終章 堤が決壊する!

 雨が降り続けて三日目の朝。

 

与一を供に見回りから帰った小夜は、着けていた蓑笠を六助に渡して番の組頭を呼びに行かせた。

 与一はみずきに握り飯を十個ほど作るように命じ、自分は二人分の衣服を油紙で包む。

 それを蔵から出した漆塗りの真新しい空穂うつぼに、握り飯と共に納めて背負えるように準備した。


 小夜は朝食を摂りながら、六助を供にしてこれから山に登ると言った。

「棚田の水路の流量が少なすぎる。この時期であれば二堤から放水された水が流れに加わっておらねばならぬが、その形跡が無い」

 流水で溝を穿つ積もりでいたが、それどころか、このままでは水圧に負けて二堤が決壊する。

 そうなれば棚田そのものが崩壊してしまう。


「吉次か、山の衆に行かせなさい」という松に、「時が無い。それに万が一のとき、切り抜けることが出来るのは私だけです」と言い、譲らなかった。

 番頭ばんがしらが来た。

「棚田の裾、前と左右に人を入れぬよう番を立てよ。川向こうの避難小屋に用心のため山の衆を一人。また番に立つ者も土砂崩れに巻き込まれぬよう、異常兆候に耳目を働かさせよ」

「ただちに」と、番頭が駈けて行く。

 与一は六助に空穂を背負わせ、その上から蓑をかける。 

小夜は笠だけを着け、雨の中に走り出た。いつ決壊するかもしれない。そうなれば棚田は言うに及ばず、水路もこの登山路も土砂に呑み込まれる。その前に六助を待避させなければならない。少しでも前に出て兆候を掴み、六助の逃げる暇を作らねばならなかった。


 本当は一人で登りたかったのだ。だが与一がいつになく強く反対したので仕方なく、それでも間に合わなかったときのため、家族のいる吉次には知らせず、与一は屋敷に残して六助を供にした。


 六助が思いのほか、よくついてくる。ようやく半ばまで来たところで追いつかれてしまった。

 六助は早くは無いが同じ速度で歩き続ける。

「以外とやるではないか」

 そう言ったとき、地の奥から何かの音が聞こえた。

六助の顔を見る。だが六助は気がついていないようで、坂道に息を切らしている。

「私が合図したら直ちに横に走れ。できる限り道から離れよ」

「分かりました小夜様の後をお守りします」

「馬鹿。お前が遅いから先に逃げよと言っておるのだ」

「いえいえ。私が遅いので、小夜様に逃げ道を作っていただきたいのですよ」

「ああ。成る程。それもそうか」と納得して笑ったとき、再び何かの音がした。


 小夜は意識を頭上に注ぎつつ僅かな休憩を六輔に指示した。

 気が急くときほど慎重に行動し、余力を溜めておかなくてはならない。 

 息を大きく吸い、肺を空にするほど息を吐く。三度繰り返すと自分の呼吸が戻った。

 息を整え、今来た道を見下ろす。すると、誰かが駆け上ってくるのが見えた。

 その姿は見る内に大きくなり、その後ろにも二人の人影が続く。

 誰かと問う間もなく、先頭は千三で後は了助と庄蔵であると分かる。

 千三と了助は番の仲間から小夜が山に上がったと聞き、庄蔵は与一から聞いて後を追ったのだという。

 小夜は、手を引かれて上がるより、お前達が先に上がり水門を調べよと命じたが、上には既に吉次が居ると言うので、了助だけを先に行かせ、吉次の助力を。千三は小夜の手を引き、庄蔵は六助の背中を押すということになった。

