第9話  風神

 米は、例年の量以上が確保できた。


 今もまだ、風は地物を吹き曝し、雨は風の力を借りて下から屋根を、横から雨戸を叩いているが、蔵は積まれた米をしっかり守っている。


 道が、土色の川になって村を流れた。

 

 いつものように歩くのはままならない。だが人間は無力ではない。

 雨風の及ばぬ家屋の中に寄り合って語らい、笑顔で食事を取る。

 ゴーという音も、ヒューという声も、聞こえたときは既に通り過ぎている。


 人はただ休み、力を蓄えておれば良い。

 この屋敷は微動もせずに住む人間を守る。

 

 気が向けば、風の声に、耳を傾けてもみる。

 長い話ではない。どうせ、嵐は一つ所にとどまれないのだ。

「ほらね、ひな菊。風が呼んでるんだよ」

 風が雨戸を叩く度、退屈した鬼王丸とひな菊が外に気を取られて出て行きそうになる。

 小夜は「今出れば風に掠われるぞ。後しばらく待てば収まるゆえ、我慢をおし」と言い聞かせる。

 いずれにしても雨が上がり、風が止まらねば迂闊に出歩くことはできぬ。今のうちに二人には、出した玩具、絵草紙を片付けさせよう……と、見回したがいつの間にか影も無い。

「くめ。二人が」

 慌てて見回したくめが、留め具の緩んだ雨戸から風が吹き込むのに気がつき指で示す。 

 小夜が飛びついて開けると、ひな菊の手を握って走る鬼王丸の姿が見えた。

「こら」

 こらではなく、戻れというか帰れというか、言葉を選んでいる内に烈風が二人を包み宙に浮かせた。と見る間に空に舞い上がって行く。

 くめは「あっあ」と口を開けて言葉も出ない。

 二人が親指程の大きさになったとき、ようやく厨房に向かって「二人を追いかけて」と、与一に向かって叫んだ。

 ただ事ではない声に飛び出してきた与一は、くめが指差す彼方に、小指程になり尚も天空を目指そうとする二人を見て、唖然として座り込んだ。

「追いかけて」と泣きじゃくり与一を叩くくめの肩を、小夜が

「無駄じゃ。追いつけはせぬ」と言って抱きかかえた。

「おのれ風神め。人の子を勝手にもてあそびおって」

「今、風神と言われましたか」

「散らかしたものを片付けさせようと、僅かに目を離した矢先であった。鬼王丸は以前から風神に呼ばれていたに違いない。昨年の嵐のときもそのような気配があったので気に掛けていたが、此度はひな菊が付いていたのでよもやと思っていたのだ。まさかひな菊共々連れて行くとは」

「二人はどうなるのでしょう」

「命には別状無いから案ずるな。どれだけか経てば必ず帰ってくる。ただ……今回は長いやもしれぬが」

 小夜はひな菊が漢鬼にどう見えるのかが気がかりだった。ひな菊の祖母、与一の母は鬼との約定を反故ほごにしたのだ。鬼は一度でも約束を違えた人間とは、子々孫々まで交わることが無いと聞いた。

 与一はその遠因に自分の所業があることを知っていた。漢鬼の力を借りられぬことは覚悟しなければならない。ならばできることは待つことだけだ。

「すまねえ、くめ。ひな菊にもなんて詫びたら良いか。折角小夜様という鬼界に通じる方が居られるのに、俺のせいで娘を助けられねえ」

「与一。仕方が無いよ。あなたのせいじゃないもの。待とう。待てば良いのです。小夜様が帰ると言えばまことに帰ってくるのだから。ただ こうなればひな菊が鬼王丸様の重荷になりはせぬかと、それが気懸かりだ」

