第8話  傷

 男は気が急いていた。

これまで丹精込めて稔らせた田を人に刈らせて、自分は人の田を刈っているのだ。

 しかも刈り取りは最後の三日目だというのに、随分とのんびりした歩調だ。

 ザッザッザッ。三株を刈る。男の大きな手には、たったの三株だ。

「おうさッ」声を揃えて稲を後ろに置いて半歩進む。

 いつもの年の自分なら五株を刈って一歩進んでいた。

男は名を作次と言った。

 嵐が来るというなら間違いなく来る。その事に微塵も疑いは無かった。あの統領がそう言われたのだ。

 それだけに残された刻、残された稲穂の量が気になった。


鐘が五つ鳴った。もう、八時の刻だ。先程籾を蔵に入れたとき、六つが鳴ったばかりなのに。

刻は、刻を打つ鐘の数と同じように減っていく。

その焦りが思わず手の動きを早めた。

 鎌が左前にまだ残っていた男の右足首に当たった。 

「すまん」と立ち上がりかけた作次を制して、「何でも無い。続けろ」

 傷を受けた男は顔色も変えず、流れる血と傷に土を塗り込めながら、稲を刈り続けた。


刈った稲を脱穀し、干した籾と分けて蔵にしまう。

 作業が全て終わり、受傷した男が仮寝の屋に戻ったとき、伝令が男女のわらべを連れて男の前にきた。


「山の平佐様。統領が二人の成すに任せよとの仰せです」

 弓を背負った女児が桶に入れた水で傷口を洗った。

 男児が小壺の油を、再び血が滲み出した傷に塗り、薄い布を傷に巻き付けると、伝令が懐から鹿革の足袋を出した。


「これは褒美です。傷のある右側だけは今から治るまで着けたままにせよとのご指示でした」

「いただいてもよいのか」

「褒美ですから。それからこれも褒美です」丸い包みを出して男に渡す。

「あん入りの餅です」

 男の顔が、「ありがたい」とほころぶ。

「で、この童はお地蔵様の化身か」

「いえ。小夜様の鬼王丸様と小夜様の懐刀ふところがたな、くめ殿のひな菊です」

「驚いた。話には聞いていたがまことに居られたか。しかも薬など付けて貰えるとは……」


「楓太があなた様の傷を見つけて母様に報告しました。それで母様が鬼王に命じられました。鬼王は鬼の子故、持っている薬がよく効きます。でも土で血止めをしてはいけません。土には毒があります。薬で守れない土の毒もあります」


「そうです。鬼王は鬼嫁の子ゆえ、薬の効かないところがあります」

「違うよ、ひな菊。母様は鬼嫁じゃないよ」

「違わない。鬼の嫁」

「あっ。統領からのお言葉があります」

「なんと」男は座り直す代わりに背筋を伸ばした。

『よし』

「よし!」 

「はい。よしと伝えよ。あの男にはそれで伝わると。統領としての仰せでした」

 男は何度も頷いて言葉を噛みしめる。

「最早嬉しくて言葉も無い」

 三人は、男に一礼をすると帰路についた。

「楓太。走ってもよい?」

「足下に気をつけて、転ばなければね」

「ひな菊。陣屋で待ってるから楓太とおいで」

「いやだ。一緒に走る。楓太もついてこい」

「よし。倒れたら起こしてやるから泣くんじゃないよ」

「ひな菊は倒れないし泣かない」

 三人が風のように走り去ると、傷をつけた作次が酒を持って見舞いに来た。


「詫びのしようも無いが、今後何かあったら全て儂に任せてくれ」

「何の。お主のおかげで一生掛けても出来ぬ程の良い思いができた。先ずはこの餅を、儂と分かち合ってくれ」

「これは?」

「統領がお言葉と共にくだされた。儂のやせ我慢にご満足頂けたようだ」

「やせ我慢などであるものか」

「我慢をしたと威張る程の傷ではない。かといって何も無かったと知らぬ顔が出来る程には働けぬ。正にこの餅が我慢の値打ちであると教えてくださった」

「そりゃあ、まことか。この果報者めが。それで何とお言葉があった」

「『よし』と」

「よし、といわれたのか。これはよいな」

 二人は何度も頷いた」

「見よ。これを」

 こはぜを外し足袋を脱ぐ。

布をとると傷の上に膜ができ、早くも皮膚が塞がりはじめている。

「驚いた。最早これ程とは。息子の鬼王丸さまが手ずから塗ってくだされた鬼の秘薬らしいぞ。流石にたいしたものではないか」

「いや。良かった。お主の気が晴れていると、儂もどれだけか気が楽になる。さあ、この上は飲もうではないか」

「ふむ。飲もう。いよいよ棚田を残すのみになったという事だ。この調子なら明日の昼前には刈り終わるだろう」

「そうだな。考えてみれば儂だけが丹精込めて作ったわけではない。どの稲も同じように大事に育てられたのだ。明日からは大切に刈り取らねばの」

「そうとも。焦ることはない」

 二人は杯を合わせた。



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