「吉次は既に上がったと誰から聞いた」

 庄蔵に訊く。

「私が上がる前に家に寄りまして、お内儀に。四半刻前に出たと聞きました」

 ならば間もなく着く頃だ。 

「よし。行こう」

 一行は堰堤を目指し、坂道を登った。


第二堤に、腹這いになっている吉次と了助がいた。


「どうなってる」

 見ると、開けておいた筈の上水門の扉が下りていて、その門扉を二人で掴んで引き上げようとしていたのだ。

「この扉が何故か持ち上がりません」

 吉次は水門が下りているのに驚き、一人、引き綱であげようとしていたのだろう。掌に血が滲んでいた。


「一堤の注水門は閉めたか」

「それはまだ」

「吉次と了助はそちらに向かえ。ここは私と千三がやる。腕力だけならそのほうが強い」

「わかりました」

 小夜が左腕、千三が右腕を水に入れ、扉を掴む。「一、二、三ッ」と声を掛け三で息を止め、全力で引き上げるが微動もしない。 

 次は千三と庄蔵を組ませ、空穂を倉に置いてきた六助と小夜が組む。

 同じように声を掛けて四人で引き上げると、僅かに動いた感触がしたが、それだけでしかなかった。

「これは……」

 力を込めるほどに、何かに食い込んでいく感じは、「どうやら、扉が落ちたとき石か何かが供に落ちて楔(くさび)のようにくいこんだのではないか」

 そう言った小夜は、またも地の底で何かが動いた様な気配を感じ、「猶予がない。門扉を壊す」と決断した。

 一堤の注水門が閉じられ、水位の上昇は抑えられたが、すでに二堤の安全強度を過ぎたと思えるところまで水位は上がってきている。


 金棒を扉に当て、鎚で叩く。が、分厚い板は弾力を持ち、中々突き破れない。

 大工の腕の良さが逆に恨めしく思えた。


第一堤の注水門を閉じた吉次と了助が、滝を指して何か叫んだ。

 鎚を止めると、微かに地鳴りがしていた。

 音は滝の方角の天空から鳴り響いている。正体は見えないが巨大な何かが近付いているのは確かだ。

「待避するッ倉に入れ」

 六人が倉に飛び込む。明かり取りの窓を開け、扉をとじてかんぬきをかけた。

轟く音が頂点になったと思われたとき、滝の西側に生えた巨木の先端が震え、根こそぎ宙に飛ぶのが見えた。その後を黒い土砂が音を立てて流れ落ち、樹木を跳ね飛ばし、暗渠に吸い込まれていく。


 奥山の土が保水の限界を超えて、溜まった水に押し流されたのだ。

「お前達はここに居よ」

 小夜はひとり二堤に駆け上がり水門の引き綱を力の限り引き上げてみた。

 今の地響きが何らかの影響を与えたのではないかと期待したのだ。

 だが、扉は動かず堤からは要石かなめいしの擦れ合う音が不気味に聞こえ始めた。

 小夜は力なく、うな垂れ膝を付いた。


 構想から九年。着工から六年が経っていた。

 

 年月が無駄になったとは思わなかった。だがこんな些細な事で最後に挫折したのが口惜しかった。口惜しくて涙が止まらなかった。

「漢鬼っ」鬼の名を叫んで泣いた。


 堰堤の端の突出した岩が目に入った。あの岩を聖域として山の衆達の名を刻んだ。

子達の親が流れ者だったと蔑まれぬように。子達が親を誇れるように刻んだ山の衆の実績が失われてしまう。それが口惜しかった。


 五人の男は、泣き崩れる小夜を見て、全てを悟った。統領は――諦めたのだと。

 男達の耳にも鳴き始めた石の音が聞こえたのだ。間もなく堤の終焉が来る。堤は崩れ落ちるのだ。そして満々と湛えた水が棚田を破壊する。

 吉次が叫んだ。

「統領は……小夜様は崩れる堤に身を任せようとしている」

「死なせぬ」

千三が駈けだした。

小夜の前に雲が現れ、中から巨大な腕が出た。

「死ぬのは叶わぬぞ」

 雲の中から、そう声がして、鬼の腕が上水門を破壊した。次いで中の水門を破壊して雲と供に消えた。

水は放物線を描いて放出され、音を立てて水路に注いだ。

 水路の水は急流となり、土を削ぎ石を浮かせて押し流し濁流となって、泥砂でいしゃは水路を深く抉って麓へ落ちて行った。


※     ※


 用水路は小夜の目論見どおり、流水の力で深さも路も満足できるものができていて、手直し程度で使うことが出来そうだ。


 棚田の裾に広い扇状地が出来ている。

 奥山から流された土が暗渠あんきょから押しだされたのだ。

 石でかきを作り、畦を整えると四町ほどの田ができると庄蔵が言った。



 水門が開かなかった訳が判明した。

 水を吸った木が膨らんだこと。余りに緻密に仕上げられた扉の面が密着したこと、それに、やはり堤から落ちた石の小片が食い込むという複合した原因が作用したことが判った。

 小夜は『記憶』の中から螺子ねじという概念を見つけ、鉄の棒に連続した溝を付けそれに歯を噛ませれば、回す動作を上下方向に変える仕組みができることを鍛冶屋に教えて、新しい水門を作らせた。

 合わせて要石の両脇にくさびを打ち込み、緩んだ石垣の隙間にも逐次石を埋め込んで補強していった。

 村は、全ての村民で全ての田を復旧する段取りが完成した。

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