第6話 暗号

 お繭が声をかけてきた。

「葵、今日これから是付にお塩の買付に行くんだけど、一緒に行かない?」

「え、是付、大丈夫なの? 途中に賊がいるって」

「大丈夫よ。明るいうちは。モローさんも一緒だし」

 あー、またモローも一緒か。なら何とかなるかな。


 葵は、他人の要望に応え続けることに最近なんだか窮屈を感じていた。それにこれを商売として続けてしまってこの状況に「馴染んで」ずっと過ごしてしまうと、ちゃんと「ゲーム」が進まないというジレンマもある。


 そう。そうだった。私は、解決しなければならない。この江戸の世界から抜け出さないと。隣町なら、その緒がつかめるかもしれない。


「あ、葵、そういえば足は大丈夫?」

「うん。もう歩くのは平気。走ったりするのは怖いけど」

「良かった。急ぎじゃないから平気かなあ」

「うん! リフレッシュがてらに行こう!」

「リフ? 是付よ?」


 二人は、意味の違う笑顔を向けあった。 


 途中にある大きな岩と丸太に腰掛けて休憩して「笠羽にぎり」を食べ、その後も結構な距離を歩く。

 細い一本道の向こうにある建物が、いつまで経っても近づいてこない。周囲は背の高い草に覆われた荒れ地だ。すれ違う人もあまりいない。確かに薄暗くなったらもうどうしようもない雰囲気だ。

 以前、モローに止められた訳が分かった。こんなとこのど真ん中で賊に出会ったら、まず助からない。そう思うと草むらでちょっと何かが動くとビクっとしてしまうし、向こうから来る人の風体も気になって目をそらしてしまう。


