9時限目 冷たい床と温かなベッド
『立ちなさい。リリア』
痛み。
恐怖。
剣聖と呼ばれる彼女の父は、己にも厳しく、己の家族にも厳しい人だった。
敵を打ち倒し、民を守る。そのために剣を振り、己を鬼のような鍛錬の日々に投じていく。
末の娘として産まれたリリアも、またその運命にあった。
『お前の兄さんや姉さんを見ろ。死ぬことを恐れていない。あれが正しい姿だ。剣士として生きるなら、決して相手に背中を見せるな。相手の前で許しを
できない、と首を横に振る。
青あざだらけの腕は震えていて、剣を握ることすらままならない。
『立て。もう一回だ』
できない。
痛い。怖い。嫌だ。己に向かう合う人間が嫌だ。痛みを与えるのも、痛みを受けるのも嫌だ。剣を握ることが嫌だ。戦うことが嫌だ。
怖い怖い怖い怖い怖い。
「……リリア?」
気がつくと、彼女の身体は冷たい床の上でなく、温かい真っ白なシーツの上にあった。おでこに触れる手のひらは柔らかかった。うっすらと目を開けると、ミミが心配そうな顔で覗き込んでいた。
「ミミ……」
「大丈夫かニャ? ひどくうなされていたニャ」
「ごめん、わたし……」
「気絶していたニャ。今、先生たちが疲労に効く薬草を取ってきているところニャ」
ミミはすり鉢をゴリゴリとすりながら、リリアに起きないように促した。かつて保健室と呼ばれていたこの教室は、今ではミミが占有していて、辺りに薬草や、怪しげな液体などが並ぶ部屋になっていた。
窓の外を見ると、日が落ちかかっているところだった。小一時間以上、自分が気絶していたことに彼女は気がついた。
「また剣、振れなかったんだ……」
記憶が戻ってくると同時に、悔しさがこみ上げてくる。瞳の奥が熱くなって、涙が
「……情けない」
何もできない自分に腹が立った。学校に入学して、実践戦闘で一度も剣を振ることができず、落ちこぼれクラスまで落第した。このまま行けば、退学になることは確実だった。兄と姉はどちらも「パラディン」クラスで首席を収めるほどの実力の持ち主なのに。
私はどうしようもない落ちこぼれだ。リリアは自分の両手を見つめながら、ぽとりと涙を落とした。
「リリア……どうして泣いてるニャ……? どこか痛いニャ?」
「わ、分からない。悔しくて、自分が不甲斐なくて……」
「剣が振ることが怖いニャ?」
「相手と向かい合うと、すごく怖くなるの」リリアは震える声で言った「どうやって打ち込めば良いのか分からなくなって、どうにもできなくなって、頭が真っ白になって……」
「剣を振るのが嫌なのかニャ。そうしたら使わなければ良いニャ。リリアは魔導もうまいニャ」
「でも、私は……剣聖の娘で……」
フラガラッハの人間だ。
特別な魔導を持ち、剣に特化した王国を代表する剣の家系。その私が剣を振れないなんてあり得ない。リリアは自分の拳を強く握りしめた。血がにじむほど、強く、強く。
痛み。
恐怖。
頭が分かっていながら、心では抑えることができない。ここには父も兄たちもいない。あの
「どうして、リリアはこの学校に入ったニャ?」
どうして。
それは気絶する寸前にダンテに問われた言葉でもあった。
「私は……強くなりたくて……。兄さんや姉さんみたいに立派になりたかった……」
「リリアはもう十分立派ニャ」
「そんなことない」
「立派ニャ。逃げだせば良いのに、向き合おうとしているニャ。ミミはそれを偉いと思うニャ」
そう言うと、ミミはリリアの手をぎゅっと握った。やわらかな肉球で彼女の手を包んだ。温かい体温で、リリアは自分の心が少しだけほぐれたような気がした。
「ミミは……どうして学校に入ったの?」
「ミミは薬を勉強したかったニャ。ミミの故郷は医者がいないから、みんなを救える薬が作りたいニャ」
「偉いなぁ。ミミは」
「特別に耳を触っても良いニャよ」
「……ありがと」
もふもふした猫耳を撫でると、ミミは気持ちよさそうに眼を細めた。膝の彼女の身体を撫で回していると、薬草採取からダンテたちが帰ってきた。
「おう、目が覚めたか」
「先生……」
「悪かったな。無理やり戦わさせて」
そう言ってダンテは一言謝罪すると、机の上に薬草を置いた。
「次回からはもう少し緩めにやる。毎回、こうなっては身が持たんだろうしな」
「ううん」
リリアはごくりと
「私、まだ戦える」
「それは、フラガラッハとしての責任か?」
「それは……分からない。でも、ちゃんとした理由を探したい」
どうして、と問われたのは初めてのことだった。今までどの教師もリリアに理由を問いかけたことはなかった。彼女は当たり前のように、フラガラッハとして剣を握っていた。
でもきっとそれじゃダメなんだと、リリアは気がつき始めていた。どうして、と問われて初めて、自分の心の空虚さを見返した。そこに確かなものは何もない。
私の剣には恐怖と痛みしかない。
「いい加減、前に進みたいんです。痛いのは嫌だけど、怖いのはもっと嫌なの。せめてこの恐怖だけでも振り払いたい」
「お前のトラウマは一朝一夕で消えるものじゃない。きっと辛いことが沢山ある。それでもやるか?」
頭の中にサッと影がさす。恐怖としか形容できないそれを、振り払うようにしてリリアは頷いた。
「……はい……!」
「良い返事だ」
精一杯の勇気でもって自分の中の恐怖を押しのけたリリアは、ベッドから起き上がろうとした。その身体をミミの手がサッと止めた。
「あー。ダメにゃダメにゃ。貧血でいきなり起き上がるのは良くないニャ。薬を飲まなきゃいけないニャ」
「……ミミ、その右手に持っている得体の知れないものは何……?」
リリアは彼女が持つ緑色をした異臭を放つ液体を見てしまった。この世のものとは思えない恐ろしい匂いを発している。
「これか。これは薬ニャ。先生たちが取ってきた新鮮度百パーセントの薬草を混ぜてあるニャ」
「この異物をまさか、私に飲めと」
「他に誰がいるニャ」
容赦なくミミはその液体を近づけてきた。「いやだ、やめて」というリリアの手を封じて、ミミはカップを口元まで持ってきた。
「必要なのは勇気ニャ」
「ひいい……」
薬の効果はてきめんだった。「ぐおああああああ」と
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