第4話 落款

 やっぱ、思ったより難しいかも。


 葵は縁側で中庭に向かって座り、和紙の上で筆を滑らせていた。庭で拾った木の板を画板として使い、和紙の四隅はサラシパンツの残りで作った紐で画板に固定している。


 手始めに「井戸」だ。

 こんな単純な形でも墨と筆で「一発決め打ちで描く」のは意外に難しい。柔らかい筆自体に慣れていないというのもある。

 試しに墨を薄くして塗り重ねるようにしてみたが、滲んで紙がぼろぼろになってしまう。かといってニカワを使って顔料で、という日本画の技法をするにも、葵には日本画の知識が皆無だった。


 決め打ちをマスターするか、塗り重ねる工夫をするか。


 しかしあの掛け軸の絵師はすごい。ササッと一発で墨と筆でほんとスルスルっと描いたのだ。相当描き慣れてて、下描きもなくマジックで落書きするような感覚で描くのだろう。

 練習してあの境地にまで達するには、美術部員の自分としても、ちょっと自信が無い。

 というか、女将さんだってそんな何年も待ってられないだろう。


 どうするかなあ。別の方法で描くか。何を使おう。


 画板を縁側に置いて立ち上がり、伸びをする。

 痛っ。左足がまだ痛い。まあさっきくじいたばっかりだ。


 と、中庭の扉が開く。ベージュ色の大きな犬が入ってきた。扉が半端に開いてたようだ。

 おお、犬だ。かわいい。プードルだ。でかいなあ。小学生くらいあるんじゃないか。普通は小型のトイプードル飼うもんじゃないの?


 ……プードル? なんだって?


 葵は目を疑った。

 いや、江戸時代にもプードルっているの? わかんないけど。でも、昔の犬っていったら、柴犬とか秋田犬とか、そういう犬じゃないんだろうか。もっと、オオカミっぽい凶暴な感じとか。プードルみたいなのは、なんだか場違いだ。


「わ、わん」

 どうしていいかわからず、声をかけてみる。

 プードルは葵を見て立ち止まり、少し警戒しているように見えたが、ゆっくりと向かってきた。


「よーしよしよし」

 縁側に再び座り、近づいてきたプードルの頭を撫でる。背中も撫でる。ちょっと薄汚れてるけど、確かにプードルのようだ。黄色の首輪もついている。


 首輪?