「大丈夫でやんすよ、真っ昼間で、あっしと一緒なら」

 葵の不安を見透かすようにモローが笑いながら言う。


 どういう自信だ。モロー、そんなに強いのか。この時代、格闘技って何かあるのか。

 モローは刀も持ってないし。柔道とか相撲とかくらいじゃないのか。柔道はともかくそんな体格で相撲はないだろうし。

 と、そこで何かの気配がする。ふと振り向くと、小次郎がハアハア言いながら付いてきていた。


「あー小次郎、付いてきちゃった! 小次郎ってなんだかすごく葵に懐いてるからね」

 お繭が笑う。

「まあ、犬はどこに行くのも自由でやんすから。なんだか羨ましいでやんすね」

 空を見ながらモローが呟いた。


 なんだか実感がこもっている。行商人も大変なんだなあ。


「もう少しでやんすよ。あの一番手前のお店が鋳掛屋。葵ちゃんがこないだ看板を納品したとこでやんす」


 モローが指差す先を見るが、ちょっと遠くでよくわかんない。っていうかモロー目が良すぎ。お繭はウンウン頷いてる。なんて奴らだ。


 少しずつ近づいてくる街の風景。遠目で見ても別巣より遥かに都会だ。逆に別巣があんな規模の「集落」でよくやっていけてると思う位だ。

 ようやく街の端に辿り着いた。建物の入り口には確かに葵がデザインした鋳掛屋の看板が掛かっている。

 しかし笠羽団子屋のとは違って、木に平面的に彫っただけではなく、全体的に立体に「組んで」ある。正面から見ると葵の絵だが、角度を変えるとまた違った趣だ。


 葵は唸った。うむ、なかなかのデザインであるぞ。

 っていうか凄い。江戸時代のデザイナーって実は凄いんじゃ。


「ちょっと挨拶していくでやんすか」

 モローはその鋳掛屋に入ると、まいどぉ、と大きな声を出した。


 しばらくして奥から中年の女性が出てきた。

「あら、モローさん。今日は、あらまあ、南蛮絵師さんもご一緒に」


「こんにちは。葵です」

 慌てて頭を下げる。


「看板デザインと似顔絵、ほんとどうもありがとうね。看板は建具屋さんとも相談して作ってもらったの。ほら似顔絵は、ここに」


 入り口の奥を見ると壁に掛け軸が掛けてあり、そこに葵が描いた絵が貼り付けてあった。


 うわー。なんか本格的。照れちゃうよ。


「この看板とか似顔絵のお陰でね、話が弾んだり、お客さんに待ってもらう時に退屈させなかったり、いいこと色々あるんさ」

 女性が掛け軸を見ながら語る。

「そうそうモローさん。こないだの、ちょいとまた手に入らないかね」

「あー大丈夫でやんすよ。あ、それとあとですね、ちょいと込み入った話やんすけど」

 と言ってモローはちらりと葵達を見る。


 なによー。


「あ、お繭ちゃん、葵ちゃん、ちょいとここいらでヤヤコシイ用事向きあるでやんすよ。もう街まで来たら大丈夫でやんすから、お繭ちゃんの用足し済んだら、しばらく街なか見物しといででやんす」

「しばらくって?」

「えーとそうでやんすね。一刻いっこくくらいでやんすね。その後、三件隣に笠羽団子屋があるでやんすから、そこで待ってるでやんすよ」

 そう言うと、モローはその女性と店の奥に入ってしまった。


「わかりました! じゃあ!」

 お繭が笑顔で鋳掛屋を出ていこうとするので、慌てて追いかける。

「い、いっこく……??」

 ポカーンとしてしまう。

「あ、そうか。うーん、一刻って、南蛮だとなんて言うんだろ。だいたい、別巣から是付に行って帰るくらいの時間なんだけど」

 首を傾げて悩むお繭を見て葵も考える。


 ここに着いたのは昼過ぎってとこか。そしたら、二時間くらいはあるかな。一時間くらい歩いた気がするから、午後三時ころに出発すればまあまだ充分明るいうちには宿に戻れるだろう。


「えーと、さっき歩いたのの倍くらいだと、二時間くらい、ってとこかな」

「ニジカンね。言いにくいね。まあ、お塩買うのはすぐだから、その後ゆっくり出来るね」


 まずは塩屋に向かってウロウロするのだ。


 塩屋はすぐに見つかった。塩屋の看板はシンプルなものだが、何か立体的な壺のような形をしており、そこに「塩」とだけ書かれている。

 別巣だと看板らしいものは見かけなかったけど都会に行くと結構あるもんだ。それに意外に立体的で面白いものが多い。


 ふむふむと関心しながら看板を見ていると、中年の女性が出てきた。お繭と二言三言会話するとすぐに奥に入っていき、白い袋を持って戻ってきた。二リットルのペットボトルくらいある。ちょっと重そうだ。お繭はそれを紺色の布でくるむと、ひょいとたすきに掛けた。


 サマになっている。


「さあ、終わった」

「え、もう終わり!?」

「そう。さあ、遊びに行きましょ!」


 足取り軽いお繭に引っ張られるように葵はひっついて歩いていく。その後ろを尻尾を振りながら小次郎も付いてくる。


 是付の街は大きいといっても、だいたい葵の住んでる町の小学校の学区内くらいの広さになるようだ。まあ、歩いて端まで行ける感じで、ちょっと頑張れば一周できそうな大きさだ。

