第2話 長月 そして完成
長月。
夕方になると、吹く風が優しく感じられる。
風が稲穂に波模様を作り、残照が籾を輝かせる。
田の水は既に抜かれ、刈り入れのときを待っていた。
鎌が研がれ、脱穀機は新しく開発された様々のものが数多く並べられている。
籾を入れる俵も高く積まれ、大八車も八台並び、万全の態勢の中、統領の訓示が伝えられた。
「刻はある。田は去年よりも少ないが新しい工法が上手くいったので実りが多い。最後まで気を抜くな。やりようは去年の稲刈りに準拠するので慣れて身に付けよ」
陣屋が作られた。今回は七人の村長が指揮を執る。小夜は後ろで、自分の考案した工法の運用を見て改善点を探す。
明け六つの寺の鐘が鳴り、昨年同様稲刈りが始まった。
米問屋の差配が、俵を運ぶ
「成る程。このような仕組みでございましたか。まるで
「ですが今年は幸田に併せて他の村でも稲刈りが始まるので、昨年のような大儲けは望めません」と言って帳面を出した。
「せめて最初の三百俵なりとも夜を徹して強力を走らせ、新米一番値をとるつもりでございます」と言った。
小夜の所には差配から、それほど確かな日和見がいるのなら、何故今年も雨が降り出す直前に刈り入れをしないのだと書簡が届いていた。
そうすれば近隣の多くの田の収穫が減り、また昨年のような莫大な利を得ることができるのに。という内容で、今後、商いのことは私に任せてほしいと書かれていた。
「構いません。これで良い」小夜が笑う。
小夜は米問屋を傘下に収めるとき、この差配の欲こそが、この米問屋を立ち行かなくした原因だと知っていた。
「山の工事も程なく終わるので、それ程の儲けは必要ない。それに他所が不作で困窮することで得る利益など、本来あってはならぬもの。儲けはほどほどにして、作物が皆に行き渡るようにせねばならぬ。それこそが長く利を得る商いのコツなのです」
明らかに小夜を侮ったものの言い方をする差配に、小夜が諭すように言った。
それでも何か言い返したそうな素振りを見せる差配に、
「私が今言ったことが理解出来ぬなら」と、笑みを浮かべて「お前は商いをやめて工人になった方が良いのかもしれぬな」と、差配の太りすぎた顔を覗き込み、震え上がらせた。
刈り入れが終わり、米の価格が過去の平均値に安定したと報告を受けた小夜は、工人にされてたまるかと、必死に働く差配の姿を想像して、「クスリ」と一人、笑みを漏らし「よくやりました」と労いの書簡を送った。
それから程なくして堤が完成した。
山から降りた者達が川辺を歩く。
身を清めに行くのだ。
明日正午、第一堤、第二堤に最後の
明日のために、点検は細部に渡り繰り返され、清掃も木の葉一枚まで
完成した水門の扉は枠の中にピタリと収まり、綱で引く開閉動作も適度な硬さでガタつきもなく、大工の腕の冴を工人達に見せつけた。
小夜も石工の『完成しております』と言う報告を聞き、一刻ほど早く堰堤に上がった。
新たにできた聖域で裸足になり、岩を磨いて、石工と供に布で覆う。しめ縄に
人々は既に未明から山に上がっていて、完成した堰堤に自分が運んだ石を見つけては声を上げて喜びあい、工事の感慨に耽った。
空を紫にした黎明は、刻とともに雲を紅から金色に染め変えて尚、輝きを増していたが、やがて遙か彼方の水平線から出た陽の一点の光芒が全てに取って代わった。
人々はどよめき、来光に手を合わせる。
小夜も、六年の苦難と、ただの一人も死人はおろか怪我人さえ出なかったことに想いを巡らせ、感謝の涙を流して両親の碑と鬼門に置かれた『鬼石』に礼拝した。
陽が天空に達した。
此の場所に、今来られる限りの村人が集い見守る中、第一堤に小夜の、第二堤に松と小夜の両親の名が刻まれた
湧き上がる拍手の中、小夜は、
「皆のこの拍手は皆のものであり、この堤によって出来る実りは村の物である。得た富は子を育て、子は世と人のために育つ」と言葉を述べて乾杯の音頭をとった。
小夜は山の衆を堰堤にあげ、これまでの労を村人と共に讃え、彼らが今後、番の組員として働くことを紹介した。
吉次が言葉を添える。
「本日、ここに堰堤の完成を祝う。その立役者である山の衆に、特別に賞する者がいないことを皆は不思議に思うだろうが、それは山の衆の全員が特別の功労者であるからだ」と言った。
「山の衆の働きは山だけではなく、多くの者が多くのことで助けられた。 少なくとも我が幸田の村では、共に助け合う仲間である事に間違いない」
「そのとおりだ」と拍手がおこる。
「だが、時が経ち、代が変わると昔のことは忘れられるものだ。いつかこの堰堤もここにあるのが当たり前のようになり、作った者の功績や苦労も忘れられるときがくるだろう。我が命は無論のこと。世に永遠といえるものはないのだ」