 思わす手に力が入った。

 プードルはビクっとして葵から離れる。

 いや、確かに首輪だった。黄色の、革かなにかの。散歩用の紐をつける金具も見えた。一瞬だけど。


「えーと、プーちゃん、ちょっと、そこに居てね。ちょっとだけ。靴。持ってくるから。一緒に遊ぼうね」


 視線が合っているプードルから目を離さないように、ゆっくりと立ち上がった。そして、そーっと後ずさりする。

 プードルは、意図を知ってか知らずか、中庭の真ん中でこちらを向いたままじっとしている。


 お願い、逃げないで。


 葵はできるだけ「ゆっくり急いて」廊下を歩き、詰め所から自分のスニーカーを取って戻ってきた。


 プードルは、まだ、いた。


「プーちゃん、ちょっと、待ってね。遊ぼうね。じっとしててね」


 縁側に座って、ゆっくりとスニーカーを履く。左足が一瞬ズキッとする。

 そして庭に立ち上がり、そろりそろりと出入り口の扉のほうに向かっていく。

 プードルと目を合わせたまま、カニ歩きのように、足をひきずりながら、そろりそろり。じわりじわり。そして中庭の扉をぱたりと閉めた。


 ふう。これで逃げられないね。


 プードルは葵の動きを目で追っていたが意図まではわからなかったようだ。

 そのまま近づいてくる葵と微妙な距離を保ちながら、井戸の周りを動いていき、葵とは井戸を挟んで反対側で止まった。


「待って、プーちゃん、まって!」


 小声でしゃべりながらそろりそろりと井戸の横を動くと、プードルはそれに合わせて逃げるように、そろりそろりと井戸を挟むように移動していく。


「待ってよ。お願い、プーちゃん!」


 右に回れば左に、左に回れば右に、プードルは逃げる。

 警戒させてしまっている。どうすればいいんだろう。


「プーちゃん、おいで、おいで」


 手をひらひらさせるが、プードルはきょとんとしたまま動かない。


 ふう。ダメか。足も痛くなってきた。


 葵はゆっくりと縁側に戻ると、トスンと腰をおろした。


 するとプードルが、じわりじわりと近づいてくるじゃないか。

 いい調子だ。こい。こっちだよ、こっち。


 そして、ちょうど手で届くか届かないかのあたりでピタリと止まった。


 うーむむむ。


 葵が中腰になると、半歩下がる。腰を下ろすと、戻る。なんて犬だ。

 ふと思いついて、上半身を曲げて低くしてみた。するとプードルは尻尾を振りながら近づいてきたではないか!

 サッと手を伸ばして撫でる。両手で頭を包み込むように撫でながら、首輪の感触を探す。


 ある。確かに。


 右手でそれを握りながらガバリと上半身を起こした。プードルの体が一瞬ビクっと反応したが、観念したのかそのままじっとしている。

 どうだ。人間様の賢さを思い知ったか。


 じりじりとたぐり寄せて、顔を近づける。


 確かに「首輪」だ。革なのかビニールなのかよく分からないが、ツヤがあって、どう見ても江戸時代のものじゃない。そして金属の輪っか。金メッキか。そして黒いプラスチックの留め具。


 プラスチック!


 葵は頭の中でぐるぐる記憶を手繰った。

 ここに来たときも思ったが、これは誰かが冗談で自分を騙してるんじゃないかと。モローは徳山だし、他の人も何か、日光江戸村みたいなところに連れてきてドッキリしてるんじゃないか、と。


 だってこの犬。犬だ。江戸村で役者を揃えたけど犬だけチェック忘れたか、迷い込んだか。

 映画なんかでも、たまにミスがあって昔の題材に現代の物品が映ってしまうことがある。そういうミスなんじゃないか。


 急に背筋が伸びた。全身が緊張し、手は汗ばみ、心臓が高鳴り、足の痛みも軽くなったような気がする。


 首輪の前の部分を見ると革の太くなったところにマジックらしきもので「POCHI」と書いてあった。

 ビンゴ! 「ポチ」じゃん。名前、ローマ字で書いてある。ポチって。江戸じゃない。この犬、絶対に、絶対に江戸じゃない!


 今まで不安の中で振り回されるように受け身で動いていた葵の心に、変化が現れた。


 やっぱりこれはゲームだ。夢ではないけど、現実の、ゲーム。


 意味のわからないまま流されて消耗するのはやめよう。これは、ゲームなんだ。

 探索し、問題を特定し、考え、解決し、少しずつゴールに向かうのだ。

 そうだ。アイルビーバックトゥ・ザ・フューチャー!


 目に力が入った。ポチを撫でる手にも力が加わる。ポチもそれに応えてくれる。今度は離れていかない。

 

 よし、ポチ、やるぞ!


 その意を悟ったように、ポチの尻尾の振りが一段と力強くなった。

 


「あ、女将さん、お忙しいところ申し訳ありません。ちょっと訊きたいことが」

「あら葵ちゃん。どう? 足のほうは」


 薄暗い廊下で声を掛けられた女将さんが、心配そうな顔を向ける。


「なんとか歩けますが、まだ痛いですね……。そうそう、あの、中庭で白っぽい毛の長い犬見たんですが、あの犬って」


 女将の顔が明るくなる。

「あ、小次郎ね。変わった犬だろ? 最近よく来るんだよ。中庭に。このあたりでみんなで餌やってんのさ」

「小次郎っていうんですか。ところであの犬なんですが、いつからこの辺にいるんですか?」

 ちょっと考える表情になる女将。

「そうねえ。ひと月くらい前かねえ。昼間に前の道をうろうろしてるところを、笠羽団子のダンナが捕まえたみたいでね。それ以来この辺りに棲みついてんのさ」

「笠羽団子のダンナって、『やっちゃん』さんですか?」

「そうそう、よく知ってるね。あんまり変な格好の犬だからさ、最初はみんな気味悪がってたんだけど、やっぱり単なる犬だな、ってことになって、今じゃみんなに懐いてるのさ」