 小次郎はこの辺りにもよく来るようで、通りがかりや店番の人に愛想を振りまかれている。餌なんかこの辺りでも貰ってるのだろうか。


「葵、こっちこっち」

 ある店にお繭が入っていく。後をついていくと、そこには綺麗な櫛が並んでいた。

「あ、櫛、可愛い!」手に取ろうとすると、お繭が軽く「あっ」と言った。慌てて手を引っ込める。

「葵、ここの櫛、すごく高いから触らないほうがいいよ」


 気をつけなきゃ。


 お繭のほうは櫛のあたりをうっとりと眺めたあと、棒のようなものが並んだところを見ている。


 髪の毛の奴かな。お繭の頭にもついている。


「このかんざし、可愛いよねー!」お繭が指差す。


 ああ、これ、かんざしか。確かに可愛い。

 棒の端に小さな犬がぶら下がっている。

 こんな漫画みたいなデザイン、江戸にもあるんだ。


「これ、おいくらですか?」

 思わず「店員」に訊いてみた。


「これは、五百文ってとこだねえ」

 店員は、じっとこちらを見ながら応える。


 いくらだ、それ。


 お繭をちらりと見ると、ちょっとがっかりしている。

 そうか。この年の娘が買うにはちょっと諦めるくらいの値段なんだなあ。


 しかし葵が「デザイン料」として貰ったのは、合わせると多分それよりもずっと多い。確か笠羽団子が一本八文とかだった。こないだデザイン料で貰った四角い金色のお金の一つを渡したら、「ここの団子を買い占める気かい!?」と笑われたのだった。

 あの店の大きさからすると、百本としても八百文だ。円にすると数万円というとこだろうか。とすると、このかんざしは、一万円くらいなもんだろう。

 確かに女子高生としてはその場でパッと出すのに躊躇するけど、頑張れば……って感じかなあ。しらんけど。


 ちょっとうなだれたお繭と一緒に店を出る。ここの店の看板も面白い。大きな櫛の形で立体にデフォルメされている。そこに私のエッセンスが加われば……なんちて。


 葵とお繭は並んでまた隣の道を散策する。そちらには、お茶や団子などの食べ物屋さんが並んでいるようだった。

 ちらりと見ると、寿司、蕎麦、といった感じの「それらしい」店もある。そのうち蕎麦屋の看板は葵が原画をデザインしたものだ。立体的になって、うねうねとうねるデフォルメされた蕎麦が表現されている。これは凄い。三次元化か。人力3Dプリンターか。


 感心しながら店の入口を見ると、そこにはまた掛け軸に貼られた御主人の似顔絵があった。


「あ、葵の絵だ。やっぱ凄いなあ。抜け出してくるように見えるよ」


 確かにこの時代、墨と筆でシュッと描かれた絵か本格的な日本画が多いようで、グラデーションの陰影をつけて立体的にシンプルに描かれた絵は珍しい。そういう描き方が出来るのは、鉛筆とか、「南蛮筆」みたいなものが無いと難しそうだ。


 小次郎が蕎麦屋の匂いにつられて鼻をひくひくさせている。そうか、ここでも餌もらってんのかな。


 お繭はそんな小次郎を微笑ましそうに見ている。


「お繭は是付にはよく来るの?」

「お使いで、ひと月に二回くらいかなあ」

「遊びに行ったりしないの? 同い年くらいの友だちと」

「うーん、別巣って同い年の娘、居ないんだよね」


 お繭が寂しそうに笑う。

 そうか。あの集落で「友だち」ってのは限られるか。

 学校とか無くてみんな働いてんだもんね。


「葵のお父さんって、どんな仕事してるの?」

 話を変えてくるお繭。

「あ、サラリー……いや、うーん会社づとめ、いや、商人、だ。商人ね」

「商人! どんなもの売ってるの?」


 どんなもの。IT企業の社員は、何を売ってるのだろう。


「え? えーと。何だろう。サービス? いや娯楽、かなあ」

「さーびす?」

「えーと、あ、こないだの、からくりの黒い板、お繭と女将さんの顔を見せたやつ。ああいう色んな南蛮からくりとか、かな」

「へー! すごい!」


 いやあ、親が作ってるわけじゃないんだけどね。


「お繭のお父さんは?」

 お繭の顔が、ちょっと暗くなった。

「うちは、お父さん居ないの」


 やばい。変なこと訊いちゃった。


「大丈夫。小さいころからずっと兄と暮らしてきたから。その後お母さんが病気で亡くなってからはあの宿で二人で仕事してたんだ。で、兄は十五になった頃から笠羽団子の工場で住み込みで働いてるの。この辺りの男たちは、大半がそんな感じ」