「なに。一緒に行ったのであるから一緒に帰るであろう。鬼王丸はひな菊を決して重荷になど思うものか」

小夜の言葉を聞き、くめと与一が抱き合って泣き、慰め合う。

「くめ。何年経とうとも無事で戻ってくるのならそれだけでいいじゃねえか」

「そうだ。小夜様。二人が遊んだ最後の様子をそのままにしておきましょう」

 くめは、青年になった鬼王丸が、美しく成長したひな菊を連れて戻り、幼い自分たちが現世うつしよで最後に遊んだ思い出に触れる姿を思うと涙が止まらないと言って泣いた。

「それはよいのだ。私も玩具を私がかたづけようとは思わなんだし、逃げれば誰かが何とかしてくれるという甘えは許されぬ、とは思っていたが……」

 小夜はそう言って「こんッ」と一つ咳をした。

「くめ。与一。お前達は勘違いしている」

「と、仰有いますと」

「あの二人が帰ってくるまで精々一日、長くてもそんなものだ。風神が去ってしまえば二人は鬼界から戻ってくるしかないだろう」

 そこまで言って、小夜は腹を抱えて笑い転げた。

「わッ私はとても二人が青年になるまで待つことなどできぬ」

「えっええっ。長くて一日。それはまことに」

小夜は可笑しくて息がつまり。頭だけをウンウンと振る。 

くめは真っ赤になって両手で顔を覆い座り込んだ。

「いやーッ」 

小夜はなおも追い打ちを掛ける。

「いや。それにしても、流石に童のときに散らかした玩具や物などは、青年になってまで憶えては居まい」

安心した与一も「確かにくめの妄想は美しい光景ではありましたが」と笑い出す。

 くめは泣き出した。

「ひどい。子を持つ親の気持ちが解らぬ筈もありますまいに。それに、私が勘違いしたのは小夜様の言い方のせいです」


「それは私は鬼嫁であるからな」

 与一がくめを抱きしめる。

「だが小夜様のおかげで子等を案じることがなくなった。儂らもこうして安堵しておれる」

「それは分かってるよ……あー恥ずかしい。他に誰もいなくて良かった。よし。くなる上は帰ってくる子等にこの怨みをぶつけてやる」


 風雨が収まりを見せた夕刻。漢鬼から『戻した』と小夜の『感』に働きがあった。


「二人が戻ってくる。姿を見たらばば様の離れにつれて参れ」そう与一に命じ、一足先に祖母と忠兵衛にことわりをいれる。

「風神と遊んだなどと余人には聞かせられぬ話になりましょうほどに」


 部屋に入ってきたひな菊を見て小夜が声を掛けた。

「弓を使ったのか」

 いつものように背負った弓には弦が張られていた。

 思い出した様に「はい」と返事をしてその場で弓に足を掛け、弦を外して巻き取り、再び 紐で束ねて背に負うた。

「それで。面白かったか」

小夜の問いに、鬼王丸が満面の笑顔で答える。

「はい。空に上がって上から見ると何があるかよく見えました。村の形も分かった。田も川も。川の先には海がありました」

「あれが海なのか」

「そうだよ。ひなぎく。鬼王も初めて見たけどあれが海だ」

「では山の田の先に滝があったのは見えたか」

「見えました。滝の水は落ちた先で二つに分かれて片方が消えているので不思議でした。

「二つに分かれていたと」

 小夜は紙と筆を頼んで鬼王丸の前に置く。

「滝から田の間を思い出す限り書いてみよ」

「はい。ひな菊も手伝うんだよ」

 滝壺の水が岩を回り岩陰で二つの水流に別れている様子を描き出した。一つは地表を流れて現在確認している水流。

 あと一つは石段の様なものをいくつか落ちた先で姿を消していた。

「鬼王、ここから田が続いてたよ。上に石で作りかけたお椀の半分みたいなのがあった」

「ひなぎく。そのお椀は『つつみ』って言うんだよ」

 鬼王丸が棚田と堰堤えんていを書き足していく。

「水はここから無くなったのか」

「見えなくなりました。母様」

「ひな菊もか」

「見えません。どこかに落ちて行きました」

「落ちたのだな。そうか。地下水路ができているのだ」

 小夜は確信して松に言った。滝の地形を知るものはここには松の他いない。

「我等は滝まで行くと目の前の大岩に目を塞がれてしまいます。しかしすぐに流れが現れるので、疑いも無くそれが本流だと信じていた。しかし岩の向こうにはもう一筋の流れがあったのです。その流れは我等が気づかぬうちに地下に入りいずこかに流れているのでしょう」