「変な格好?」

「そう。ところどころ毛が無くてね。変な病気じゃないか、って気味悪がってたんだよ。でも元気だからね。そのうち毛も生えてきたし」


 やっぱり。毛刈りされて、最初はあのよくある「プードルらしい」状態だったのだ。この一ヶ月で伸びてあんな風になったのか。


「小次郎って、多分、南蛮犬だと思います。名前も……」


 言った直後、葵は考えた。この一ヶ月、「小次郎」で通ってみんなに慕われてるのだ。首輪の「ポチ」という名前を教えたところで何になろう。

 ここではポチは「小次郎」にしといたほうが良いかもしれない。


「名前、小次郎の名前ってどこから来たんですか?」


 話をずらす。ふう。


「なんだかね、小次郎がやっちゃんに捕まった時、たまたまモローさんもいたんだけどね、モローさんの話では、前に小次郎っていうお侍と武蔵っていうお侍が小倉で決闘したらしいんだよ。それモローさんが見ててね。なんだかその小次郎っていうお侍の、細くて凛とした姿かたちの雰囲気が似てるってんで、付けた名前だってのさ」


 小次郎。武蔵。ひょっとして、佐々木小次郎と宮本武蔵の!

 ひゃあ!


「す、すごいですね。そんなの、実物見たなんて。いや、すごいことですよ。モローすごい!」

「そ、そうかい? そんなもんかねえ。モローさんはあちこちで色んなもの売り歩いてるからねえ」


 女将はいまひとつピンと来ていないようだ。


「そうそう、絵のほうは、どうだい?」

「……あ、今ちょっと練習してます。南蛮の絵とはちょっと勝手が違うもので、すみません」

「いいのよ。でも、そんなに気張らないで、ササっと描けるくらいでいいからね」

「ありがとうございます」


 葵はお辞儀をすると、詰め所へスニーカーを取りにいった。


 

 笠羽餅の店についた。「笠羽」の看板が、相変わらずそっけない。


「すみませーん!」声をかけると、ムッとした顔の「やっちゃん」が出てきた。そして葵を見ると顔が緩む。


「あ、こないだの。南蛮の人だね。葵さん、だっけか。いや、こっちの着物着ると、あれだね。うーん……でもやっぱり南蛮風味、だね。何かが違うんだな、雰囲気が。やっぱり。何だろうね。髪の毛かね。なんか色も薄くてふわっとしてるもんな。あ、いや失礼を」


 よく分からないことを言う。しかし、愛想はいい。


「こないだは美味しい笠羽団子、ありがとうございました! いやあモチモチしてて、すっごく美味しかったです」

「ああ、いやいや。この辺りじゃ、あれくらいしか無いからね。でも他のとこには無いもんだからね。あれだけでもそれなりにやってけるのさ」


 自慢げなやっちゃん。

 とはいえ、そんなに繁盛してるようにも見えないんだけど。


「今日はちょっと訊きたいことがありまして」

「おう、何だい。いや突っ立ってないで、ここ座んな」


 昨日モローと一緒に団子を食べたところに、勧められるがままに座る。


「あの、この辺に小次郎っていう犬いますでしょ。あれ最初に見つけたの、ご主人だと聞きまして。その時のことをききたくて」

「ご主人だなんて、照れちゃうね」


 何故か照れるやっちゃん。


「そう。あん時な、昼過ぎころだったかな。なんだか突然ずぶ濡れの白い犬らしいケモノが店先に来たのさ」


 そうか、最初は白かったんだな。

「ずぶ濡れ?」

「そう。ずっとお天気だったんだけどな。その犬……小次郎はずぶ濡れだったんた。裏の川にでも落ちたのかと思ったけどな、そんな間抜けな犬は聞いたことなくてな。不思議に思ったわけよ。よく見ると、ところどころが禿げててな、病気の犬かもしれねえ、ってんで、うちの女房も気持ち悪がっちゃってな」