 そうなのか。なんだか大変な時代だなあ。


「この辺りね、なぜだか畑とか田んぼとか、ぜんぜんうまく出来ないんだって。だから宿場だけの街だったんだけど、笠羽芋っていう芋だけ育つ場所があって、それから粉を作って団子にする団子工場が出来たんだ。だけど、笠羽芋作るにも工場で働くにもけっこう力がいるから、男手が全部そっちに行っちゃってるのね。それで街なかのお店や宿の管理やなんかはだいたい女の仕事になってるの」


 なるほど。どうりであまり旅人以外で若い男も見かけないわけだ。


 その後もお繭と話をしながら街なかをウロウロ歩き、たまにお菓子やさんの店先に座っててお茶をしたり笑いあった。

 文化も知識も全然違うのに、こんなに楽しいなんて。そういえば高校では最近あんまり友だちと喋ってもいなかったな。


 そろそろかな、とお繭が言ったので、二人と一匹はモローが言っていた笠羽団子屋に向かった。

 しかし時間をどうやって知ったのだろう。腕時計とかも持ってる様子はないし。太陽の位置とか腹具合とかだろうか。


 待ち合わせの笠羽団子屋は、別巣の店より何倍も大きかった。店先には紺色の大きな暖簾がかかっており、葵がデザインしたマークが白く染め抜いてあった。その前には、ちょっとベンチのような腰掛けが幾つか置いてあり、数組の若い女性がそこに座って「たびおか」あるいはお茶と団子で談笑している。


 モローは見当たらない。まだ来てないのか。


 そして店の入口には、あの看板。自分のサイン……いや落款もそのままだ。ちょっと照れる。確か是付のお店のマークデザインは、さっき見た他にも数件描いた気がするが、ちょっとこの街全部を確認するのは難しいかな。


「いらっしゃい。賀華名物、笠羽団子、たびおか、いかがっすか!」

 若い女性店員が声をかけてくる。

「あ、抹茶たびおか二つ、お願いします!」

「あいよ! 抹茶たびおか二つ!」


 しかし江戸時代って若い女性も威勢がよくて気持ちいい。お繭はそこまででもないけど、お客さん相手だとひょっとして、という感じがしないでもない。


 お繭と「抹茶たびおか」を飲んでいると、モローがこちらを見つけて近づいてきた。

「お待たせしたでやんすか?」

「大丈夫! モローさん」

 お繭が応える。モローが奥に向かって「団子二本!」と声を上げた。

 奥からは「あいよ」という威勢の良い声が聴こえてくる。


「そう、お繭ちゃん。今日、反物屋からお繭ちゃんへの手紙預かってきたでやんす。お兄さん……工場のジロさんからでやんすよ」

「え、本当! いつもありがとう!」

 モローが懐から紙を取り出して、お繭に渡す。同時に団子が二本乗った皿が出てきた。それをモローが一本つまんで食べ始めた。


 おっちゃんには団子のほうが似合うかなあやっぱ。


「え、これ……」

 お繭が困惑した顔をしている。モローと葵は同時に覗き込んだ。

 カタカナがびっしり。

「なんか変でやんすね」

「いつもはこんなじゃないのに」


 困惑したままの顔でお繭は手紙の文字を追っている。

 葵も一緒に眺めていたが、文字は読めるが内容はよく判らない、という感じでちょっと疲れる。


「でも、内容は別にどうってことは無いでやんすね」

「どんな内容?」観念して訊いてみる。

「あ、葵は南蛮人だから読めないよね。これ、沢山の笠羽芋が採れて凄く忙しくなってるけど、元気でやってるから心配しないで、みんなも元気だ、来月に休みが取れたらちょっといつものヌマ? 沼? に行きたい、って」

