第3話 雨
屋敷に戻ると村長、組頭、小頭達が集まっていた。
「しばし待て」言い置いて目で鬼王丸を捜す。
鬼王丸は離れの松の部屋にいた。相変わらずひな菊が付いている。
「ご苦労。大事ないか」
「大事ありません。母様。雷神は三日後に来て三日居るそうです。風神が来てないので動くのが緩やかなんだと」
「やむを得ませんね。父は何か言ってましたか?」
「これを凌げば当分は安堵できるので頑張れというようなことを」
「なんとお優しいこと。色々教えて頂けるだけでも随分と助かっているのに」
小夜は鬼王丸を抱きしめる。
「お前も放っておいて済まぬが、此度はよく鐘つきを判断してくれました」
「大丈夫です。母様。ひな菊の走るのが速くなったので、ふたりで色々遊んでいますから」
ひな菊は頭をワシャワシャとされたくて、呼ばれるのを待っていた。
「おいで。お前も」
小夜に飛びつく。
「母には言ったか」
「帰ったと言いました。小夜様」
「むふーかわゆい」
小夜はひな菊の髪に指を入れてかき混ぜ、「わー」と笑い転げるひな菊を掴まえ頬摺りをした。
「いかん。皆を待たせていた」
子犬のように身軽に跳ね回り笑うひな菊を担いで屋敷に戻ると、いよいよ大雨かと緊張していた皆の顔が一気に緩む。
くめが驚いて、「降りよ、ひな菊」と叫ぶ。
小夜が「構わぬ」と言うのと同時に、ひな菊が「嫌だ」と答える。
「それはご無礼なの」
「だって母はしてくれないもの」
ひな菊は、とんっと飛び降り後から来た鬼王丸に向かって走り、いきなり跳び蹴りをする。
「卑怯だよひな菊」
「鬼王だから構わない」
二人が蹴り合いをしながら屋敷から出て行くのを、呆れた顔で見ていたくめが、「申し訳ありません」と頭を下げる。
「いや。ひな菊に言われて気がついた。私こそお前達親子で過ごす刻を奪っていたようだ」
「とんでもありやせん。小夜様」
与一がよく通る声で、居並ぶ列の奥から「どうか気にしないでくだせえ」と言った。
「くめは小夜様に担いで貰ったひな菊が羨ましいんでさあ」
「成る程。それはわかる」と幾人かが頷く。
湧き上がる笑い声に、くめが紅らめた顔を手で覆い、しゃがみこむ。
「もーっ何を言うのだ与一は」
「さすが亭主殿だ。嫁御の気持ちをよくご存じじゃ」
ひとしきり続いた笑い声が収まる。小夜が子等の出て行った後に目をやり「子は良いですね。可愛いい」と、言うと、皆しみじみと、異口同音に「左様でございますな」と頷いた。
「さて。知らせによると雨は三日の後に降り始め、三日のあいだ降り続くという」
ざわめきが消え、再び空気が張り詰めた。
「我々はこの雨による被害を最小限にして、この雨を最大限に活用するために長い年月、堤を築いてきた」
小頭が頷き、組頭が「おおっ」と答える。
「この雨は、我々と自然が如何に睦み合って生きていけるかの試金石となる。いつも言っていることではあるが、水の力を侮るな。万全の備えをして三日間は家を出るな。そして怪我人、死人を断じて出してはならぬ」
「はっ。承知仕りました」
「まずは棚田の裾にある三世帯を川向かいの避難小屋に移せ。あの家々は流れる」
「まことですか」
「いつもながらの驚くご賢察ですが」
「間違いない。昨年の嵐のとき床の下が川になっていた。どう考えても留める方策が無い。場所の問題であるからこの際良いところに移し替えよう」
「かしこまりました。ならばせめて家の材料だけでも留まるように綱など張って、杭を打ち込みたいと思いますが」
「それなら一度流れるに任せ、二町下流の小高い茂みに当たるようにしよう。一町の強い綱で結び繋げば円を描いて流れ着く」
「おお。それはご名案です」
「避難小屋にある吊り橋の引き綱は今のうちに引いておけ。各家の周りに溝を掘り水の流れる道を作れ。家には四日分の食事と灯り、五日分の水を備えさせよ。厠の壺・
小夜は次々と指示を出し、くめと、みずきがそれを書き留めていく。
今回は陣屋を設けていない。
家長は小夜の指示を履行した後、家族とともに家に居て、家族団欒の要となるよう触れ書が回された。
大雨が降る前日、村長以下の面々も引き上げて、幸田の屋敷には小夜以下、独り身の使用人が三人、松と忠兵衛、鬼王丸。それに与一の家族三人が残った。
割り当てられた部屋には寝具と着替えの衣服を置き、屋敷の広間にそれぞれの気に入った場所を見いだして、好きな姿勢で、ときを過ごす。
みずきは六助に手伝って貰い、二の蔵から卓を三台運び、それを連ねて、
「しばらく個々の膳は休ませて頂きまして、この卓を食卓とさせて頂きます」と言った。
更に席次を割り振り、「ご一同様がともに食事をお楽しみ頂く為で御座います」
そう言って一同がともに食事ができる工夫をした。
鬼王丸とひな菊を呼び「本来子等は親の元にあるべきではございますが、お二人はこのみずきがお給仕させて頂きますゆえ、私の両横においでなさいませ」
鬼王丸が「ありがとうございます」と頭を下げる。
ひな菊は鬼王丸との間にみずきが入るのが不満で、
「鬼王のご飯はひな菊がします。みずきは私のお世話をして」と鬼王丸とみずきの間に割って入った。
「まあ。ごりっぱ」
みずきが手を口に当て笑う。
くめが「みずき。褒めないで」と言い「これだもの」と吐息する。
鐘が八つを打った。お茶と、干した芋を食した後、鬼王丸とひな菊は縁側で、どこからか持ってきた俵を的に弓で遊んでいた。
ひな菊が射た矢を三間と四間の境辺りで鬼王丸が掴むのだ。
鬼王丸は、はじめ取り損ねていたが、目が慣れ矢筋が見えてくると全部の矢を掴むことができるようになった。
口惜しそうなひな菊に、小夜が、ひとこと策を授ける。
「一矢を緩く山なりに射て、その矢を追い抜くように早い二矢を射てごらん」
鬼王丸が山なりの矢に気を取られている間に、二射目が脇を通り抜け、山なりの矢も取り損ねた。
手を取り合って喜ぶひな菊と小夜に、鬼王丸が腕を組んで頬を膨らませると、くめが「三歩下がって、二番目の矢だけを注意して見れば良い。手を開いて下から上にすくうようにすれば交差した矢を一度で取れるはず」と教えて、俵に刺さった矢を抜くと、悲鳴混じりの声で、「ひな菊。この矢、鏃が着いているではないか」と言った。
「あたりまえ」とひな菊。
「何を今頃言っているのだ」と小夜がいう。
傍観していた者も「あっ。それは危ない」「鬼王ちゃんの腕に刺さったら大変です」 などと、急にやかましい。
それらの声をすべて無視して、
「鬼王。次いくよ」
矢を番えたひな菊が「あれ。小夜様、今、矢羽根が重くなった」と言った。
小夜が雨戸を一枚開けて外を見ると、大粒の雨がバンバンと地面を叩きつけ、白いしぶきが波のように近づいてくるのが見える。
「くるぞ」
雨戸を閉めた途端、戸板が破れるかと思うほどの音を立てた。
光が天空に閃き雷鳴が轟いた。
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