 女将の話を思い出す。ところどころ禿げてる、ってのは、やっぱり例のプードルの形だろうか。

 それに「ずぶ濡れ」っていうのは。


 葵は、ここへ来た当初、自分がずぶ濡れで草むらに横たわっていたことを思い出した。


「えーと、こんな感じでしたか?」

 葵は近くに落ちていた枝を拾うと、地面に「よくあるプードル」の絵を描いた。

「そう、そうだよ! 乾いたらこんな感じだった。葵さん、あの犬のこと知ってんのかい?」

「えーと良くは知らないんですが、南蛮の犬だと思います。それも、私の国の犬だと」

「おお、そうかい! そいや葵さんって道に迷ってんだったね。ひょっとしたら小次郎が道知ってるかもしれんな。おい、おっかあ、お茶入れてくんな」

「はいよ」

 店の奥から元気な声がした。

「そうなんです。だから小次郎のこと、もっとご存知のことありましたら教えていただきたくて」


 そう言うと、急にやっちゃんの顔が申し訳無さそうになった。


「う、いや、実は俺が知ってんの、その位なんだよ。捕まえた後そこに居たモローとも話したんだけどな、結局わからなかった。腹減ってんのかと思って笠羽餅出したけどな、食べなくて。モローが小次郎って名前つけたら、ぷいっとどっかに行っちまったのさ。その後はたまに顔だしてくるんだけど、禿げてたところも治ったみたいだし、たまにうちの残飯食べたりしてるな」


