第7話  与一 (其の七)

「与一殿。これへ」


 明け方、寅の四つ頃。与一を呼ぶ声がした。


窓の下。いつもなら、くめが水と塩を窓から渡してくれる時刻だ。

 小夜の声だと知り、窓の下に正座した。


 あさってには普通の食事に戻せましょう。そしたらここを出ていくことを許します。何がしたいですか」


「先ずこれまでのご無礼をお詫びしたいと思っております。それから頂きましたご恩にお礼を申し上げたうえで、お袋の墓に参りたいと思います」

「よいことです。母上もお喜びでしょう。でも恩とは何に」


「お袋を成仏させて頂いたご恩。弔って頂きましたご恩。あっしを真人間に変えていただきましたご恩。それからあんなに欲しかった銭や物が何にも欲しくなくなりやした……。数えたらもうキリがありやせん」

「変わりましたね。以前のあなたであればこの蔵に閉じ込められた怨みを言ったでしょうに」

「怨みも何も、あしのような者は死んでも文句が言えたもんじゃありやせん。口惜しいのは、お袋を死なせたことと、今のあしにはどうやっても、このご恩を返すことができないことなんで」 

「返せますよ。返してくれますか」

「ほんとうですか。ありがてえ。どうぞ何でも仰有ってくだせえ」

「その前に何か宝物が見たいとか、欲しいとかいう約束が残っていました」

「いや。とんでもねえ。どうかそんな話は無かったことにして下せえ」


 与一は慌てて壁に向かって辞退の手を振る。

小夜はその様子を気配で感じてクスッと笑った。


「そうは言ってもあなたはすでに宝の山の中に居る。気がつかないだけなのですが」

「へっ。そうなんですか……」


 明け方の白い光が窓から差し込み始めた。その光で蔵の中を見回した。


「宝は物だけとは限りません。この蔵には書があります。それを読み、理解すれば、知識という宝があなたのものになります。知識は考えを広げ深めることができますから、智慧にもなります。ものの道理を知ることはあなたの、なによりの宝になるでしょう」


「あしが拝見させて頂いてもよろしいんですか」


「良いですよ。奥に、硯と紙、筆の入った経机がありますからそれを使いなさい。字や読み方が判らなければ、くめに教えて貰いなさい」


 控えていたくめが台に乗り、いつもの水と、重湯や墨を差し入れて、言った。


「判らない字や文字があれば紙に書いて私に渡して下さい。そうしたら、手習いにもなるし」

「てことは、おくめさんもここの書は読まれたんで」

「はい。この屋敷の使用人は、皆、一通り読み書きと算術ができなければいけないので、私は十二でこちらに参りましてから、小夜様に読み書きや書に書かれた意味などを教えて頂きました」

小夜は「懐かしい」と言い、

「そうでした。あのときは十二でしたね」

 くめも嬉しそうに、そのときそらんじた論語を唱えた。

子曰しのたまわく、学びて時にこれを習う。また喜ばしからずや。ともあり、遠方より来たる。亦楽しからずや。人知らずしてうらみず、亦君子ならずや」

 小夜も頷き、 

「子曰く、吾れ十有五にして學に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。……。お前は十二で、少し早いのかとも思いましたが、まるで砂山のように教えたことを吸い込んだ」


「はい。小夜様は十歳で学ばれたと聞き、少しでも近づきたかったのです。何よりも、人の値打ちは何を考えることができるか。何をすることが出来るかで決まるのだと教えて頂いたことで生きる勇気を頂きました」


「ゆうべ、おとねさんがそう言ってやした。おくめさんも、その……、人の生き方みたいなものは知っていなさるんだと」

 くめは恥ずかしそうに小夜を見る。

「もう。おとねさんったら。それでは私が自慢しているみたいです」


「くめでは無く、おとねがお前のことを自慢したいのです。お前のできが良いので嬉しいのですよ」


「では、与一殿と、もっと精進しなくてはなりませんね」


「おお。良い心がけです。与一殿が望んだ働かなくてもいい生活を今少し続けますから、共にしっかり学べば良い。この世はやがて、生まれた全ての者がただ学ぶだけの年月を過ごす時代が来ると、私に告げる者がいる。その時が来るまでは、それこそ『学びてときにこれを習う』ということです。また、くめには訊かれたことを答えることで知識は、より身につく」


「はい。よくわかります。学びて思わざれば則ちくらし、思いて学ばざれば則ちあやうし。ともありました」


「そうですね。与一殿も学ぶ程に先のことを色々と思案ができるようになる。それから、与一殿には日に一度、先生が剣と体術を教えます。身体も鍛えなければ」

「小夜様に倒されて泣いているようでは、男として情けないですからね。少なくともここに居る間に何かあれば小夜様や、女ご衆を守って貰わねば」


 ふふっと笑うくめを小夜は軽く睨み、

「まあ。あのとき、折角下がらせたのに。見ていたのか」

「私達は皆見ていました。だって見知らぬ男の人は何をするか分かりませんもの」


「おくめさん。そりゃあ違います。小夜様程の技がある方を守るなんざ畏れ多い」

 くめが呆れた声で、


「何を言うのです。相手がどんな使い手か判らぬ以上、もしものときは我が身を盾にすることでご当主が時を稼げるではありませんか。ご恩返しとは頭で出来なければ身体でする。そういうことでしょうに」

「そうか。気がつかなかった。おくめさん。どうかそういう所から教えてくんなせい」

「こんなことは教えられてどうこうするものではありません。心構えがあれば身体が勝手に動くものなのです。あなたはまだご恩の感じ方が浅い」


「くめが厳しいこと」小夜が笑う。

「くめ。もうそれぐらいになさい」

「はい。申し訳ありません。つい口が過ぎました」


「物事を教えるに、方と法があります。叱っては駄目です。褒めて教えなければ」


「はい。心得ます」そう言ってから手を合わせてパンと叩いた。

「あっそうでした」

 そういえば、この屋敷に来てから雑巾の絞り方から米の炊き方、配膳から座敷内の歩き方まで、何一つとして、たきやとねから叱られた記憶は無かった。利発だと皆に言われてその気になり、自分で憶えたつもりになっていたがそんな筈がある訳がない。そのことに、小夜の言葉で初めて気がついた。


 くめはあらためて統領家の懐の深さに顔を赤らめ、当主になった小夜の優しさに涙を滲ませて頭を下げた。


「小夜様。私、一生ここに居たいのです。居らせて頂けますか」

「大丈夫。お前はここの皆が守っています。年季が明けても誰にもお前は渡さない。そしてお前の働きはお給金でお前に渡しますから、自由に生きていける。そしたらそれこそ私の右腕になって、商いを手伝って貰うから、それまでに算術などもしっかり学んでおいて」

「有り難う御座います。お役にたつように努めます」


 くめの涙声を聞きながら与一は「そりゃあ俺だって、できることならここで使って貰いたいもんな」


 そう呟きながら、くめに「よかったな」と気遣う心が生じていた。



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