吉次は山の衆を抱えるように両手を広げた。
「この者達は、統領が村入りをお許しになったとき、無礼にも一度断った」
ごーッと聞こえる非難の声が上がる。
「理由は、身分が卑しいからだと言うのだ」
吉次の目に涙が滲んだ。
「儂は、この者達は何と言う馬鹿者であるかと腹が立った。我等が、幸田村が、統領小夜様が、そんな身分を分ける心の狭い奴らと同じに思われていたのかと情けなかった。そのとき統領は『可哀想に』と言われた。統領も儂も、ここまで自分を殺して生きてきた山の衆を受け入れるのは、我が幸田の村の努めだと思ったのだ。統領は全員の村入りを強制的に命じなされた。村入りを許したのではなく、お命じになられたのだ」
村人が小夜に向けて拍手をした。
「それゆえに山の衆は統領の直臣となる。土地は持たぬが百姓衆と変わることは無いことを汲んでくれ」
吉次の言葉に皆が拍手で答えた。
吉次が尚も言葉を継ぐ。
「もう一つは子供についてだ。この者達は村入りして子供が出来たら、子は親の出自を恥じるのではないかと気に病んでいた。儂らがそんな人間かどうか、何故分からないのかまことに腹立たしいのだが、統領はそれについてこのようになされた」
吉次は小夜が『聖域』として石工に削らせた岩を指し示す。
「見るが良い」
示した岩に貼られた布を石工と吉次が除くと、研磨した鏡のような面が現れ、そこに山の衆の名が刻まれていた。
吉次は山の衆に向かって言葉を続ける。
「統領の命によって、既にそなたたちは流れ者ではない。その上で、この
咆哮にも似た驚きと感動の声がした。
小夜が、
「さあ、みんな行って自分の名前を確かめよ。もし字が違っていたら」と石工を見る。
石工がドキッとした顔で首を横に振った。
「書き直しは利かぬので、今日からそれがお前の名だ。吉次、お前の名もあるぞ」
村人達の、わーっという笑い声と拍手の中、山の衆は石碑に駆け寄り、千三も自分の名前を見つけて、手で触り、言葉も無く立ち尽くして仲間と肩をたたき合った。
「俺はもう流れ者じゃねえ。子供にも誇れる村の功労者って奴だ。人に誰だと問われたら、幸田の者だと胸を張って言えるんだ」
「そうだ。幸田の名を汚しちゃあならねえ」
誇りというものを初めて持てた。千三達はそれがただ嬉しかった。
小頭の一人が、了助に言った。
「まあ座ってくれ。おめえに一杯酒を注がせてくれねえか」
「それは良いけど、どうしたってんだ」
「おめえはよくやった。怪我人が出なかったのは、どれだけかはおめえのせいだと俺は思ってるぜ」
「何だ。どうしたってんだ」
「こいつはよ」
別の小頭が了助を指で突いて言った。
「誰よりも早く来て登り道の点検と修復をしてるんだよ」
「おい。それじゃあ、おめぇはなんで知ってんだ」
「ハハッ。それがおめえ。あれだ」
また別の小頭が言う。
こいつはな、道具やモッコの点検をしてるんだ。
「そうよ。俺らの心意気って奴だ」
「クックック」という笑い声がそこ、ここで湧き上がる。
「楽しかったな」と酒を酌み交わした。「ああ。こんなに楽しかった仕事は無い」
「小夜様は、なんでこうも俺達を泣かすのが
「そうよ。やりなさることが嬉しすぎらあ」
「ご来光のときに、俺達に怪我人が出なかったことを感謝すると言って、泣いておられた」
「小夜様も泣くのかよ」
「それも俺達のためにだ」
「まったく。参ったな。それに、吉次様のあの言い方って何だよ。可笑しくてしょうがねぇや」
「良い村だな」
「ああ、良い村だ。この村の為なら俺は……」
あとの声はでなくなったようだ。
寺で撞く鐘の音が四つ、向かいの山から谺して届いた。
まだ八つには半刻ほどはある。
小夜は、それが鬼王丸の撞く鐘だと理解した。
いつのまにか西の空に、厚い雲が淀んでいるのが見えて、風の中に雨の匂いを感じ取った。
だがこれは雷神の匂いでは無い。刻は充分にある。
「雨が来ます。でも急がないで、ゆっくり」と下山を命じた。
男が、えいえいおーと拳で天を突き山路を降る。
女がそれに、えいおーと掛けて後を追う。
幸田村の鬨の声を山間に谺させながら村人が山を降りていった。
松を千三に託して山から降ろした小夜は、吉次、小頭と共に堤の最後の点検をした。
第一堤の注水門を開け、第二堤の放水門は下と中を閉じる。
堤の縁まで水が貯まると耐久力に不安がある。
上の放水門を開いて、山を降りた。
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