「あいよ、お茶。おや、これ、小次郎じゃないか」

 お盆にお茶を持ってきたおばさんが地面の絵を見て言った。


「そうそう。南蛮の葵さんが、小次郎は最初こんな犬だったろう、って。確かにこんなだったよな?」

「だったねえ。しかし葵さん、絵、上手だねえ。どこかで習ったのかい?」


 おばさんは関心した顔で、ゆっくりと葵の横に湯呑を置く。


「いえその、趣味というか」

「そうなの。こんなのがサラサラと描けるのって、なんだか凄いねえ」

 腕組みをしながらしきりと頷いている。


 そうだ。そっくりな似顔絵というより、こういう感じのイラストなら一発決め打ちでも、それなりにいけるかもしれない。


「や、やっちゃんさん!」


 やっちゃんがビクっとした。おばさんもきょとんとしている。


「あ、あっしが、どうかしたかい?」

「あ、すみません。その」

 おばさんが笑い出した。

「やっちゃんでいいよ、ダンナのことは」

「あ、いいよいいよ。そんな、ちゃんにさん付けなんて、お殿様じゃああんめえし」

 やっちゃんも笑い出した。

「すみません、じゃあ、やっちゃん。ちょっと絵を描かせてほしいんですけど、どうですか?」

「え、絵、かい? 犬の?」

「いえ、その、看板の絵、です」

「看板……か」

 やっちゃんとおばさんが、ちらりと「笠羽」の表札を見る。

「そうだね、確かにあまり気にしなかったけど、よく見ると看板ってえ割には貧相だねえ」

「絵看板ってのもオツかもしれねえ。この辺の人間にゃ絵心無いもんで、こんなので満足してたな」

 やっちゃんが表札と小次郎の絵を交互に見ながら唸る。

「もちろん、犬の絵じゃなく、お団子と、そう、なんか店のマークみたいなのを」

「まーく?」おばさんがきょとんとする。

「あ、その、何ていうか、お店の印、っていうのか。看板の紋章っていうのか」

「モンショウ? 屋号紋、ってやつか?」やっちゃんが応えた。


 ああ、ヤゴウモンっていうのか。スタバのマークみたいなの。


「屋号紋なあ。そら格好いいの作ろうと思ったんだがな、何だかそういうの得手じゃないもんでなあ」


 頭を掻きながら答えるやっちゃんに、おばさんがウンウンと頷いている。


「じゃあちょっと考えてみましょう! おだんごと、笠と、羽と……」


 葵は目を閉じて軽く上を向く。

 頭の中で、だんご、笠、羽を泳がせ、くるくる回し、重ね、広げ、混ぜ……。


「こんなん出ましたけど」


 葵が先程の枝で、地面にマークを描いた。

 笠の下に羽の生えた団子があるデザインだ。


「あら、なんだか良い感じだねえ」

 おばさんが明るい声を上げた。

「うむむ確かに。なんていうかカチッとしたの考えてたけど、こう来たか。あまり見かけねえ感じだし、いいかもしれんな。これが南蛮の屋号紋なんだな」


 ちょっとポップ過ぎたかな、と思ったけど、評判良くてホッとする。


「あとはこれを撮って看板屋さんに見せて……」


 あ、撮れない。どうしよう。紙に描き写すしかない。


「紙に描いて持ってきますね!」

「いいのかい? お代は?」

「あ、えーと、うーん。持ってきたときに美味しいお団子もらえたら、それでいいです。っていうか、今日のは小次郎のこと教えていただいたお礼ですから!」

 そう言うと、葵はぺこりと頭を下げて店を出た。


 ポチ……いや小次郎のことで新しい情報はあまり無かったけど、とりあえず裏は取れたと。あとは宿に帰ってさっきのデザインを描いて笠羽団子屋に持っていくだけだ。



 できた。こういうのならサラサラっと描ける。


 墨で紙に描いた笠羽団子屋のマークを縁側で乾かしながら、ふと女将さんに借りた箱の中を見る。

 この顔料、多分ニカワで溶いて日本画として塗り重ねていくんだろうけど。やっぱその知識が無いと無理。女将さんもよく知らないみたいだし。せめて鉛筆があればなあ。

 鉛筆……。


 じっと墨の棒を見る。

 これ、描けないかな。直接。紙に。


 紙に擦りつけてみる。

 だめだ。全然描けない。ざらざらした硬い石にでも擦り付ければいいんだろうけど。塀に直接はさすがにねえ。それじゃ落書きだ。

 しかしこれ、もっと柔らかくならないかな。

 柔らかく。

 

 ふと廊下の隅にある蝋燭が目に入った。そうだ、蝋燭!

 蝋燭のカスとか、溶かして墨汁を混ぜて黒くしたら「柔らかい墨」になるかも!


 思い立ったら実験だ。試行錯誤だ。

 考えてるだけじゃ、解決しない。やってみないと!


 葵は笠羽団子屋の「屋号紋」を持って女将のところへと向かった。


「お忙しいところすみません女将さん。廊下とかにある蝋燭なんですが」

「蝋燭がどうかしたかい?」

「あの、溶けた蝋燭ありますよね。垂れて溜まってる奴。あれ、いただけないでしょうか?」

「ああ、あれね……」


 顎に手をあてる女将。何かを考えているようだ。


「うーん、蝋のは、まとめて溶かしてまた蝋燭にしてもらってんだよね。蝋燭、高いからさ。でも何に使うんだい?」

「墨を練り込んで絵を描く硬い筆にするんです。南蛮の絵はそうやって描くもんで」


 我ながら適当な説明だ。

 ふと、女将が葵の手にある紙に注目する。やった。


「あら、それ何だい?」

「あ、これ、そこの笠羽団子屋さんの屋号紋を頼まれて描いてみたんです。筆と墨だとこういうのは出来るんですが、人の顔とかは蝋燭で作った南蛮筆じゃないとうまくいかなそうです」

「そうなのかい。あら、なんだか様子が良いねえ、この屋号紋。これ、そこの爺さんとこで看板にしてもらいなよ。判子とか木彫りとかやってるとこだよ。あと蝋燭は、そうだねえ。とりあえず、その廊下の分だけ取って試してみなよ」