「お繭、ありがとう。元気そうで良かったね!」


 しかしそれでも浮かない顔だ。どうしたんだろう。


「ジロ兄さん、ちゃんと漢字も書けるし、いつもは漢字も書いてるんだけど。あとこの『ヌマ』がわからない。別巣にも近所にも沼なんて無いし……」

「そうでやんすか。内容自体は別に変じゃないでやんすねえ。でも確かに、普通と違う書き方だとしたら、それが逆に変な感じもするでやんす」


 お繭はちょっと不安げだ。たびおかの器を置いたまま、口をつけない。

 葵は抹茶たびおかを「吸斗漏」で吸った。


 抹茶豆乳はアッサリしてるけど、ほんと、ぷるぷるモチモチして美味しい。これを作ってるのが、お繭のお兄さんかあ。ずっと住み込みで働いてるんだもんね。大変だよ。電話もメールも無いから、こうやって手紙を送ってもらうしかないんだなあ。


 カタカナが並んだ字面を何となく眺めていると、何か違和感を覚えた。


 ん、なんか、読める……?


 吸斗漏から口を離し、顔を手紙に近づけてみる。

 んー、まさか、ね。


「タ・ス・ケ・テ・デ・ラ・レ・ヌ……?」


 口のなかにたびおかが残ったまま、ふいっと口をついて出てしまう。

「え、葵、いまなんか言った!?」

 慌てて口の中の残りを飲み込む。

「い、や、その、ちょっとこの上のとこ読んだだけだし」むせそうになってしまった。

 モローが葵の指す部分をじっと見ている。

「ここ、お繭ちゃん。一番上だけを右から左に読んでみてでやんす。確かに、タスケテデラレヌ……『助けて出られぬ』ってなってるでやんすよ」

 お繭が目を見開いた。表情が固まっている。

「い、いや、偶然かもしれないし、そんな、縦読みみたいなの」


 縦読み? いや、これ、横読みか?


 お繭とモローは真剣な顔で何か考えている。

「えーと、そんなに気にするもんじゃ、ないんじゃない?」

 なんだか自分が適当なことを言ったせいで、まずい雰囲気になったみたいだ。

 変な不安を与えちゃったんじゃないか。

「いや葵ちゃん。それ、正解かもしれないでやんすよ。ちょっと反物屋に行ってみるでやんす。いろいろ訊いてみないと」


 モローは店員に何事か伝えると、立ち上がって身支度をした。

 三人と一匹は反物屋へと向かった。


「ちょっとそれはウチではわからないですねえ」

 小太りの中年女性が困惑した表情をしていた。反物屋の女主人だ。

「ウチはあの工場で働いてる、このあたりの男衆との手紙を取りまとめてるってだけで、中身のこととか、どんな風とか、ちょっとわかりかねるんですよ」

「そうでやんすか。他の家族から、妙な手紙が来た、って言われたのもないでやんすか?」

「うーん、今回の手紙は別巣のお繭さん宛の一つだけだったしねえ。最近、急に減ってきたし。前は毎回、十くらいはあったんだけどねえ」

 女主人は目玉を上に向けて思い出しているようだ。

「そうでやんすか……。ありがとうでやんした」

「ありがとうございました」

 二人が頭を下げるのを見て、慌てて葵も頭を下げる。



「結局よくわからなくて、ちょっと心配でやんすね」


 別巣に帰る道すがらモローが口を開く。お繭は不安げな表情で言葉もない。葵はなんだかまた罪悪感が出てきた。


「で、でもさあ、大丈夫なんじゃない? 手紙をちゃんと書いてるわけだし」


 やはりお繭は無言。モローは何かを考えているようだ。

 ふと小次郎を見る。何も考えずにただただ付いてくるように見える。


 いいなあお前は。何も心配ないんだろうなあ。いやでもやっぱ元の世界に帰りたいんだろうかなあ。でも、犬の気持ちは判らないもんなあ。


 薄暗くなりつつある中を、三人と一匹はとぼとぼと歩いた。


「モロ―、工場の仕事って、きついの?」


 モローはしばらく考えてから、静かに答える。

「うーん、まあ、産業が少ないこの辺じゃあ、他にろくな仕事が無いでやんすから……」


 言いにくそうだ。まあ、お繭のお兄さんのこともあるから、言葉を選んでるのもあるのかな。


「前……はじめの頃は、工場っていってももっと小ぢんまりしてて、小屋の中でちまちま手作業で手伝いみたいにやってるって感じだったでやんすよ。それが、笠羽団子が名物になって広まってからは、工場も大きくなって、沢山の人を集めてどんどん大量に作られるようになったでやんす。団子もどんどん作られて、売れ行きもどんどん上がって忙しくなっていった感じでやんすねえ」


