
ぼそぼそっと答える。ひどい訛りだ。この辺の人じゃないのか。
「その後は見てないですか?」
「うんだな……。それが最後べだもんなら」
最後ってことか。
「ってことは、ここから逃げ出すことは出来た、ってことでやんしたか」
モローは考え込んでいる。
そうだ。モローはひと月前に、私が「倒れてた」場所でジロさんと待ち合わせしてたんだった。そこに来なかったからまだ工場に居るんじゃないか、ってことだったけど、もうここには居ないなら、どうしようもない。
「ありがとうございます」
痩せた中年男に頭を下げる。男はおどおどしながらうつむいた。
「あと、南蛮人のことはご存じないですか。ほんのちょっとでも良いんです。見かけない文字があったとか、モノがあったとか。私みたいに、様子は似てるけどちょっと雰囲気が変わってる人がいたとか」
「それはさっき言ったけど、知らねえよ。見たこともねえ。すまねえが」
そうか。残念。
「さて、ジロの情報は渡した。あとは俺らは知らない。次は小僧、いや、葵ちゃんに期待するしか無いわけだ」
「大丈夫でやんすよ。心配いらないでやんす」
ゲンはそれに対して何か言おうとしていたようだが、すぐに引っ込めた。
「……じゃあよろしく」
突然、隣の部屋が騒がしくなった。さっきの「警備人」が怒鳴る声がする。
あ、忘れてた。
「ちょっとここ離れたほうが良いでやんすね。ゲンさん、また外からここのカンヌキかけるでやんすが、しばらくの辛抱でやんすよ。それと、葵ちゃん、また天井裏に戻って、工場長の部屋を内側から開けてほしいでやんす。カギが掛かってるけど、部屋の中からカンヌキを動かすと開くんでやんすよ」
「わかった。じゃあ、背中貸して」
モローに肩車をしてもらい、天井板に触った。開く場所を探して、横にずらす。
「モロー、ちょっとしっかり立っててね」
モローは一瞬焦った顔をしたが、ゲンが手を伸ばしてモローを支えてくれている。肩に足を乗せて何とか天井裏に入った。
「じゃ、向こうで」
天井の板を閉じる。その瞬間、ドターンと大きな音がした。怪我人部屋のドアが蹴破られたのか。バタバタと音がして、警備人が廊下の向こうに走っていったようだ。あの部屋には走れそうな人はいなかった。
やばい。誰か人を呼びに行ったか。天井裏から下の様子を見ると、モローがそっと扉から廊下を伺っているようだ。今なら大丈夫だが、もうすぐ人が来るんじゃないか。
急いで工場長の部屋に下りる。
扉を見るとモローの言ったとおり、金属製の小さなカンヌキがついていた。それを外して少し扉を開ける。
「ふう、驚いたでやんす」
モローがスルリと入ってきて、また中からカンヌキをかけた。
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