第6話  与一 (其の六)

 七日が過ぎた。


 与一は生きていた。 


 明け方、いつものように水と塩を与えられた与一は、くめの指示通り、指につけた塩で口を洗う。


 朝の空気が何時もと違うざわめきをしていた。

 すべての感覚が研ぎ澄まされて、ざわめきの元を探ろうとしている。


 遠く離れた台所から、ミカンが運ばれてくるのが与一には判った。

 ミカンの香りと男女二人の足音は、いつもの出し入れをする窓を通り過ぎて、扉の前に行きそこで止まった。


 六助が開けた扉から、膳を捧げ持ってきたのは賄いを預かるとねだ。

 金銀蒔絵の膳に漆塗りの椀。それにミカンのむき身が三房載せられ、青貝の螺鈿をちりばめた箸が添えられていた。


 七日ぶりに出された食物だった。


 与一は正座をし、ミカンに合掌して礼をすると一房口に含んだ。


 それは甘く、苦く、酸っぱく、瑞々しく口を充たした。口は飲み込むことを惜しみ、喉は力の限り飲み込もうと蠕動した。


 二房めは一口噛んだまま舌を当てて口を動かすことを止めた。


 溢れる液を飲み込み、歯ではなく、舌で粒を押さえて味わい尽くそうと試みた。


「ミカンがこんなに美味い物とは知らなかった」


 小夜の昼食を粗末だと言いながらむさぼり喰った自分を思い出した。今ならどれほど有り難いと、どれ程美味いと感じることができるだろう。


 食い物を粗末にした自分が情けなかった。恥ずかしかった。悔しくて泣いた。ミカンの甘さが切なくて心を震わせた。


 微かな記憶が、母が最後に食べさせてくれたのがミカンであったことを教えてくれた。

 三房めは、二房めよりも、ときを掛け、惜しみながらゆっくりと飲み込んだ。


 あのとき母が与えてくれたミカンは、その時に母が手に入れることができた食い物の全てだったに違いない。母は、自分の命ぎりぎりの食い物を俺にくれた。

 

 その母親を俺の所業が絶望させた。


「おふくろ。申し訳ねえ」

 与一は両手を突いて頭を垂れた。


 とねが言った。

「今でこそ言うのだけどね、統領様は本当にあなたのことを案じておられたんだよ。 あなたの水の飲み方ひとつにしても、初めは筒を差し入れると同時に飲み干しただろ。それを知った統領様はすぐに小分けにして飲めるよう指示を出された。小さな竹筒を四つ作らせたんだ」

「そんな竹筒は無かったぜ」

「あれは最後の手段なのさ。そういう準備をしておいて待たれたんだよ。水は命だって事にきっとあんたが自分で気がつくって信じてた。あんたをじっと見つめながらね」


「そうだったのか」

「あんたは飢えを我慢して水の一滴一滴を大事に飲み始めた。とうとう空の竹筒を頂けないかと言った。私が何に使うのかと聞くと水を貯めると」


「ああそうだ。あのときから俺は命を貯めるみてぇだと、我慢することが面白くなってきたんだ。すると不思議と腹が減った感じが薄れた」


「それをお伝えしたとき、お小夜様は、それは嬉しそうに笑われた。私はあんなに美しく、優しい笑い顔を見たのは初めてだ。『ああ。これで与一は命の尊さを知ることができた』そう言われて涙を拭かれたのさ」


「いい話が聞けた。おとねさん。小夜様がそれ程俺のことを思っていなさるとは知らなかった」


 とねが膳を持って立ち上がった。

「勘違いをするな。与一殿」

 頭上から睨みつける。


「小夜様がお喜びになったのは、あなたを殺さなくてもよくなったからなんだよ」

「……」

 啞然として口を開けたままの与一に

「改心しないままのあなたのような人はこの世に居ない方が良いに決まってるんだから。小夜様はあんたのお袋様に改心しなければ殺してくれと、そう頼まれていなさった。だから私達もその覚悟であんたを見ていたんだ」

 とねがたたみかけた。


「俺には生きる値打ちが無えってのかい」

「盗人にそんなものがあるものか」

 与一は、力なくうなだれる。

「確かにそうだ。じゃあ俺は何のために生かされてるんだ。何のためにまれてきたんか分からねえ」


 それを聞いたとねの声が、弟か息子にでも話しかけるように優しくなった。

「馬鹿じゃないのかあんたは。生きる値打ちってのは自分で作るんだよ。そんなことはうちじゃあ一番下のくめっていう小娘だって知ってることだ」


「ふんっ」と鼻を鳴らして、

「何にしてもあんたは今日から復食する。最初は果物をすり潰した物からだけど、今のミカンの食べ方を見る限りそれで大丈夫だろう。あんたは気がついてないだろうけど、他の何を食べても、今は飲み込めないんだよ。唾が充分出ないんだからさ。それにね、もう少しであんたは何を食べても味が分からなくなるところだったのさ。それを見極めたご当主には、皆、舌を巻いてるんだよ」


 与一は、とねのぞんざいになった口調が嬉しかった。

「いろいろ手間を掛けて申し訳ねえ。どうかよろしくお願えします」

 頭を下げる与一に

「その言葉を言えりゃあ、あんたにも少しは値打ちがついたってことだ」

 とねが去り、六助が扉を閉めたが錠は掛けられなかった。

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