「ありがとうございます!」


 葵は、ぶんっ!と頭を下げた。



 笠羽団子屋の軒先で笠羽団子をほおばる葵。


「いいじゃないか! こうしてみると、ほんと格好良いねえ!」


 紙に描かれた屋号紋を見て、おばさんが声を上げる。

 やっちゃんも腕組みをしながら感心した表情だ。


「葵ちゃん、もっと色々描いてみないかい? ここいらの看板とか暖簾、みんな寂しいだろ? 多分それで、ちょっとはこの宿場もにぎやかになるってもんだ」

「はい。それ、考えてるんです。宿の女将さんに絵の道具借りてるんで、そのうち色々描きますよ!」


 やっぱ褒められると嬉しい。美術部で頑張った甲斐があった感じ。って、まだこれからだけど。

 「南蛮筆」を作らないと。


 そこへ、モローとお繭がやってきた。


「あ、モロー。お繭!」

「ありゃ葵ちゃん。すっかりここの団子のファンでやんすか。確かに美味しい団子でやんすからねえ」

 お繭は横で楽しそうな表情をしている。


「お繭、どこかお出かけ?」

「そう。これから隣町の是付に用足しに行くから、道中不用心にならないようモローさんに付き添ってもらうの」


 楽しそうだ。お繭が楽しそうだと私も嬉しい。隣町かあ。そういえば初日にモローに危ないって止められたっけ。足が治ったらモローに頼んで付き添ってもらおう。


「これ、何でやんすか?」

 縁側に置いてある屋号紋のデザイン画を見たモローが興味深げに尋ねる。

「笠羽団子屋の屋号紋だ。葵ちゃんに描いてもらったのさ」

 おばさんが腰に手をあて、得意げに説明した。


 ちょっと照れる。


 ふと、何かが足りない感じがした。あ。そうだ。


「看板にサイン入れていいですか?」

「さいん?」おばさんの眉が上がる。

「あ、サインって自分の名前を書くんです。記念というか、これを描いた! って、やっぱ言いたいからですね」

「ああ落款みたいなもんだね」

「ラッカン、ですか?」


 どっかで聞いたことあるな。


「こういうの、さ」


 おばさんが入り口の横に張ってある掛け軸を指した。そこには、赤いハンコのようなものが押してあった。


「あ、そういう奴です。自分で書くのがサインですね」

「そうなの。落款のほうがしっくり来るけどねえ。どうだい、判子屋の爺さんとこに頼んだげよか? 葵ちゃんの落款。ここいらの店の判子は、そこで作ってもらってんのさ」

「落款のほうが、なんか雰囲気あって格好良いですね!」


 落款かあ。いいかも。でも高そうだ。


「そういえば、葵って、どんな字書くの?」


 お繭が訊いてきた。どんな字って、今更。


「あおい。草冠に……」

「くさかんむり?」


 えーと。


 葵は、地面に、「葵」という漢字を書いて見せた。

 一瞬、場の雰囲気が変わる。


「え、ちょっとこれはまずいかもでやんす」

 モローが慌てた。

「なんで?」

「いや、その、でやんす。南蛮から来た葵ちゃんは知らないかもしれないでやんすが、その、『葵』ってのは、その、江戸の公方様の紋章でやんすから……」

 

 くぼうさま? 前にも聞いた気が。江戸の偉い人。


 ちょっとまって。江戸時代で、江戸で一番偉い人って、まさか、徳川とか、そういう!?


「ひょっとして、徳川……」

「ひっ」


 お繭が口に手をあてた。


 えっ!?


「あ、葵、その漢字、使わないほうがいいかも」

「そうでやんすね。ちょっと、名前書いたり落款作るときは注意しないとでやんす」


 そうか。口に出すのもヤバいほど偉い……わなあ。徳川、だもんな。変な場所で使ったら目をつけられるかもしれない。

 なんだっけ、お寺の鐘で因縁つけて豊臣を滅ぼしたとか、そんな恐ろしいこともやってたんじゃなかったっけ。


「もし、漢字で書いたらどうなる?」

「そうでやんすねえ。公方様の御用達を騙ったとか、あるいは間違って汚したら葵の御紋にドロを塗ったとか因縁を。あわわ」


 それ以上いけない。

 そんな空気を察知して、葵もウンウン頷いた。


「じゃあ、書くときは平仮名で『あおい』にするね」

「それがよろしいでやんすよ」


 モロー、お繭、おばさんの顔が少しゆるんだ。

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