「それは確かに新しきことではあるが、だからといって何がどうなる訳でもありますまい。当分は今までのままでよいと思うが」

「ばば様。それが違うのです」


 六助に吉次を呼びに行かせた。


 皆も聞け。鬼王丸とひなぎくには難しいかも知れぬが、まだ聞きたいことが有る。我慢してここに居れ」

 笑顔で「はい」と答えるひな菊が可愛くて、小夜は、思わずひな菊の頭を「よいこじゃ」と言ってくしゃくしゃに掻き交ぜる。

「うわー」と悲鳴を上げるので益々面白がって頭を掻きむしる小夜を見て、くめは「これ程までに可愛がって下さる小夜様があれ程落ち着いておられたのに」と、取り乱した自分に赤面する。そう気がつけば、確かに命までの心配をしていなかった自分がいたと頷いていた。

もし小夜様とひな菊のどちらかを選べと言われたら一体どうしたら良いだろう。

 選ばなくても良い幸せがあると思った。

そうだ。もしそんなことがあるとしたら与一を代わりに出そう。と思って笑いかけたとき、

「いい加減にしなさい。統領ともあろう者が」と松の叱責が響いた。

 それでも、流石に小夜は「済まぬ済まぬ」と屈託が無い。

 そこに駆け込んできた吉次に、鬼王丸が描いた図面を見せて、もう一筋の水流を説明する。

「見よ吉次。これで池から溢れた水は、別の水路から逃がすことができる。私は以前から大雨の度に滝の水量と棚田の引き水の量に差が有るように思えてならなかった。そのわけがこれだったのだ」

 小夜は、今度は鬼王丸の頭に手を伸ばした。

「さて、そうであれば、工事が大幅に異なる事になる。水が引いたら一度見直さねば成らぬ」

 左手で鬼王丸の首を抱えて頭に頬摺りする。

「母様。やめて。またばば様に叱られますよ」

 鬼王丸の頭頂部は髪で見えぬが確かに頭骨が盛り上がっており、小夜はこの頭を愛した。

「それで、それからお前達はどうしたのか言うてみよ」

「あっ。ひな菊がなかなかの働きをしました」

 小夜の左手を振りほどき、鬼王丸が立ちあがる。

「我等は高くなり低くなりして、風神の所に吹き寄せられました。私は昨年来ですが風神とひな菊は初めてなのでお互いに驚き風神が煽ろうとしました。ひな菊はくるりと回りながら弦を張り、矢を射かけました。風神は面白がってひな菊を飛ばしたり回したりしましたが、ひな菊の矢は、五本の内二本が団扇と風袋に当たったのです」

「はい。当たりました。だから来年はこないと風神が言いました」

「母様。来年は雷神が同じ頃に長く居ると伝えろといっていました

松にはどうも理解が出来ない。

「聞けば何やら鬼神と遊んでいる様にさえ聞こえるが、恐くはなかったのか」

「恐くは無いです、ばば様。風神は前にも少しだけ遊んでくれましたし」

「恐くないですばば様。風神は小夜様と同じお顔です」

 小夜は聞き過ごす事が出来ない言葉を聞いた気がした。

「鬼王丸。それはまことか」

「はい。いえあの先程のひな菊のおつむをワシャワシャとされたときの顔と風神が団扇でひな菊をひっくり返して遊んだときの顔が、似ているような。……っと」

「そうです。小夜様」

 天真爛漫なひな菊の言葉に、小夜は頭を木槌で叩かれた気がして、両手で抱えた。

「鬼嫁ならば、褒め言葉でありましょうね」

 崩れる小夜に、くめの笑い声が突き刺さった。

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