 ふむふむ。


「ただ、最近はあまり、いろいろと芳しくない噂もあるようでやんして。まあ、このあたりはいろいろと」


 またモローの言葉が途切れてしまった。やっぱ言いにくいわなあ。お繭はじっと黙ってついてきている。


「もともとは南蛮人が始めたらしいんでやんすがね……」


 なんだって!?


「な、ちょ、南蛮人!?」

 一瞬立ち止まって、慌ててまた歩き出す。


「そうでやんす。笠羽団子の材料の笠羽芋ってのがあるんでやんすが、育て方から加工のやり方までここに伝えたのが、その南蛮人みたいで、そっから笠羽団子は出来たんでやんすよ」

「ち、ちょっと、その南蛮人って今どこに居るの!?」

「え、ちょ、ちょっと拙はその辺までは分らないでやんすよ。工場に行ってみないと……」

 モローが慌てた表情になる。

「でも、何か、新聞とか、記事とか、そういうの無いの!?」

「そんな事言われても、どういう意味だか分らないでやんすよ! 勘弁でやんすよ!」

 両手を顔の前で振り始めた。


 まあ、そこまでか。

 お繭の顔も暗くなる。あまりこの話題を続けるのは気も引ける。


 だが気になる。ここにきて急に「南蛮人」だ。今までに小次郎の他にこの世界から出られるキーになりそうなものは他に無い。


 ここに一縷の望みを託していこう!


「モロー! 後で、宿屋でちょっと話してもらっていい!?」

「え、あ、いいでやんす。大丈夫でやんすよ」


 不思議そうな顔をしたモローを見ながら、葵はやや興奮しはじめていた。

 そうだ。これに賭けよう。どうせこの世界は仮の世界。やれるだけのことは、やってみよう。他にやることは無いんだし。


 外は薄暗くなりつつあった。三人と一匹は足早に別巣へと向かう。道は歩きにくいということはないが、薄暗いとデコボコが分かりにくくて足元が不安になる。

 やっぱりこの服装は動きづらい。可愛いからいいんだけど裾が気になって小走りも疲れる。


 ああ、明日は筋肉痛かなあ。


 モローはともかく慣れているはずのお繭もやや歩調が怪しい。横の背の高い草の中からガサリと音がしたり小次郎が立ち止まったりすると不安にもなる。


 出来るだけ皆で固まるようにして歩き、何とか宿屋までたどり着いた。

 ちょうどその時、入口の提灯にポッと灯がともった。女将さんだ。


「お帰り、モローさん、お繭、葵ちゃん」

 女将が声をかける。手には提灯に火をつけた蝋燭を持っていた。


「いや、ちょっと暗くなっちまったでやんす。またお世話になるでやんすよ」

「どうぞどうぞ!」


 女将さんが言うやいなや、モローは草履を脱いで足を洗っていた。

 その姿を見た葵はふとアイデアを思いついた。


「女将さん! モローみたいな男用の着物ってないですか?」


 女将がきょとんとしている。ふとこちらを見たモローも何を言ってるのか判らないといった表情だ。


「男用の着物って、葵ちゃん、そんなのどうするの?」腕組みをした女将が不思議そうな顔で訊いてくる。

「え、いや、その、この着物お借りしていて何ですが、ちょっと動きにくいかな、って思って……」


 女将もお繭も葵が何を言ってるのかよく判らないといった表情だ。


「あ、確かにさっきみたいに、ちょっと走ったりするときは大変でやんすね」

 モローが説明してくれる。

「っていっても、男の着物っていうより、これは、股引と前掛けとカッパってだけでやんすよ。男用の着物はもっとちゃんとしたのがあるでやんす」


 そうなのか。そういえば団子屋のご主人はもっとちゃんとしたのを着ていた。


「いや、でも、モローみたいなのがいいんです。ちょっと小さめのとか、無いですかね」

「そうだ葵ちゃん、お繭のお兄さんが子供のころに着てた奴があるよ。それ着なよ。お繭、どうだい? 昔のだし、あげちゃってもいいかい?」

「え? あ、どうぞどうぞ」

 お繭がちょっとうつむいた。

 そうだ。お兄さんから変な手紙が来て不安な最中だった。ごめん。


「じゃ、股引やらカッパやら、あとで部屋に持っていくね」

 不思議そうな顔のまま女将が去って行った。


「そうそうモローさん。さっきの手紙について、ちょっと話があるんです」

 不安げな顔のお繭。

「え、いいでやんすよ。拙もちょっと心配でやんす」

「あ、私もいい?」思わず葵も声を上げる。


 この謎の先にキーがある気がする。これを辿りたい!


「え、葵、でも……。兄妹のことに巻き込んじゃうのは」

「いいのいいの。私、謎解き好きなんだ。金田一とかよく読んでたし」


 わかる訳ないわな。漫画の話なんか。



 モローが泊まる部屋で、お繭と葵はカタカナだけの手紙を囲んでいる。お盆には三人分の味噌汁と笠羽団子入りのおにぎり。

 灯りは蝋燭の光だけだが、もう慣れた。この手紙を読むのには十分だ。


「で、さっき葵ちゃんが見つけた『タスケテデラレヌ』って奴でやんすが、こういう書き方って南蛮で流行ってるんでやんすか?」

「そ、そうなの。実はそれ見て、ひょっとして南蛮に帰るヒント……いや、繋がる何かが見つかるんじゃないか、って思って」

「そうでやんすか。いや、こういうの初めてでやんすね」

「なんだか怖い。こんなカタカナだけの手紙、ってのも不思議だし。それに、沼、ってのも」

「沼は、きっと『ヌ』を使いたかったけど思い当たる単語が無いから適当に埋めた、って奴じゃないかな。あと、不自然に思わせてこの縦読み……じゃなく横読みに気づかせる、とか」

「なるほど。いや葵ちゃん、そんなのよく思いつくでやんすね」

「いやでも、お繭のお兄さん、なんでこんな南蛮風味な謎解きを入れるんだろう?」

「南蛮かどうかはわからないけど、兄は物語を読むの好きだったんです。私は全然なんだけど」


 そうなのか。でもこの時代に探偵小説とかミステリーとかあるんだろうか。


「いずれにしても、お兄さんが心配でやんすよ。ちょっと工場に様子を見に行ってみるでやんすか」

「私も行かせてください!」お繭がモローにぐいっと寄る。

「え、いや、お繭ちゃんは、ちょっと。ひょっとしたら危ないでやんすよ。大の男が助けてって言ってるくらいでやんす。お繭ちゃんの手には余るでやんすよ」

「じゃ、私が代わりに行く!」


 思わず言ってしまった。


「え、葵ちゃんがでやんすか?」

「そう。お繭、お兄さんのこともあるけど、これ、私の問題とも関係あるかもしれない。笠羽団子には南蛮人が絡んでいる。ひょっとして南蛮につながる何かがあったら、私、戻れる。だから、自分で確かめたいの。大丈夫。私こういうの大好きだから」


 よく考えたら、大好きだから安全ということは無いな。


「まあ、そこまで言うなら。わかったでやんすよ。明日、一緒に行くでやんす」


 ちょっと不安げなモロー。無理言ってごめんよ。


「あ、葵、気を付けてね。危なかったら、すぐに戻ってきてね!」


 お繭は涙目だ。大丈夫。そんなお繭を危険に曝せない。

 なあに、私は美術のほかに、陰でコソコソ動くのも好きなのだ。


 それに、この世界から脱出するキーはほかに無いじゃないか。

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